1‐2
「・・・・ぅ」
思い出したように吸い込んだ香りは、穏やかなものだった。
古い木製家具から醸し出されるような心地よさを覚え、吐き出した安堵に衣擦れの音が被さる。
「聞こえますか?」
女の人の声は、恐らく自分に向けられたものだろう。思ったよりすぐ傍に人の気配があったことに驚き、一瞬身を強張らせた。その様子を眺めていたのか声を掛けてきた女性は静かに、佳奈絵の額に手を添えた。
「熱は下がりましたね。砦にある解熱剤が中々効かなかったので心配しましたよ」
優しい話し方に、ゆっくりと瞼を開き顔を向けた。頬を滑り落ちた髪が視界に入るのも厭わず、目に留まった姿に見入ってしまう。
「・・・・・・・・・」
目が合った女の人は呆然とするこちらの様子も気に留めず、人好きのする笑みを浮かべつつ盥の中で布を絞る。そんな彼女の服装は、想像していた看護師の服装でも家人のような素朴な格好でもなく、まるで小学校の図書館で見た童話に出てくる人のようだった。紺地の長いワンピースにエプロンをし、髪をターバンのような布で覆い纏めていた。
顔立ちも日本人離れした彫の深さがあり、眉毛の明るさやそばかすが表情も相まって明朗そうな印象を与えた。
「・・・・?」
声を出したと思ったが音にはならなかった。再び試そうとした佳奈絵を彼女はやんわりと手で制し、盥の脇に置かれていた小さな急須のようなものを軽く掲げて見せた。
「喉が渇いているでしょう?発熱中もあまり水分を取れていませんでしたから」
気泡が含まれた小さなガラスの吸い口が横たわったままの佳奈絵の口元に添えられる。
ゆっくり、と微笑まれながら容器を傾けられれば咥内に水が流れてきた。彼女の言葉は本当なのだろう、意識より身体がそれを求めていたと染み込む心地を実感する。
焦らずに飲むべきなのだろうが、せがむように吸い口を食む佳奈絵を穏やかな表情で彼女は見ていた。
それほど時間もかけず容器を空にすると、彼女は再び水を用意しようと立ち上がり背を向ける。
「魔獣に襲われた傷は随分良くなったんですが寝込んでいたのが長かったですから、まだ身体を動かすのは難しいかと思います、が・・・」
振り返った彼女の言葉が切れ、その眼が零れそうになる程見開かれる。
驚愕の視線を注がれた少女は数度目を瞬き、見つめ返すも、相手は小さく頭を振り掠れた吐息を零し俄かに退く。その手からするりと音もなくガラスの器が滑り落ちた。
厚みの割に脆いのか、ガラスは鈍い音を立てて割れ砕け、中の水が黒ずんだ板張りに広がっていった。
大丈夫ですかと声を掛ける前に、彼女は背後の扉を転げるように出て行く。遠ざかる忙しない足音を聞きながら、硬いベッドの中で佳奈絵は顔を顰めた。
(なん、だろ・・・?服とか部屋とかもそうだけど、ここが何処か聞きたかったんだけど)
まるで映画のセットのようによくできた使用感の滲む部屋に、彼女の衣服。外人のエキストラなのかと思えば納得の出で立ちだったが。
しかし怪我人である佳奈絵をわざわざセットの中に寝かしておくだなんて面倒な事はしないだろうし、搬送するならば病院が普通である。
(それに)
彼女は言っていた。
『まじゅうに襲われた』と。
(・・・もしかして)
恐る恐る佳奈絵は背後の窓を窺った。
先ほど見せた彼女の様子が、自分の背後に見えた「まじゅう」とやらに怯え、驚愕し、人を呼びに行ったのかもしれないと考えたからだ。
だが視線の先には青々とした木々と、突き抜けるような明るい青が広がっているだけ。
警戒していた獣の姿はなく、佳奈絵はほっと息を吐いたところで気付いた。
(・・・・・・・)
思わず勢い良く状態を起こし髪の毛を両手で引っ張り眼を見張った。
「な、にこれ?!」
じわりじわりと指の間に挟んだ髪の色が抜けてゆく。
