*31* 0は1になり得ない
「雪ッ!」
すがりつくように、細いからだへなだれ込む。
耳をすませば、トクン……トクンと規則正しい心音。胸だって、上下してる。呼吸が、聞こえる。
「生きてる……っ! 雪っ、あたしだよ、幸っ!」
うるさいくらい呼びかけても、彫りの深いまぶたは固く閉じられたまま。
やさしいほほ笑みを浮かべていた口もとも、酸素マスクのようなものに覆い隠されて……現実を、突きつけられた気がした。
「それがなかったら、寝てるみたいだろ?」
「うん……ねぇ楓、雪、生きてるんだよね……?」
「生きてるよ。だけどこの5年、一度も目を覚ましたことはない」
「それって……」
「植物状態、ということです。お気の毒ですが」
「だから……あたしに黙って」
「楓くんも悩まれていたんですよ。真実をたえるべきか、否か」
「なにも知らせないままのほうが、ユキさんは喜ばない。……そう思ったから」
たしかに会えはした、けど。
雪が、目を覚まさない……?
自分で息をしてるのに……?
「ずっとこのまま……話もできない……?」
「5年間も意識不明ですから、脳に機能的な障害が残っているのかもしれません。仮に意識を取り戻したとして、日常生活……いえ、意思疎通をはかることも、難しいかと」
「……そんなぁっ!」
目を覚ましても、あたしのことを覚えていないかもしれない。かといって、新しい想い出を作ることさえ難しいだなんて。
「こんなのって、ない……っ!」
最愛の人は、物言わぬ人形。それはあたしにとって、ある種の死刑宣告に等しい。
「……笹原さん、少し外してくれませんか」
「楓くん……」
「なにかあればすぐに連絡します。いまは、俺たちだけにしてください」
「……わかりました」
丁寧なお辞儀を残し、そっと退室する笹原さん。彼を見送った楓は、雪にすがりつくあたしのそばにしゃがみ込む。
「俺、いまはじめて雪兄さんのこと恨めしく思った。……なにユキさん泣かせてんだよ」
雪だって、なりたくてこんな状態になったわけじゃない。そんなの百も承知。
それでも、ぶつけどころのない感情が、楓とあたしに恨みつらみをならべ立てさせる。
「最低だ、俺ら置いてくし」
「自分勝手」
「言いたいことだけ言うし」
「独りよがり」
「……こうして文句ばっか垂れてるから、もどって来づらいのかな……」
「……それもあるかもしんない」
「会いたいね」
「うん……会いたい」
「雪兄さん、可愛い弟が首を長くして待ってます。可愛い可愛い彼女さんもいます」
「います……」
「ずっと寝てると、俺がもらっちゃうよ?」
「もらわれちゃいます……ピンチです」
「目を覚ましてくれ……雪兄さん」
「声聞かせて……雪」
長い長い沈黙。返ってくるのは、静かな呼吸音のみ。
絶望って、このことを言うんだ……
「端から見たら、あたしたち、すっごいシュールだよね……」
「笑うやつは、俺がブッ飛ばしてやるよ」
つらいのは同じはずなのに、楓は気丈にふるまってる。あたしだって、いつまでもへこたれてるわけにはいかないんだ。
「雪……」
梳いたクセ毛は、ふわふわ。なでられるの、好きだったよね。あたしはそんな雪が、大好きだよ。
髪を流して、あらわになったひたいに、口づけをひとつ。
ゆっくり顔を上げる。雪は、安らかに眠ったまま。
「やっぱダメかぁ……」
姫でもなんでもないあたしのキスは、力不足もいいところだ。王子の眠りを、覚まさせてあげられない。
「……仕方ないよね。0は1になり得ないんだから」
「…………ユキ、さん」
「楓、連れて来てくれてありがと。……もどろ」
我ながら、よくできた作り笑いだった。
なのに、クンッと引っ張られる腕。
「0は1に、なり得ない……」
オウム返しのようにくり返す楓を、見上げる。
「……かしいだろ、これ」
「楓……?」
「おかしいよ! ユキさん言ってたじゃん、雪兄さんは自分を犠牲にしたって!」
「……そうだよ。あたしを助けるために、雪は自分の未来を、捨てたの」
「だからおかしいんだ! この状況が!」
「楓、意味がよく……」
「0は1に、なり得ないんだ!」
気づいてよ、と。
肩を揺さぶる訴えに、いま一度だけ思考をめぐらせる。
(0は1に、なり得ない……?)
――あたしは、筋金入りのアホなんだろうか。
散々思い悩んでおいて、あと1歩の領域に、ふみ出せなかったなんて。
「楓っ! どうしよう……あたし、とんでもないかん違いして……っ!」
言いたいことが言葉にならない。頭の中がグルグルしてる。ドクンドクンと鼓動がうるさくて、息苦しくさえ感じる。
「やることは、ひとつしかないだろ!」
0は1になり得ない。その法則は変わらないけれど。
いまあたしたちの手の中には、起爆装置のスイッチがある。託したのは、きっと神様。
手を握り合い、顔を上げる。胸をいっぱいにふくらませるくらい、息を吸い込む。
それが、闘いの合図。
【Next】
出会いは、お互いバラバラだったね。
それでもぼくは、きみと〝家族〟になりたかった。




