*23* ひとひらの記憶
あの日、予報をはるかに上回る大雪が人々の足を遠ざけ、彼女の凶行を促した。
パサ……と乾いた音を立てたのは、ぼくの傘だったろうか。声は音にならず、ひゅう、とのどが鳴るばかり。
「せつにい、さん……逃げ、て……」
「……かえ、くん? かえくんッ!」
行ってきます!
今朝も元気に登校していった弟は、見るも無残な姿で横たわっていた。冷たい床は、鮮烈な紅の海。
夢中で駆け寄った。抱き起こすだけで錆びた鉄のにおいが鼻を突き、ねっとりと生温かい血液が両手を濡らす。
「かえくん、しっかりして! 目を開けてよ! おねがいだからっ!」
「お待ちしていましたわ、雪さん」
この惨状にふさわしくない、落ち着いた声がひびく。コツ、コツ……とヒールの音が、やけによく聞こえて。
「私からのプレゼントは、気に入っていただけましたか?」
ふり返った先に、鮮血の滴る銀の刃。
見上げた先で、返り血を浴びてなお嬉々としてほほ笑む、美しい顔があった。
一瞬で、すべてを理解する。
「沙倉さん! どうしてっ……こんなにむごいことを!」
「雪さんのせいですよ。あなたが、楓ばかり気にかけるから……」
「ぼくの、せい……? ぼくが、今夜のお誘いをお断りしたからですか……?」
「そうです。私、本当に悲しくて、寂しくて……」
「だからといって、許されることではない!」
ひどく両肩を跳ねさせた沙倉さんの瞳に、じわりと涙がにじむ。
それもそうだろう。ここまで激怒したのは、ぼくも生まれてはじめてだから。
「ちがう……私はただ、雪さんにふり向いてほしくて……」
彼女はうわ言のようにくり返している。
(……今が、チャンスか)
一刻も早く弟を助けるために、コートのポケットへ、そっと手をすべり込ませる――
「納得いきませんっ!」
けれど荒ぶる叫びとともに、スマートフォンが宙を舞った。
勢いよく床に叩きつけられたそれに、追い討ちのごとく鋭い刃が突き立てられる。はじかれた右手の、ほんの3cmほど横で。
「きちんと殺せていたなら、私だけを見てくださったのでしょうか……」
一瞬で距離を詰めた彼女は、まばたきもせず、ぼくを一心に捉えている。
それなのに意識はどこか別方向を向いており、えぐるように刃をねじ込むすがたが、弟に向けられた怒りだと思うと……
「楓を殺めるのは、あなたの愛情です。生かすのもまた、しかり」
「――!」
「楓を本当に愛しているなら……私といらしてください」
憤りの目を向けられたことで、彼女の何かが壊れたらしい。間近に迫る瞳の、なんと暗いこと……
「……わかり、ました」
すべてを投げ打ち、ぼくと死ぬつもりか。
容易にはかり知れたけれども、うなずいた。
通話手段はガラクタと化し、もう選択肢などないのだから。
自身のスマートフォンをちらつかせる彼女。
唇を噛みしめ、美しい笑みに続いて階段へと足を向ける。
恐怖よりも、遠ざかる弟のことが、ただただ気がかりでならなかった。
* * *
目を覚ますと、白い壁が広がった。
悲痛な嗚咽がひびき渡った。
病衣のあわせから包帯をのぞかせた弟が、兄さん、兄さん……と何度もくり返す。
(ああ、ちゃんと助かったんだね)
薄暗い部屋の隅で、ホッと胸をなで下ろす。
すぐに罪悪感が胸を支配した。
(ごめんね、かえくん。そこにぼくはいないよ。こんなに愛しいきみを置き去りにするなんて、ひどいお兄ちゃんだね)
いくら謝っても、ベッドに横たわったもうひとりのぼくは、答えない。
よっぽど気がかりだったんだろう。幽霊と成り果てたぼくは、弟からもらった大切な傘を手にしていた。
だけど、いざ悲しむ後ろ姿を目の当たりにすると、形容し難い痛みばかりが胸を支配する。
居たたまれず、外へ飛び出すのに時間はかからなかった。
向かった先は噴水のきれいな広場。病室からよく見えていた場所だ。
サラサラ流れる清水が軋む心を洗い流してくれるようで、自然と腰を落ち着ける。
空腹も気温も睡魔も感じることなく、いたずらにさまよう毎日。
そのうちに、どうしてぼくはここにいるんだろう、と疑問を抱き、やがて思い出す。
そうだ、もう一度あの子と笑い合うためだ、と。