いや、毛先は馴染みのある、先ほども見たやや明るい茶髪だが。その色も現在進行形で薄くなり、徐々に、白髪のような色合いに染まっていた。白髪と言っても塗りたくった白ではなく、透明感とやや金色みがあり、まるで絵画に描いた月灯りを彷彿させる色合いだ。
「えっ?ええ?!」
窓ガラスに自分の姿を映すも、質の悪いガラスなのか鏡のような精密な虚像はハッキリと映らなかった。こんなところまで拘るなんて!と八つ当たりしたくなり顔を顰めるが、佳奈絵は閃きと同時に鼻の上の皺を消した。
「盥!」
ベッドから抜け出し立ち上がろうとするも足が痺れ、派手な音を立てて転ぶ。そういえば獣に足を噛まれて怪我をしていたのだと、その時やっと思い出した。どれほど熱で寝込んでいたか分からないが、動けるだけ怪我が回復している事を考えれば、久々の動きに足の筋肉が驚いているのも仕方が無いだろう。
ベッドの淵から、サイドテーブルへと伝いながらなんとか立ち上がり、足の痺れが遠のいていくよう摩りつつ銀盥の中を覗き込んだ。
「ぅっわ・・・」
揺れる水面に映りこんだ姿に思わず驚嘆の声が漏れた。
右顎から頭部にかけてぐるぐると包帯が巻かれた顔はまるでコントのようだ。その合間から滑り落ちた髪は確かに色味が抜けていたし、何なら瞳の色も髪と似た色に ─やや髪よりも金色が強いが─ 変わっている。
完全に変わった毛先を指で梳きつつ、再び視線を窓の外へ移す。
広がる青空と、半分は青々とした木々。生き生きと茂った葉の合間から煉瓦で組まれた壁らしきものが見えた。耳を澄ませば、遠くから金属を打ち合う音や人の笑い声が聞こえる。
記憶に新しい夜の山中とは打って変わって、人の気配が濃い場所に自分がいる事は把握出来たが。
(ドッキリ、にしては・・・金が掛かり過ぎてて怖いわ)
山を彷徨っていた時はどうにかして道路へ出て人里に辿り着くのを願っていたが、こんな時代錯誤な集落で世話になる事は考えても見なかった。更に自身の髪色が急に変わり、逃げ出されるような状況は更に想像外だ。
(もう昨日?から・・・何がなんだか)
生きているだけ良かったと思うべきなのだろうか。獣に襲われた時は正直、先があるとは考えもしなかった分、今の状況をどう受け止めるべきか中々頭が働かない。
いや、頭は働いているのだが、予想される答えを受け入れるのを拒否している。
(・・・・「まじゅう」って、魔物とかそういう類の、なの?)
思い浮かべた夜の出来事にざわりと肌が泡立ち、獣の牙や爪で傷つけられた箇所がじくじくと痛む気がした。生温く硬質な毛並みも、嗅いだことのない臭気も。圧し掛かられた重みも柔肌に走る鋭い痛みも記憶に残っている。
着せられた麻のワンピースの袖を捲れば、腕には包帯を施すまでもない浅い傷が無数に散らばっていた。
あの山での出来事は夢ではなく、現在進行形で自分の身の回りに存在するものだと急激に頭が理解する。
一体何が起きて自分は見知った土地から離れ、こんな場所に居るのか。
そもそもここはどこなのか。
帰れる、のだろうか。
「・・・・・」
いや、帰らなければならない。
(私はまだ、始めたばかりだ)
あの悪魔に人の世の地獄を見せてやると誓ったのだ。
その為なら何度だって超えられぬ壁の中へ入る事も辞さない。その間は壊すための心を育ませてやるんだ。そして再び叩き割る。それを何度も繰り返す。精神が病む寸前を私は見知っているから、きっと上手くやれる筈だ。
死など見えぬ場所に容易く逝かせる気もない。
だからこそ、私は帰らなければならないのだ。
(あの映画は・・・列車に乗って魔法の世界に入っていたっけ?)
よたよたと頼りない足取りのまま、部屋の隅にあるロードワープを開く。中には今着ているような数枚の無地のワンピースと簡素な羽織物があったが、佳奈絵が着ていた衣服は見当たらない。とりあえずマントのような羽織物に袖を通し、今度はベッドサイドのチェストを漁る。
(包帯と、これが傷薬かな?)
