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宮地灯の育児嚢(いくじのう)

作者: 第六感

前作に続き紆余曲折あって2次創作ではなくなりました。

「破水したかも」

 宮地灯はみやびからの電話を受けるや手提げカバンをつかんで地方検察庁を出た。エレベーターの中で検察バッジを外す。きっと今日電話がくるだろう、そういう予感がしていた。「もしもし? あのね、あーちゃん。これって破水したのかも」と。

 タクシーの姿を見つけると彼女はなりふり構わず両手を高く上げ乗車の意思を示した。空車かどうかは確認していない。幸いこの車は、つい先ほど東塔駅からのカップルをおろしたところである。駅から離れたところに乗せて、次は駅の近くまで乗りたい人を乗せられた。運転手にとってもこれは幸いである。

「東塔医大病院まで!お願いします!」

「はい、どうぞ」

 彼女の指示に対して運転手はたじろぐ様子もない。温和そうな返事をして、緩やかに発進した。焦っている自分を顧みることになり、灯は一息ついた。

「お急ぎのようですね」

「ええ、はは、まあ」灯は息を整えた。タクシーの姿が見えるまでは走って駅まで向かおうとしているところだった。「急に産気づいてね」

運転手はわずかに驚き、ラジオの音量を下げた。聞き違えたかとも思った。灯の身体が出産に近いようには見えない。

「そうでしたか。揺れが少ないように、道を選んでまいりますね」

 それでも聞き返すようなことはなく、速度をそっと落とした。

「ああ、違います!速度優先で!」灯は自分の腹部にポンッと手を置いて笑った。自分の言い方が誤解を招いたことを面白がった。「私じゃなくて親友の出産なんすよ」

「そうでしたか」車体の速度がもとに戻った。

「旦那のやつがね、すぐには来れないって言うんですよ、けしからんでしょう!」

「おや、それは」にやりと笑った。「“けしからん”ですな」

 うんうんと、彼女は大げさに深く2回うなずいて、「さすがに立ち合いはできないでしょうけど。それでも、近くにいてあげたいじゃない」

「きっと」また彼が心なしかアクセルを強く踏んだようでもある。「近くにいれば、伝わりますよ。人間ってそういう不思議なところがあるんです」

 運転手がべらべらと、長男の出産に立ち会った時の話が、いよいよ佳境に入ろうかという頃、医大病院の前の交差点に捕まった。

「これでお会計お願いします! 余らないと思いますけど、取っておいてください。」

「はは、ピッタリですよ」

 面会の場所も手続きも一通りわかっている。彼女がここに来るのは2回目だ。


「いやー、まだぜんぜん。おしるしがきて、めっちゃ痛かったから、あっこれはもう来るぞ、言ってたやつだぞって、思ったんだけどなあ」初めてここにきたとき、みやびが大きくなったお腹に手を当てて気楽そうに言った。そうだ、どんな時でも彼女はつらそうには見えなかった。みやびがそんなことを言っていたのは一昨日のことである。

「10~15分おきに規則的にやってくる陣痛が、1時間くらい続いたら病院に来てください」といわれたらしい。「1時間に6~8回陣痛がきたら、ということです」

「数え間違えちゃったかなあ」とはにかんでいた。

「俺も急いできたんだけど、コイツもうそのときにはケロッとしててさ」

 白河隼人が呑気な顔をしていて大変腹立たしく思った。

 予定日は2週間過ぎている。彼も立ち合い出産に向けて予定日に合わせて仕事を調整しているのだが、やはりこればかりは、赤ちゃん次第だった。

「なあーいつ会ってくれるのかなーこっちも結構悪くないぜー」彼はよくみやびのお腹に目線を合わせて話しかけていた。灯は「目線といえば、逆立ちした方がいいんじゃないか」という冗談を思いついたが、言えないでいる。本当にやりかねないような気がしたし、白河レベルの発言に思われたからである。

「私も、紹介してほしいな。ママと、パパのお友達なんだよって挨拶したい」

 だから灯も腰をかがめて彼にそうあいさつした。

――彼。ちなみにこの日生まれるのは、息子である。

 分娩室の前まで駆け込んでみるとやはりまだ白河隼人は到着していなかった。子供の元気な泣き声も聞こえてはこないし、大人の悲痛な泣き声もない。みやびは他の命とともにまだそこにいる。

