序
気を配ってはおりますが、誤字脱字気になる箇所ございましたらご一報頂けますと幸いです。
扉の前を歩く住人は、扉から漏れる音楽に「またか」と顔を顰める。
若者が好むのであろう耳慣れない音楽をただただ、迷惑だと内心で一息吐いては片付け廊下を進んでいった。
隣人は考えもしない。
何故それほどまでに音量を上げて音楽をかけるのかを。
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大学生が住むにしては贅沢な広さを持ったマンションの一室。
住人である男は、親の権力を笠に着て高校時代から周囲に女子を侍らせ人を顎で使うのを当然としていた、絵にかいたような傲慢な性格だ。そんな先輩が住んでいるとは思えない程、清潔に保たれたキッチンに立ち佳奈絵は水の入ったグラスを仰いだ。
爆音に紛れるのは数人の若い男の笑い声と、組み伏せられた一人の女の悲鳴。
「いやっ・・・・!や、・・・・・っだ!」
普段は愛らしく柔らかな彼女の頬は何度も打たれ赤黒く腫れ上がり、桜色の唇には鮮血がルージュのようにひかれていた。普段は綺麗に梳かれたサラサラとした髪を振り乱し、覆いかぶさり嘲笑う男へ必死の抵抗をしているが、彼女の身に着けているものは既にない。
振り払おうと暴れる華奢な両腕を別の男が片手で押さえつけている。
彼女の頭側に陣取った男がリズミカルに彼女の頬を打つ乾いた音は、まるで陽気な爆音の拍子を取るようにやたらと滑稽に響いた。
「佳奈絵ぇ」
酒瓶片手に隣へ来た先輩が私の腰に手を回す。
「アレはあいつらに任せておけよ。ああいうの見てんのが趣味って訳じゃねーだろ?」
視線を先輩からリビングで繰り広げられる無体に目を向ける。まるで飴に群がる蟻だと、先ほどからぼんやりしていたのがきっと先輩にも分かったのだろう。
つまらなそうな顔をしていた私を誘うように先輩の手が緩やかに上下する。
「・・・・凌辱モノは趣味じゃない?」
誘った時には随分楽し気に話を聞いていたと思ったが、と彼を探るように見上げる。相手はゆっくりとこちらを探るように目を細め、口元を緩めた。
「カワイソーなのはなぁ、俺って基本優しいし?」
「後輩のお願い聞いてくれる優しい先輩ですもんね」
自分が返した言葉も、なんともまぁ無味なものかと鼻で笑う。空のグラスの重みすら煩わしく思え、カツリと音を立ててシンクに置いた。グラスから一本ずつ解いた私の指を緩慢な動きで先輩の大きな手が優しく握る。
「そう。可愛い、可愛い後輩が、カワイソーな顔してるからほっとけなくてさぁ。顔色も悪いしちょっと奥で休もうぜ」
薄く、いたわるような笑みを浮かべるこの男の瞳も濁った色をしている。まるで鏡を見ているようで、肩から首筋へ這い上がる寒気に私は奥歯を嚙み締めた。
一瞬の強張りをほぐすように背を撫でつつも、別室へと歩みを促す先輩の手をやんわりと押し退け、キッチンから出た、その時だった。
バリン、と。
何かが派手に割れる音がした。
何を歌ってんのか分からない、早口な洋楽が疚しい音を搔き消している筈なのに。
その音だけは確かに聞こえたのだ。
佳奈絵が音に身を竦めるよりも早く。
だがとても静かにゆっくりとその瞬間は流れた。
裸の女は、顔面を抱え雪崩落ちる男を突き飛ばし、呆気にとられ緩んだ拘束から逃れ立ち上がろうとしていた。
中腰の姿勢のまま駆け出すと同時に、別の酒瓶を拾い上げる動きは獣のようだった。
何も纏ってないからこそ分かる、腿の筋肉の細動を佳奈絵の目は追う。
脚の一つ動かすのに力が如何に伝道しているのか分かる程、それは永遠の刹那で。
単純に、佳奈絵も呆けていたのだ。
一体何が起きているのか分からないが、しかし当然としてその瞬間を受け入れていた。
視線を上げれば、腫れた顔の中で煌々と光る双眸と目が合う。
彼女の、食いしばった犬歯の白さがやたらと、印象的だった。