*30* 陽だまりの淡雪
自分の嗚咽で、目を覚ました。
「雪……雪……っ」
どれだけ守られていたか。どれだけ愛してくれていたか。
彼がいなくなった後、何度も夢に見る。
関節の痛みや、腕の擦り傷が完治しようとも、心にぽっかり空いた穴は埋まらない。
「会いたい、声が聞きたい……あたし、雪と生きたかったよ……っ」
何度夜を越しても、忘れることはない。
雪、早いとこ戻ってきてよ。いまならあたし、怒んないから……
「ユキさん、起きてる?」
目元を袖でぬぐい、病室のスライドドアとは反対側に寝返りを打つ。狸寝入りできれば万々歳なんだけど、遅かった。
「おはよう! 駅で美味しそうなチョコレート見つけたんだー。もー買いすぎちゃった」
「……さすがスイーツ男子」
「チョコは正義だと思います」
「真顔やめて」
「ユキさん、そっち向いてんのによく見えてんね」
「後頭部に第3の目があるんで」
「マジか、お師匠さますげぇ……!」
いやいや、乗っかってくんなよバカ。とかなんとか思ってるうちに、できたバカ弟子は着々と用意を進めるんだ。
「緑茶でいい? なんかどっかの偉いショコラティエが、チョコと一番食べ合わせいいの、緑茶って言ってたらしいから」
「熱いのはイヤ」
「あっ、そーいやユキさん、猫舌だったっけ? かわいいな」
「やかましいわ」
「愛を込めてふーふーします。なんならいっそ、あーんまでしちゃいませんか」
「しちゃいません」
「1個! チョコ1個だけでいいから!」
「必死やめろバカ!」
らちが明かない。サイドテーブルの雑誌を投擲したら、スパコーンと頭にクリーンヒット。
ところが楓のやつは、「ユキさんが構ってくれた……!」と、あろうことか拾い上げた雑誌をぎゅうぎゅうしやがるではないか。
(……もうどうとでも解釈してくれ)
盛大にため息をつき、起き上がる。全部あげますとばかりに用意されたチョコは、18個入りの、色も形も違うやつで。
ボーッと眺め、華やかな色彩の隅でちょこんと座ってる小振りのシルエットに、ギクリとした。
まんまるくて、ツヤツヤしてて、余計な装飾は一切ないチョコレート。
……あたしにヘラヘラ笑いかけてくる、あの瞳みたいだった。
「ユキさん? どうかした?」
「あ……なんかちょっと、思い出し泣きっていうか……」
「もしかしなくても……雪兄さん?」
チョコレートをちらっと見た楓は、緑茶が湯気を立てる湯のみをサイドテーブルに置くと、あたしのそばに椅子を引っ張ってくる。
「ごめん……楓が励ましてくれてるのに、情緒不安定で」
「…………」
「わかってるよ! 雪はいないって……わかってる、けど……」
「もういいよ」
楓のにおいが、ふわりと香る。
こうして励まされるのは、何度目だろう……
「俺が代わりに、めいっぱい愛そうって思ってたけど……やっぱダメだ。ユキさんには、雪兄さんがいなくちゃダメなんだ」
ぎゅううっと苦しいくらいに抱き締めて、身体を離す楓。
ハッとした。
目前の表情に、見覚えがあったからだ。この間、なにかを言おうとしたときの……
「この先どんなことがあっても、きみは雪兄さんを好きでいるって言ってくれた。俺は、その言葉を信じるよ」
言うが早いか、楓は立ち上がってナースコールへ手を伸ばす。
「3人で行くよ。事情知ってるの、笹原さんくらいだからさ」
「……話がよく、見えないんだけど」
「行きながら話す。さ、準備してユキさん」
「ちょっと楓!」
ベッドから連れ出され、かと思えば病衣の上からカーディガンを羽織らされ。
「はいはーい、お呼びの笹原で~す」
「ちょ……気が抜けるんですけど」
「肩に余計な力が入ってると、五十肩になっちゃいそうでねぇ」
「それ笹原さんだけだから!」
「あ、歳はそこまで行かないんだけどね、医学的に四十肩っていう疾患はないので、五十肩」
「そんなプチ情報いらない!」
そうこうしてるうちに笹原さんがおいでなすって。状況がわかってないのは、当事者であるはずのあたしだけってか。
「佐藤さん、ビックリたまげて心肺停止に陥っても大丈夫ですよ。僕がいますからねぇ」
「いや笹原さんはあくまで付き添いなんで。救命措置なら俺だってできるし!」
「一次は、ね?」
「う……」
「僕は二次救命措置までできます。どやぁ」
「~~~っ、もう行こユキさんっ!」
相変わらずサッパリなんだけど……ひとつだけ、わかることがあるとすれば。
