*20* つないだ手と手
膝から崩れるのと、楓が駆け寄ってくるのとは、ほぼ同時だった。
「ごめんっ! ホントごめんっ!」
あたしのからだを支えひた謝る、泣きそうな顔。
目前のそれが、どこか他人事のように感じてならない。
「楓……あたし、平気だよ? だって全然、痛くない……」
「……え?」
痛覚が麻痺したとかじゃない。本気で痛くないんだ。
その証拠に、血は一滴も流れていない。
「……なんだ、これ……」
楓は患部を凝視しながら、先程のあたしと同じつぶやきを漏らす。
刺さっているのに怪我をしていない。それにこのナイフ、あたしの見間違いじゃなかったら……
「ショータイムはおしまいよ」
次の瞬間、信じられない出来事が起こる。煙が霧散するように、ナイフが姿を消したのだ。
まただ……さっきはひとりでに飛んできたし、おかしい、あり得ない。
でも事実、楓に拘束された場所から、紗倉は1歩たりとも動いていない。一体なにが起きたの……?
「ふふ……私は5年前に生まれ変わったの。そう、神にね!」
……ヤバイ、本格的にヤバイぞこれは。
精神異常者が一流マジシャンに? 最悪な組み合わせでしょ。気を抜いたら、引きずり込まれる。
「信じるも信じないもあなた方次第。ただ、先に断っておくわね。ひさしく人間と接していなかったものだから、加減がわからないの。痛くしてしまったらごめんなさいね?」
言葉の終わりを待たず、グニャリと、美しい笑みが歪む。
……違う、正確には空間ごと歪んでいる。
闇にとける女の幻影。
弾かれたように辺りを見回せど、すがたは認められない。
「ユキさん、こっちに!」
ふいに腕を引かれ、つられて駆け出す。
「無理させてごめん。あと少しの辛抱だからがんばって……!」
楓に手を引かれ、暗闇の中を疾走する。
やがて階段へさしかかり、うっすらと明かりを見つけた。
出口だ……! 夢中になって駆け下りる。
「ひゃっ!」
そして、絶望する。
明かりの正体は外から射し込む街灯なんかじゃない。投げ放ったはずのライトだ。
足もとには、鮮烈に刻まれた……楓の血痕。
あたしたちは、逃げ出したその場所にもどってきたのだ。
「ウソ、だろ。こんなこと、あるわけ……」
――迷子の迷子の子猫ちゃんたち。迷路は気に入って頂けたかしら?
すがたは見えない。闇の中を鈴が転がるように、女の声だけがこだまする。
――喜んで。あなたたちには、特別なゴールを用意しているのよ。
クスクスと、どこから聞こえるかわからない笑い声が耳障りだ。
――あまりイジメると、可哀想だものね。私が直々におむかえするわ。
〝5階〟であるはずの部屋に、ピチョン……ピチョン……とひびく水音。徐々に近づくそれは、魔の足音のようで。
「さぁいらっしゃい――幸さぁん?」
視界が揺れる。
からだが後ろに傾ぐ。
女の力とは思えない。
引っ張るこの感触は、そもそも人間の手じゃない。
「ユキさんッ! くそっ、なんだよこれ!」
黒い煙のようななにかが、生物のように蠢きまとわりつく。
楓が払った場所から新たに生まれ、手足の自由を奪った。あたしたちに残されたのは、手のつながりのみ。
「今助けるから! 絶対助けるから!」
「かえで……っ!」
溺れそうになりながら、必死に握り返す。
それを滑稽で仕方ないというふうに、あざ嗤う影がある。
「ダメよ幸さん……楓まで巻き込まないで。あの子が相手だと私、つい殺しちゃいそうになるの」
肩に置かれた手、耳元で囁かれた言葉。
どれもが絶対零度の恐怖を伴って、あたしを凍りつかせる。
「……それは、ダメ」
「でしょう? 私は、あなたとお話できれば満足なの。わかってもらえるかしら?」
「ふざけるな! ユキさんに手出しはさせない!」
「あなたは黙っていなさい」
フッと手のつながりがゆるむ。楓の表情が驚愕に染まり、「う、あああ……!!」と酷く苦しげにうなりはじめた。
「楓!? 楓になにしたのッ!」
「ちょっとしたお仕置きよ。あの日の夢を見せてあげてね」
「……刺された日のことを思い出させてるの?!」
なんでそんなことができんのよ! 本当に化け物?!
「ご希望とあらばすぐにやめてあげるわ。幸さんが私と来てくださるなら、の話ですけれど」
「っ……行く! 行くからもうやめて!」
「……ダメだ、行く、な」
楓の足取りはフラフラ、目の焦点も合っていない。
あたしのことが見えていないんだろう。
「言っただろ……俺の手を、離すなって」
それでも、たとえ悪夢に飲み込まれそうでも、楓は必死に足掻いている。あたしの決心を揺さぶる。
「ありがとう楓……………………ごめん」
精一杯の作り笑い。見えなくとも、感じ取ったんだろうか。楓の頬が強張る。
「冗談、だろ……やめてくれ!」
ダメだ。口をひらいたら泣く自信がある。
こんなザマじゃ説得力ない。
だからごめん……楓。
「そんなっ……ユキさんまで……頼むから、俺を置いて行かないでくれ!」
これは……くる。取り残される人の苦悩を知った上で、置いていくんだもん……
「嫌だ、許さない! 離したら俺、ユキさんのこと嫌いになるからっ!」
「ははっ……楓に嫌われるのは、やだなぁ」
「やめてくれ幸! 幸ッ!!」
「……またね」
あたし、がんばってくるよ、楓。
「幸ぃいいいいい――――――ッ!!」
心を鬼にし、指先のつながりを断つ。
煙はすぐさま全身を飲み込んだ。
苦しくはなかったけど、なんだか眠くて……
ふわふわ浮くような感覚に身を任せ、まぶたを閉じる。
クスクスと、笑い声が耳を通り抜けた。
「ようこそ。罪深き眠り姫様」
【Next】
知ってる。あたしはちゃんと見てきたよ。
優しいだけじゃない雪を見てあげて。
必死で訴える寒空に、白雪が降り始める。




