*12* 傘の下の秘め事
冬は、どうして空が高いのだろうか?
太陽が遠いからだ。
どうしてこんなに、寒いのだろうか?
それは、雪が降るからだ。
冷気をまとった風が、噴水広場を吹き抜けてゆく。
首を縮めた人々が足早に行き交う場所で、たったひとり、気持ちよさそうに黒髪をなびかせる少年。いや、青年。
「あ、幸ちゃーん!」
降りしきる白い結晶と同じ名を持つ彼は、凍てついた路面を、危うげなく駆け寄ってくる。
軽やかにダンスするように。淡雪に愛された妖精のように。
「傘も差さずにどうしたのー。はいっ!」
くるっと傾けられたクリスマスカラーの下、チョコレート色の瞳が、少し高い位置ではにかむ。
「なんか久しぶりな気がするねぇ。昨日はどうしたのかな?」
「バイト中に風邪、ぶり返したみたいで。帰ってくたばってた」
「わぁあっ、病み上がりなら寝ててもよかったのにー!」
いつも通りの雪。心からあたしを心配してくれる、優しい雪。
ごまかそうとしてる自分が、酷く情けなくなった。
「……ちがう。ごめん……あたし、来て……雪に合わせる顔、ない、のに……」
楓は悪くない。楓は悪くない。
思いと裏腹に、思考が掻き乱れる。それは楓にされたことを、心のどこかで雪に望んでいたから。
知っているはずもないのに、きみは陽だまりみたいな蕾をほころばせて、手を差し伸べるの。
「おいで」
やわらかな響きがあたしを呼ぶ。それが、いまは辛い。
「だめ……優しくしないで。あたしには、雪に返せるものが、ない」
「見返りなんて要らない。ぼくが幸ちゃんに優しくしたいだけだよ」
「雪がそうでも、あたしはっ、雪にわがままになる!」
頭を撫でてほしいんじゃない。あたしがほしいのは、手袋1枚に隔てられた体温。雪そのものだから。
「あたしを甘やかしたいんなら……キス、して」
――沈黙の帳が降りる。
あたしという女は、どこまでも薄情だ。楓の想いを掻き消そうとしてる。雪に上書きをさせようとしてる。
それが叶ったところで、あたしの意地汚さは消えないっていうのに。
「……ごめん。それは、ムリだ」
ほらね、雪だって嫌がってる。急にこんなことを言い出した理由くらい、とっくに感づいてるんだろう。鈍いようで、雪はあたしに敏感でいてくれたから。
そんな気落ちしなくていいの。ただ雪の『好き』が、あたしがほしいのとちがっただけだから。
「ぼくね、いけないと思うんです。だってそういうのは、気持ちが伴うものでしょう?」
ひた、と頬にふれたなにか。あたしは目を見張る。
手袋、いつの間に外したの。なんで、指先で優しく撫でるの……?
混乱まっただ中、追い討ちをかけるように細い腕が背中に回る。
「もーダメ、限界です。心臓に悪いです。幸ちゃんの天然さんめー」
あたし、雪に抱きしめられて、る……?
「えっと……?」
「ぼく、幸ちゃんのことだいすきなんだよ。知らなかったでしょ?」
「あのね雪、そういうことじゃなくて!」
身を乗り出せば、スッとかざされる指先。
雪が微笑んだ。あたしは腕の中。墜ちてくるクリスマスカラー。
なにが起こったのか、すぐにはわからなくて。黒髪がふわふわ鼻をくすぐり、我に返る。
しぃをするように隔てる指先は、冷たい。
なのにカァッと頬が火照るのは、望んだ光景が、いままさに実現しているから。
夢のよう。でも、重なる唇は幻想じゃない。
雪降る街。それは、傘の下の秘め事。
「……ね。ちゃんと『好き』でしょ?」
傘を肩に引っ掛けたまま、ニッと口端を持ち上げるきみは、イタズラが成功した子供みたい。
「セ、ツ……」
「うー、そんな物欲しそうな顔されると……幸ちゃん、ぼくも男だから、ね?」
言わんとすることを理解し、ポンッと頭が爆発する。
当然……なのに、そういう男女のふれあいとか、なぜか雪とは無縁だと思ってた。
どう反応したら? 抱きしめ返したらいい?
いやムリ、両手両足もれなく固まって動けません。
どうしようどうしようどうしよう……身体の芯からジンジン痺れる。
辛うじて麻痺していない指先がギュッとスカートを握ったころ、雪が「もぉ~っ!」と業を煮やす。
「…………へ」
なんともまぁ間抜けな声がこぼれた。だって意味がわからない。
突然ダッフルコートを脱いだ雪が、あたしに羽織らせた意味。コートもろとも、苦しいくらいにぎゅううっと抱き締める意味が。
「はぁ……そのかわいさは罪です」
「なっ、意味わかんないしっ、なに脱いでんのよ、慢性冷え症患者!」
「いかにも、冷え症を患っております。幸ちゃん欠乏症も合併しております。ハグしか治療法がありません!」
「意味わかんないってばっ、もうっ!」
「ほら、かわいい」
「~~~~っ!」
雪は治るかもしれんが、代償にあたしが殺される。心臓バックバクなんだぞ。
抗議の視線を送るが、雪はやけにニコニコだ。
「幸ちゃん、まだ熱あるみたいだから、それ脱いじゃダメだよ」
……いつ計ったの。
漏らしかけて、雪があたしに素肌でふれた唯一にして最大の出来事を思い出す。
アレか。あのときか。おのれ、なんと抜け目のないやつ。
肩に引っかかったダッフルコートをつかみ、うつむく。満足そうに胸を張った雪は、傘を持ち直した。
「帰ろう。送ってあげる」
このときばかりは、思い出したようにぶり返す熱に感謝した。
吸い寄せられるように、差し出された手を取る。
「ねぇ幸ちゃん、ムリはしないでね」
「……うん」
クリスマスカラーの傘の下、促されて雪に寄りかかる。
「寂しいときは、だれでもいいから頼ってね。ぼく、今度は怒らないから。おねがいだよ」
つないだ手は布越しで、物足りない。最後に雪がつぶやいた意味も、よくわからなかった。
ただやわらかい響きだけが心地良く、淡雪に溶ける。
そんな夢のような時間だったことだけは、覚えている。