「大丈夫。なにが起きても、俺の人工呼吸と心臓マッサージでユキさん救ってみせる!」
……下手したらブッ倒れかねないなにかが、あたしを待ち受けているということ。
* * *
黙っていたことがいくつかある、と、楓は切り出した。
「紗倉のことだけど。あいつ……死んでたよ」
「まぁ……屋上から落ちたし……ね」
「そうだけど、そうじゃなくて。死んでたんだ……5年前に」
「……は?」
「全身強打による、即死だったそうですよ。聞けば、ビルを訪れた人々がろくな目に遭っていなかったようですし、地縛霊にでもなって、怨念をまき散らしてたんですかねぇ」
「笹原さんって……理解あるんだね」
「言ったろ? 事情知ってるって」
「はは。この仕事に就いて長いですからね。ちょっとやそっとのことじゃ、動じなくなりましたよ」
廊下に出て、数分経たず。早くもリアクションに困る話題とご対面とは。
「楓は、どこでそれ聞いたの?」
「ややこしくなるから、いまは保留にしとく」
「あれ、言わないんですか? 佐藤さんとも無関係じゃあないでしょう?」
「できるだけ混乱させたくないんだってば! 後で必ず話すから!」
茶々を入れるのは、あたしを気張らせないため。さりげない気遣いが嬉しい。
でも、ちょっと不思議だ。なんだか笹原さん……楓の弄り方が、上手すぎるというか。
「楓と笹原さんって……付き合い長い?」
あたしの言葉に、半歩先を行く楓は無言でうなずき、半歩後ろを来る笹原さんは苦笑。
「そりゃあねぇ。重傷の楓くんを見つけたの、僕ですからね」
「え……笹原さんが、ですか?」
笹原さんが話すには、こうだ。
5年前のクリスマス。当時、搬送する時間も惜しいほど、切迫した状況だったらしい。
救命救急の心得があった笹原さんは医師と共に駆り出され、倒れた楓を発見したのだと。
そんな経緯もあり、楓の担当看護師を務め上げたという笹原さん。親しくないわけがない。
「中学卒業から大学生に至るまで、楓くんのことは知っていますよ。半分パパみたいなもんです」
「……いまそういうのいいから、ホント」
そうは言うけど、満更でもないんでしょ? じゃなきゃ、最初から呼んだりしないはずだもん。
沙倉に刻まれたトラウマのせいで、女性へ過敏になっていたという事件直後。
たった独り取り残され、絶望のふちに追いやられた楓が、笹原さんにだけ心を許した理由、なんとなくわかる気がする。
同性っていう絶対条件もあるけど、その上さらに、のほほんとしていて、でも人をよく見ていて、包容力がある。
雰囲気似てるもんね……雪に。
(なんかいいな……そういうの)
正面の気恥ずかしそうな背中に、視線を戻したときだった。
ふいに射し込む光に、目が眩む。南中した太陽光がガラス越しに降り注ぐ。
やっと明順応した視界に、飛び込んできた光景は。
「佐藤さんの病室だと、見えなかったですよね。綺麗でしょう?」
背の高い建物のすきまからのぞく、氷のオブジェ。白銀に染まった街で、キラキラと輝くそれを、何度目にしたことか。
「ねぇ……この病院って」
笹原さんがいることからもわかる。ほぼ確信を得て見上げたあたしに、楓はうなずく。
「あぁ。5年前、俺たちが運び込まれた病院だよ」
――ドクン。
胸が、高鳴った。
「集中治療を受けて、俺はなんとか回復した。けど、雪兄さんはダメで……」
どこに向かっているのか、なにをしようとしているのか、いい加減悟った。
「目を覚まさない兄さんに、何度泣きついたことか」
とある部屋の前で、言葉を切る楓。
そこで初めて、笹原さんが先頭に立つ。
ピッピッと高い電子音の後に、ロックの外れる音。
「どうぞ」
入口を譲る笹原さん。楓の後に引っ付いて、恐る恐る足を踏み入れる。
床のあちこちに電気コードが這って、重厚な医療機器が鎮座してる――そんな予想とはまったくかけ離れた別世界が、そこにはあった。
陽だまりに包まれた真っ白な部屋に、ひとつだけあるベッド。
そこに、横たわっていたのは。
――目眩がした。
フラつくあたしを、楓が抱きとめる。
「ウソ……でしょ」
「夢じゃないよ。ユキさん」
ドクドクと、血の巡りが異常だ。
言葉を忘れ、1歩、また1歩と前に進む。
まばゆい日光なんて、もう目に入らなかった。
艶のある墨黒色のクセ毛。
淡雪色の肌。
長いまつ毛が影を落とす、歳のわりに幼い顔立ち。
まるで5年前で時が止まったかのように、変わらない姿。
「雪ッ!!」
夢にまで見た彼は、まだ世界にいてくれた。