*16* 黄昏のメリークリスマス
『どうして、こんなにむごいことをッ!』
思えばそれは、生まれて初めての激昂だったのやもしれない。
目前には、浅い息でぐったりと横たわる少年。
止まれ、止まれ……止まれ止まれ止まれッ!
いくら切望しようとも、赤黒い液体が指を、手首を、ねっとりと濡らすのみ。
『悪いのはあなた』
言葉は頭上から非情に降り注ぐ。
許さない……!
全身が燃え盛るかのごとき憤りを込め、悪魔を睨みつける――
「――っ!」
爽快な、という単語には到底似つかない目覚め。
氷点下のすきま風のせいでも、布団を跳ねのけたせいでもない。この嫌な寒気は。
「悪趣味な夢……」
かぶりを振って、まとわりつく悪寒を払う。
ここで、とある光景が目に入った。すぐ脇のテーブルに突っ伏し、楓が寝息を立てていたのだ。
講義がないときは、付きっきりで看病してくれてたしな……物好きというか、尊敬するというか。
なんとなく正座しちゃった流れで、三つ指をついてお辞儀をひとつ。
「本当に、ありがとうございます」
お礼を言ったら、なんだか胸がぽかぽか温まってきた。さっきまでの悪寒が洗い流されるようだ。
カーテンのすきまから射し込む光は、茜を帯び始めたころ。
幸いさほど熱も感じない。動けるうちに動こうと立ち上がる。
とその前に、口やかましく説教を食らうとも限らない。手早くスマホのメッセージ画面を開き、送信。
「すぐに帰ってくるね」
そっと言い残し、コートとマフラーを引っつかんだ。
* * *
『生きたいか?』と問われた。
はい、と答えた。自分には、大切なひとがいるから。
『生きる覚悟はあるか?』と次に問われた。
意図をはかりかねたけれども、はい、と答えた。あの子を遺してゆくなんて、考えられないから。
『では、一度だけ機会をやろう――』
そうしてなにひとつ理解せぬまま、戻ってきてしまった。
『生きる覚悟はあるか?』
再度問われたなら、首を振るしかない。
もう、わからなくなってしまいました……と。
「――幸ッ!」
名前を呼ばれた次の瞬間、天地がひっくり返る。
痛みはなかった。背中と頭を包んだ腕が、地面との緩衝材になってくれたから。
ところで、なんであたし、アスファルトに寝てんの? そんで上に楓が乗ってんの?
「怪我はっ!?」
「……どこも痛くない、けど……?」
「よかったっ……勝手にいなくなるなよ! 死ぬところだったんだぞ、バカ!!」
上体を起こすなり、苦しいくらいに抱きしめられて気づく。楓の肩の向こうで、植木鉢が粉々に砕け散っていることに。
あたし、あそこ歩いてた? 全然気づかなかった。ていうか、さっきまでの記憶がおぼろげだ。
「ひとまず、家に帰ろう」
遥か頭上のアパートを見上げる。真新しいベランダに並ぶ植木鉢。たまたま強風に煽られ……
まぐれでも、あたしはここで死にかけたんだ。ゾクッと背筋が戦慄し、手を引く楓に駆け寄った。
「なにか用事があるときは、俺に言ってな?」
「ごめん……メッセージ、送ったんだけど」
「……メッセージ?」
まさか……送れてなかったとか? 問えば、「来てない」とうなずく楓。
え、でも、送信エラーのメッセージなんか、出てなかったはず。
「いや、もうなんでもいい。ユキさんが無事だったから」
「怖いくらい、あたし至上主義だよね」
「末期なんで」
「楓、ありがとう」
「どういたしまして」
和らいだ声音は、もういいんだよの合図。
「慣れないことすると、空回るね」
どうせだから素直に白状する。楓に盗られたその買い物袋、紅茶とカップケーキ入ってます。日頃のお礼です、と。
それ調達に出かけて楓の寿命縮めてりゃ、世話ないけど。
やった、と嬉しげな横顔にホッとして、影を伸ばした帰り道。
間もなく家へ到着。鍵を開けようと楓がドアノブに手を伸ばしたときのことだ。
ヴヴヴ……とふいのバイブ音が響く。発信源はフィールドジャケットだ。
ポケットから黒地にオレンジラインのスマホを取り出した楓は、ピタリとまばたきを止める。
「ユキさん、メッセージってこれ?」
「ん? あ、それだ。なんでいまになって……」
画面をのぞき込もうとしたそのとき、真冬の冷気に乗って、なにかが足元に舞い降りた。
「それは?」
「パッと見クリスマスカードだけ、ど……」
赤と緑と白。ポップなデザインのそれを拾い上げ、裏返した瞬間、釘付けとなる。
メリークリスマス!
親愛なる幸さんへ。
遅くなってごめんなさい。
今夜、お時間を頂けないでしょうか。
ふたりでお話がしたいです。
雪
言葉を失い、思わず振り返る。楓も、食い入るようにクリスマスカードを見つめていた。
「ねぇ、かえ――」
「ダメだ!」
つかまれる腕。言葉をさえぎったのは……叱咤?
「行かせられない。行くな」
「なんで? 一緒に雪を探そうって、楓も言ってくれてたじゃない……」
「っ……どうしても行くなら、俺も行く」
「雪はふたりで話がしたいって」
「うなずかないなら、俺は手を離さない!」
わがままとかじゃない。頑として言い張る楓からは、なにか堅い決意のようなものが感じられた。
「……わかった」
雪に会える。なのに手放しで喜べない。すべては、胸に居座る違和感のせい。
凍てつく夕風を引き連れて、クリスマスは唐突に訪れた。