*17* 闇に咲く花
血のように紅い夕陽が、宵に飲み込まれてゆく。
ゆらゆらと、不気味に影を伸ばしたとある建物の前に、あたしたちはいた。
行くな、と異様に楓が引きとめた理由。それを理解するのに、時間は費やさなかった。
「ここ……弥生さんたちが言ってたビル」
心霊スポットと名高いだけあって、人影は見当たらない。
十数分歩いただけで街とはこんなに違うのかと、身震いがした。
「屋上、結構高いだろ?」
「うん……10階建てかな。この辺じゃ目立つね」
「もともと、クリスマスの時期は屋上から街のイルミネーションが一望できるって、有名だったんだ。事件が起きて廃ビルになった当初は、だれも立ち入らなかったんだけど」
「物好きさんたちが、面白半分で探検し始めました、と」
「帰ってきたひとはみんな同じ反応だったらしい。酷く怯えて、なにも覚えてないってさ」
それで、屋上まで辿り着けたカップルは結ばれる、ね。
築年数自体相当長いという上に、物騒な事件があったんだ、管理者は喜んで取り壊しに応じたというが。
まじまじとビルを見上げる。組まれた足場は錆びつき、そこに存在するだけの鉄の棒。外観を覆うブルーシートは脱色し、大きくめくれ上がっている。
みずぼらしいつぎはぎのすきまからは、風化し、いまにもボロボロと崩れ落ちてしまいそうなコンクリートの壁が顔をのぞかせていた。
度重なる幻聴、幻覚に、作業員はひとり残らず逃げ出してしまったという楓の話を疑う余地は、もはやない。
そんな場所へ、あたしたちはいままさに、潜り込もうとしているのだ。
「ユキさん、俺の手を、絶対に離さないで」
幽霊なんて非科学的なもの、信じてない。
それでも楓の真摯な表情を前に、うなずかずにはいられなかった。
どうして雪は、こんないわくつきのビルを待ち合わせ場所にしたのか?
なにもわからないまま、探索は始まる。
* * *
あたしたちみたいなのが入り込むのを防ぐためだろう、正面玄関は硬く施錠されていた。
さて、どうしたものか。考え込むより早く歩き出す楓。
来て、と言われるままについて行けば、なんと、裏口らしき場所に行き当たるではないか。
「開いてるな。ユキさん、こっち」
「なにここ、なんで知って……?」
「……心霊スポットとかウワサが立つくらいだろ。入り口のひとつやふたつ、物好きが作ってくれてるもんさ」
「そういうもんなの?」
「そういうもん。暗いから足元気をつけて」
チェーンが絡み、一見して閉ざされた扉。
錆びたドアノブをひねれば、ギィ……と不気味な声を上げ、あたしたちを迎え入れた。
宵時ともなると、閉め切られたブラインドカーテンのすきまから入るものはなにもない。
フィールドジャケットの右ポケットから小型懐中電灯を取り出す楓。彼を始点に、LEDライトが4~5mほど先を照らし出す。
「なんにもない……」
「ここに入ってたテナント全部、さっさと出てったみたいだからね」
まぁ客は寄りつかんわな。だだっ広いだけの場所で納得。
ていうかメッチャ声響くんですけど。
あと向こうから聞こえるピチョン……とかホラー映画にありがちな効果音、なんすか。なんなんすかホント。
「雨漏り、ってか雪漏り? 天井から雪溶け水がしみ出してるみたいだ」
「バカやろう、しみ出すんじゃねぇよ……」
「ああいうところは脆くなってるから、別の方面で階段探そう。……寒くない?」
「むしろ暑いだす」
怪しいろれつでズズッと鼻をすするあたしに、楓は苦笑。「早く終わらせよっか」とつないだ手を握り直した。
ちょっと冷や汗かいてる……? 心底嫌がってたもんな、ここ来るの。
「楓さん、幽霊が怖いのは悪いことではないです。わたしもビビってきました」
「ははっ……ありがと。幽霊には負けないよ」
楓は「行こうか」と微笑んだ。
ライトで様子をうかがいながら、慎重に歩を進めていく。
自然と会話は途切れてしまった。楓に引っつき、足音が響く廃墟を上へ上へと急ぐ。
5階くらいに到達したころだろうか、楓の足が止まった。
緊張の糸が張り詰めていたあたしは、たまらず沈黙を破る。
「どうかした?」
「頼みがある。俺がいいって言うまで、目を閉じて、息も止めてて」
「そらまたなんで……ぬわぁっ!?」
「しっかり捕まってて。行くよ!」
いきなり膝裏を抱え上げられ、とっさに楓の首へしがみつく。
わけがわからんが、理由もなしに変なことをするやつじゃない。
慌てて息を吸い込み、きつく目をつむった。
見えなくても、風を切る音が聞こえる。疾走しているようだ。
暗い中、足取りに迷いはない。
ひやりと冷たい空気が頬を撫でる。これがなにか、もう知ってる。
屋上から降りてくる風。つまり、階と階とを繋ぐ階段が近い証拠。
――ピチョンと、どこかで水音が響いた。
「ぐっ!」
「きゃっ!?」
突然崩れたバランス。間一髪で支えられたけれど、予想外の衝撃にまぶたを上げてしまう。
投げ出されたライトのわずかな光を浴び、苦しげに膝をつく楓が浮かび上がった。
楓っ――呼び声は音にはならず、短い悲鳴がのどの奥で消える。
錆びた鉄のような……嫌なにおいが、かすかに。
見間違いであればどんなによかっただろう。
ライトが照らし出す先、階段手前に浮かび上がったのは、おびただしい赤黒色の染み。
「あれっ――!」
「見るな!」
強引に抱き寄せられ、胸もとに顔を埋めさせられる。視界を奪ったところで、生々しい惨状は消えはしないというのに。
あれは、紛れもなく血痕。楓のものでは、ないと思う。
だって黒すぎる。ずっとずっと昔のものだ。楓は、これがあるとわかって……?
「ねぇ楓、楓は、ここのこと、なにか知ってるんじゃないの?」
あれほど嫌厭していたのに詳しい。それも、建物の構造を熟知しているレベルで。
違和感を覚える度に上手くごまかされたけど、いい加減気づく。おかしいと。
「ユキさん……」
「教えて、楓……!」
ぐ、と楓は唇を噛む。悲しそうに。それでいて、悔しそうに。
「……ここは、飛び降り自殺の現場になった場所……だけど、事実はそんなに簡単じゃない」
「みんなが知ってることと、真実はちがうって?」
「そうだ。俺はここで、かけがえのない家族を奪われたんだ!」
「――人聞きの悪いことを、吹き込まないでくれるかしら?」
ふたりしかいないはずの廃墟に、艶やかな声が響き渡る。
隣で大きな身体が跳ねたのを、あたしは見逃さなかった。見上げて、尋常になく顔面蒼白な楓に、驚愕する。
血の気を失った青紫色の唇をわなわな震わせる彼が、凝視している先の闇。
足音もなく、ぽうっとロウソクの火が灯るように現れた白いロングコート姿の女性を、あたしは一度だけ目にしたことがある。
雪の降らなかった日、綺麗な黒髪をなびかせて彼と笑い合っていた……
「……さくら、さん?」
あたしのつぶやきに、蠱惑的な笑みがひとつ、闇の中で花開く。