古びた缶に入った薄青の軟膏の匂いは、確かに腕から香ったものに似ている。それらを外套の内ポケットに押し込むと、一度ベッドに腰かけ息を吐いた。
(あと10秒、あの人が戻ってくるか待ってみよう)
看病してくれていた彼女が戻ってくるなら、話を聞かせてくれるかもしれない。だが、最後にみた蒼白した面持ちを思い出すと、穏やかな空気で戻ってくるのは難しいと思う。
窓の外に魔獣と呼ばれる脅威が居た訳ではないとしたら、彼女が怯えたのは恐らく、髪色が急に変わった佳奈絵にだと思えた。
(あの映画でも不思議な生き物は居たし、住人と思って保護されたのなら親切なのも頷ける。怖いのは『この世界』に紛れ込んだ私がどんな扱いをされるか・・・だよねぇ)
最高は五体満足ですんなり戻される展開。しかし怯えられる事を考えると、害悪なものと見做される可能性の方が高い気がしてならない。
きっと、外には夜に見た魔物も居るんだろうとは分かっていたが。
「よし」
立ち上がった佳奈絵の足は、もう震えもなく速やかに意思を反映した。
外套を翻し、重い窓を開く。吹き込んだ軽やかな風が誘うように、細い髪を撫でた。草木の爽やかな匂いを思いきり吸い込み、足を窓枠に掛けて外に降り立つ。
足の裏の傷ももう治っていたようで、痛みもなく柔らかい草の感覚を踏みしめた。
(あ、靴・・・まぁいいか、もう今更だ)
部屋の中で靴は見当たらなかったし、山の中を歩くよりは随分整備されている庭は裸足でも歩き易かった。後ろ手で窓を閉め辺りを見渡せども、幸い人影は見当たらない。
身を低くしつつそっと駆け出し、先ほど木々の合間から見えた煉瓦造りの壁へ向かう。
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(『砦』って、聞き間違いだと思ったけど・・・)
低い茂みに隠れて進む合間に皮鎧を身に纏った人々が談笑しているのを遠目に見つけた。会話までは聞こえなかったが、成程、確かに如何にも肉体で戦いますと言わんばかりに屈強な男が多い。
(魔獣とか言うから魔法がある世界だと思ったけど。剣とかアナログなのも主力としてる地方都市みたいなものかな、ここ)
緊張感もなく長閑な空気が流れているのはその為か。お陰で目的の場所まで、誰の目にも止まる事無く辿り着けたのだが。
(いやいや、素人に内部とは言えこんなスムーズに脱出させちゃダメでしょ・・・)
若干のおせっかいを抱きつつ、そっと煉瓦造りの壁伝いに進む。高さは自分の背丈の3倍はあり、乗り越えるのは不可能だった。だが上を見上げた際、恐らく見張りが入る場所だろう、やや膨らんだ部分を見つける事が出来た。
砦の構造など知りはしないが、イメージから物見は扉の付近にあるように思えたのだ。
(あの物見が正面口じゃないのを祈るばかりだなぁ)
正面ならば人の出入りも多く通るのは難しいかもしれない。だが天は佳奈絵に味方したのか、物見の周囲は人の気配も薄く、静かな場所だった。そっと煉瓦造りの壁の外を覗き込めばその先には丸太を掛けただけの簡易な橋と、深い緑を茂らせた森が広がっていた。
(また森)
嫌な思い出しかない。思わず漏れた溜息を、慌てて両手で塞ぎ近くの茂みに身を隠す。
「おーい」
「お、戻ったか。なんだ手ぶらじゃねーか!」
「馬鹿言え!荷台に乗り切らねぇ程だぞ!」
その言葉を裏付けするようにゴロゴロと大きな車輪が柔らかな草地から固い地面に掛かったように、近づく音が大きくなる。
「おお、本当だな。暫くは肉の奪い合いが起きなくて済みそうだ!」
丸太の上を慎重に荷車が渡ってゆく。砦の中に戻ってきたそれを、音もなく茂みの影から見れば、確かに荷台は大きく膨れ、掛けられた麻布は限界まで引き延ばされていた。
その隙間から零れ落ちそうにはみ出していたのは、恐らくウサギやイノシシの脚だろう。
先の森にはあの奇妙な魔獣とやらだけでなく、佳奈絵の知る動物も存在しているようだ。
佳奈絵がほっとしている間もなくガラガラと金属が擦り合う音がした。
(や、やば!)
