*22* 聖夜のホワイトスノー
「ぼくは、月森雪です」
姿形はもちろん、声帯だって楓のもの。一方で口調や仕草は、鮮やかに記憶の中の雪を思い起こさせた。
(雪が楓に……憑依、した……?)
その瞬間、ストンと腑に落ちた。
すんなり受け入れる自分が怖い。こうも超常現象が立て続いては、不可抗力なんだろうけど。
「かえくんね、幸ちゃんのこと、必死になって探してたよ」
「……楓が?」
「うん。ここに来るのだって、怖かっただろうに……ほんとにきみが大好きなんだね。ぼくも負けられないなって、思いました」
ふにゃっとあたしを振り返ったはにかみは、確かに。
「雪ッ!」
「おっと!?」
不意討ちなのに抱きとめられた。反射神経がいいのは、楓の身体だからなのか……ってか。
「ややこしいんだよ! 殴るに殴れないじゃん、顔見せろばかぁ!」
「うっ……それ言われるとつらい……」
「いっそ楓ごと殴ってやろうか!」
「わぁっ、やめてやめて! かえくんは悪くないです、ぼくが悪いです、ごめんなさい!」
「うっせ黙れ、歯ぁ食いしばれぇっ!!」
散々泣かされたんだ、ブン殴ってやるって息巻いてたのに……ぎゅうぎゅう抱きついてるあたしってやつは、もう。
「楓……ちゃんと生きてる……雪だってここにいる……っ!」
「……うん、いるよ。独りにしてごめんね。巻き込んで、ごめんね。きちんとカタをつけるから」
名残惜しげに身体を離され、いつもよりずっと高い視線が、凛然と前を向く。
「…………そういう、ことですか。ふふ……雪さんったら、なんてお人が悪いのかしら。あなたが一緒なら、私は楓に手出しができませんものね」
薄ら笑いを受けて、身にまとう空気ごと、広い背がピンと張った。
「いかなる理由を挙げようとも、沙倉さん、あなたとお付き合いすることはできません」
「どうして……? こんなにお慕いしているのに……」
「それ以前の問題なんです。あなたが想いを寄せる月森雪は、5年前に消えました。ここにいるのは、未練がましくさまよう、ちっぽけな幽霊だけです」
「雪……」
忘れっぽいフリして、自分のことを話したがらなかった。何となく、わかってたよ。
でも、もしかしたらってすがってた可能性も、たった今、打ち砕かれた。
「そんな……嘘だわ」
「事実です」
「嘘です! だってその子にふれられていたわ。生身の人間と干渉できるはずがない!」
「彼女は、特別なんです」
「一体どこが? 世界に見放された、惨めな娘ではないですか!」
紗倉が言を荒げた直後だった。突風が吹き下ろし、漆黒の夜空に白雪を舞い上げる。
「――これ以上彼女を侮辱すること、まかりなりません」
静かな声音に包まれた並々ならぬ怒りが、たった一言で紗倉を黙らせた。
「ぼくは兄として、月森楓を愛しています。ひとりの男として、佐藤幸を愛しています。もう決して、奪わせはしない」
ヒュオオオ――……
静かに、めまぐるしく舞う白雪は、雪自身の怒りを具現化したよう。
広い背に記憶の彼が重なる。あぁ……小柄なあの背は、こんなにも逞しいものだったっけ。
「……見捨てられていたのは、私のほうだったというわけですね」
物悲しく啼く風に、すべてを悟ったようなつぶやきが消え入る。
紗倉は静かに歩み出す。視線を伏せ、肩を落とし、雪のそばを通り過ぎる。
身を強張らせたあたしさえもすり抜け、向かった先は。
「ちょっと……何するつもり!」
「愚問ではなくて? 私の存在意義は、無きに等しいのよ。いくら奪っても、あなたたちが雪さんの中に居続けるのだから」
転落防止の鉄柵、その一部が錆びた綻びへ淡々と近づく。彼女が何をするつもりかは、もう一目瞭然だった。
「ダメだ」
駆け出すより早く、つかまれる腕。
行ってはいけないと、言外に雪は訴える。
「雪はこのままでもいいの!」
「ちがう。聞いて幸ちゃん、彼女はもう……」
「こんな終わり方、あたしやだからっ!」
「幸ちゃんっ!」
楓の身体で、本気の力で引き止められれば、抵抗する術はない。だから、その前に。
一瞬の隙をついて腕を振り払い、真冬の冷気を掻き分けながら疾走する。
「待って……待ちなさいってばッ!」
「どうして止めるの? 私がいなくなれば、万々歳なんでしょう」
「自分は必要とされてない? じゃあ死のう? ガキかっつの! あんたには、いなくなったら泣いてくれる家族とか友達が、ホントにひとりもいないの!?」
柵の手前で立ち止まった紗倉は、ゆらりと、振り返る。
「大体ねぇ、雪と楓にごめんなさいの一言もないってどういうわけ!? バカなことするヒマあったら、それこそ死ぬ気で償えっての! それがあんたの生きる意味でしょ!」
追い着いた――だから、よく見えるよ。ゆらゆら揺らめく瞳が。
「簡単に死のうとすんな。生きたかった雪に失礼って思うでしょ普通。思ってなかったら今思え!」
「……何だか、憎たらしくなってきたわ。雪さんと楓が、どうしてあなたを大切に想うのか……今になって思い知るなんて」
「悪いと思ってるなら生きるんだよ、ほら」
微かな笑みへ手を伸ばした刹那、フラつく身体。
こんなところに土……?
違和感を覚えた足元を見下ろせば、そこはふやけたコンクリート。
深く走った亀裂に、周りの雪溶け水が吸い込まれていく。
〝天井から雪溶け水がしみ出してるみたいだ〟
〝ああいうところは脆くなってるから、別の方面で階段探そう〟
我に返ったところで、時すでに遅し。
「世界は不条理ね……お別れは言わないわ」
形のいい唇が、やけにゆっくり動く。
伸ばした手は、宙を泳ぐだけ。
美しい憂い顔は重力にさらわれ、後を追うように、グラリと傾ぐ身体。
「幸ちゃんッ!!」
叫びに応える間もなく――地球の中心に、吸い込まれる。
砂埃を巻き上げ、ガラガラと崩れる足場。
歪な灰色の塊たちが、一点に向かい加速する。
まるで想いも希望も無差別に呑み込んでゆく、ブラックホールのよう。
(……死にたくない……っ!)
――タンッ。
肌を切る風の中、吹き付ける白雪の流れが変わった。
「死なせないよ」
白銀に垣間見えた墨色。
窒息、するかと思った。
なす術もなく宙に投げ出されたあたしを、温もりが引き寄せる。
「あはは、かえくんのまんま飛び出すところだった。危なかったなぁ」
どうして飛び降りたの。
どうしてためらわなかったの。
いくつもの〝どうして〟がのどにつっかえたあたしの至近距離で、チョコレート色の瞳はほころぶ。
「こんな形になっちゃったけど、見てくれる?」
強風に煽られる前髪を払われ、こつ、とくっつけられる額。
とたん、あたしの中に流れ込んでくるものがある。
それは雪の――ひとひらの記憶。
【Next】
ぼくらが出逢ったことは、偶然じゃないんだよ。
きみに教えようか。
粉雪の夜、ぼくが傘をさし出した理由を。