 灯は父親のような顔をしてソファに体を預けた。膝に手を当ててうなだれる。母体の無事を祈ってやまない。

 宮地灯、4歳の夏。みやびとは、おじいちゃんのお葬式で初めて会った。初めて会う同い年の子だった。自分の幼稚園では見たことがないから、違う地方にいる地元の人の親戚なのだと思い込んでいた。葬式には地域の人が集う。

「うちのみやびちゃんとあそんであげて」と言ってくれたのは、おそらく口ぶりから早田家の奥様だった。灯に当時の記憶はない。

「うんっ! あそんできて、あ・げ・る」

 みやびと初めて会った時を思い出すと、自然と灯の眉間に手が伸びる。羞恥のために何度も反芻してしまい、定着しきった記憶だ。痛々しい。

 彼女はまだ自分に目覚めてなどいないかのようなぼんやりした顔で、大人たちに囲まれていた。記憶の中の灯が彼女に手を差し伸べる。


「みーやびちゃん、あーそーぼー」


 幼稚園の友達にするように、気安い誘いをしてしまった。彼女は、小さい人間を見るのははじめてだとでもいうように驚きつつ見下ろし、そしてその手を取った。

 その時どう遊んだかは覚えていないが、彼女とはそれ以来の付き合いである。

 誰かの法事・葬式で再開するたびに、例えばビールの王冠を集めて、おままごとをした。

大人たちの中で二人だけの世界。小学校で再会してからも、また白河や前原といった地域の子と遊ぶようになってからもずっと二人だけの世界があった。彼らには男の子として遠慮があったことも大きい。これからもそうなのだと信じていた。

 

 高校生になったみやびに家庭教師がついたことは聞いていた。早田家の事情は本人よりも先に知れ渡る。頭だけは上等なのがついているらしく地域の評判がいい。二人で遊んでいるというのに「先生がいらっしゃったわよ」なんて言われたら、みやびは勉強部屋に行くしかない。約束の時間よりも早くから我が物顔で早田家に出入りしていた。教育熱心で結構なことだ、とされているのも灯にとっては気に入らないことであった。ただ彼のおかげで、灯はみやびのために落としていた志望校を実力相応のものに戻せたことは無視できない功績でもある。もっともそれに対する感謝は彼を先輩と呼ばなければならない屈辱を上回ることはなかった。

 ましてや、交際を始めたと打ち明けられたときには、灯は彼女の部屋で文字通りひっくり返った。信じていた天地がひっくり返ったような衝撃である。そういえば早田家にやけに歓待されていたではなかったか。

 早田家のお膳立てに反して、みやびと彼氏さんとの関係がうまくいってないことはかなり喜ばしいことだった。みやびは男の汚いところを知らなかった。誰からも大事に大事にされて生きてきた彼女が人間関係を清濁併せ呑むのは難しかった。そういう意味ではいま白河隼人はうまくやっている。

「だから、困ってるわけ。宮地ちゃんもそう思うでしょ?」

「そうですか? そういうところもみやびはかわいいんですけどね」

 奴から『相談』を受けることもあった。終始相手にしていなかったが、逆上して手を出して来たこともあった。彼氏さんは、悪い意味で男の子だった。二人の世界に彼は必要なかった。

 あの日、みやびに呼ばれた雨の日。私たちは本物になった。灯は生暖かい、彼の、口を、永遠に、硬くガムテープで閉じた。


 分娩室から鳴き声が聞こえてくる。

 長身痩躯のスーツ姿を見て、助産師の畠山は宮地を呼び入れた。お産のあと分娩台の上で過ごす時間は意外と長い。

「赤ちゃん、抱いてあげて」しわくちゃの叫ぶ塊を、みやびは抱えていた。一般にカンガルーケアという。これを受け取った畠山は新生児室に連れていきたいところだったが、この抱っこが夫の自覚に必要だとも考えた。スーツ姿の人間がしっかりと受け取ったことを、2度確認して、そうっと手を緩めた。


「生まれたのね」ちいさな身体を抱きながら。

 彼女はこれが自分とみやびとの子供であるという想像をした。

 白河隼人が到着するまでつかの間の幸福に浸っている。

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