砦から出て、森へ狩りに行っていた人が戻ってきたからだろう。先ほどまでぽっかりと開いていた入り口を塞ぐ、太い黒塗りの柵が石造りのアーチからゆっくりと降りてきていた。
慌てて茂みから飛び出し、柵の下を潜り抜ける。勢いそのまま丸太橋を渡り切り、森の中に駆け込んだ。緊張と急激な運動により上がる息が収まってから、そっと背後を振り返った。
そろりと足を忍ばせ、砦の出口を窺ってみたが、そこは何事も無いように柵が綺麗に閉まったままだ。
(・・・いや、だからこんなスムーズに逃げ出せるのもどうかと思うよ)
安堵よりも余計な心配が先に浮かんだ。しかしそれがあったからこそ、特に煩うことなく、砦の外に脱出することが出来たのだと、溜息一つで意識を切り替える。
(さてと・・・取り合えず人が多そうな砦からは脱出した。丁度良い民家なら、多少揉め事になっても抵抗の余地はあるだろうし)
佳奈絵が砦を脱しようと思ったのは、世話をしてくれていた人の顔色が変わった事もあったが、人を呼びに行かれ何も抵抗出来なくなる状況を危惧したからだ。
事実、砦の中には佳奈絵が10人に増えて飛び掛かっても勝てなそうな、ゴッツゴツの武闘派面した男も居た。あんなのが出て来たら堪ったもんじゃない。
幸いまだ日も高い。今のうちに民家を見つけられたなら御の字だ。
時折振り返りながら木々の合間から見える砦の尖塔を目印に森の中を進む。この森は、夜に見た山中とは打って変わって、穏やかな木漏れ日に満ちた場所だった。
時折砦の人が狩りに入っているからだろう、自然の中だが歩き易い場所もあり、それに従い進めば足もそう痛みはしなかった。
小休憩をはさみつつも程無くして森の端へ辿り着いた。
既に振り返っても砦の尖塔は見えない。
「・・・・」
「・・・・」
佳奈絵が出た森の終わりが、街道よりちょっとした高さがあったのがいけなかった。
森の中からは開けた平野しか見えなかったため、のこのこと無防備に出てきたのだが、眼下には一台の荷車、幌馬車と呼ぶのだろうか、それが止まっていたのだ。
しかも丁度、幌へ乗り込もうとした青色の瞳をした少年が目を丸くしてこちらを見上げていた。
「・・・乗る、か?」
彼が何故、如何にも怪しい風貌の佳奈絵を幌へ誘ったのかは分からない。
だが今はとりあえずこの場から離れるのを先決とし、佳奈絵は無言で首を縦に振り、崖を滑り降りようとする。
「おま・・・!?チッ、ほら!」
裸足で崖を滑り落ちようとしたのは流石に見ていられなかったのか、戸惑う佳奈絵に少年が駆け寄り手を差し伸べた。それでも飛び降りるには中々の高さだった。座り込む体制から両足を街道へと伸ばし、なんとか衝撃を和らげて着地をするが、やはり裸足には辛いものだった。
痛みに蹲るのを励ますように少年は佳奈絵の背を叩き、幌の中へ押し込むと大きな声で馭者を呼んだ。
「親方!終わりました、出してください!」
「おー」
老人の返事がしてすぐ、佳奈絵と少年が乗り込んだ荷台が揺れた。幌で覆われた薄暗い荷台には木箱が幾つも積まれており、振動に合わせてガチャガチャと瓶がぶつかる音が鳴る。
中は埃臭さと、少し甘い薬草のような清涼感のある香りがした。
「・・・で?」
「?」
「どこまで行きたいんだ?」
「・・・家まで?」
「何で疑問形なんだよ」
少年の青い瞳は呆れたと物語っているが、こちらとてそれ以上何と答えれば良いのか思い浮かばない。
「君は私が怖くはないの?」
「はぁ?」
今度は嘲笑をその青が示す。どうも彼はこちらに感情を隠す気は無さそうだ。
佳奈絵は少しばかり安心して言葉を続けた。
「・・・この髪色、だよ?」
「ああ・・・まぁ驚きはしたが、んな浮浪者みたいなボロキレ来たお前なんぞ畏れねぇよ」
「浮浪者」
表情だけでなく、言葉も包む様子がない。
「んなボロ着て頭包帯巻いてるなんて浮浪者じゃなくて不審者か」
「不審者」
事無げにくつくつと喉を鳴らして彼はそんな事を言う。まぁ確かに、自分より年下にも関わらず今まさに仕事中であろう彼からすれば、森から出てた佳奈絵は十分不審者だ。
「その不審者をなんで乗せてくれたの?」
「乗りたくなかったのか?」
「・・・疑問に疑問で返す奴にまともな奴は居ないよね」
「どーいう意味だコラ」
ずっと馬鹿にされているのは性ではない。思わず零した憎まれ口に少年はあからさまな不機嫌顔になったが、こちらとてやり返しただけだと何ともなしに彼を見つめる。
「キミは私にどんな価値を見出したの?」
ゆっくりと少年の深い海のような瞳が見開かれた。