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天界の魚  作者: mizuki.r
3/5

二つ目の話  ~天帝の船~


 

 霧が濃くなってきた。

 乳色にかすむ川面を、一艘の船が上っていく。川上にある集落に毛皮を仕入れに行く商人の船だ。

 櫂を操っていた者が、後ろに座っている主に不安げな視線を投げかけた。なりは大きいが、顔立ちはまだ幼い。

 雇い主である商人は、小さく舌打ちする。

 今日中にもう少し川上まで行くつもりだったのだ。しかし、見通しはみるみる悪くなっていく。いくら行き慣れた川筋とはいえ、これでは早めに休める場所を探す他はないようだ。

 だが、運悪くその辺りは切り立った崖ばかり。眠るときばかりは船を下りて休みたいのだが、そんな都合のいい場所はありそうにない。しかも霧は見る間に濃くなっていく。ぐずぐずしていれば、一歩も進めなくなってしまうだろう。

 彼らは川岸に張り出した太い木の陰に船をもやった。

 火をたくこともできないので、薄く焼いた餅と水だけで食事をし。揺れる寝床の上で少しばかり早いが眠りをとる。

 いつもならこんな時間から休むことなど奉公中の子供には許されない。めったにない幸運のはずだった。

 だが、ことりと寝付いてしまうかと思われた子供は、何度も何度も苦しげに寝返りを繰り返している。狭い船の中のこと、商人は気になって寝付けない。文句をつけようとした先に、彼はくるりと主の方を向いた。

 こんな夜でしょうか。あれが。……船がでるのは。

 その張りつめた調子に、商人はようやく思い当たる。

 ああ、あれか。そうだな。こんな夜なら出るかもしれんな。

 軽い調子で応じる。

 船と言われてすぐ分かったのだ。

 死せる勇者の魂を迎えるため、時折この世に現れる天帝の軍船の話であると。

 来る羅刹との戦いに備え、輪廻の理から離されて集められた勇者たちの魂が眠る船は、この世に現れるとき、常に深い霧をその周りに纏って現れると言われている。

 そう。ちょうどこの日のように。

 すぐ横を通るかもしれないんですよね。

 子供の声は小さくふるえている。

 あんなものに興味があるのか。やっぱり子供だな。

 商人は少し面白がっているようだった。

 体が大きく、力仕事は主以上にこなすうえ、無口で言われたままに黙々と働くだけ。顔立ちの他には、幼いところなど見せたこともなかった使用人が、はじめて子供らしい。あるいは彼にはそう思えるようなことを言い出したのだ。

 見たいのか。だが、見たからってどうってことはないだろう。俺たちには全く関係のない代物だ。まあ、恐ろしくでかくて立派な代物らしいから、なにかの話の種にゃあなるかもしれんが。ああ、そうだ。色気づいた頃に、酒場の酌婦の気を引くにはよさそうだぞ。

 先ほどからずっと握りしめられている子供の手は、じっとりと汗ばんでいた。

 しかし、それは商人にはうかがい知れないことだ。だから、彼は答えが返らないことを、さして気に掛ける様子もない。

 さあ、おしゃべりは止めだ。さっさと寝て明日はさっさと出るぞ。おまえもいいかげんおとなしく寝てしまえ。

 あくび混じりにそう言って、ごろりと背を向ける。

 子供はその背を恨めしげに睨んだが、すぐに反対を向いて外套を体に巻き付けた。そしてきつく目をつむる。

 だが、しばらくじっとしていた子供は、傍らで寝息が聞こえ始めると、ぽかりと目を開けた。

 商人の様子を伺うと、こちらはもうぐっすりと寝入ってしまっている。

 彼は荒い仕草で外套をはねのけて起き上がった。

 船縁から外を見回してみたが、景色は全くと言っていいほど見えない。

 明るいのか暗いのか、日が既に落ちているのかいないのか。それすら定かではないほどに、辺りはただ白い。河の水も乳色にとろりと濁って揺れている。

 子供は顔をしかめると、じっとりと重く体にまとわりついてくる霧を振り払うかのように激しく身を振った。それから、湿気を帯びて冷たい着物の襟をかき合わせ。こぼれそうな期待と不安を胸に、あらためて霧の向こうに目をこらす。

 だが、一面の乳白色の世界を乱すものはなにもない。

 彼とて、もう十をいくつか超えている。人が天帝の船を目にすることが、どれほど稀なことであるかくらいは分かっている。

 けれど、もしかしてと思うと、どうしても眠ることができないのだ。

 眺めているうちに、白一色の霧の彼方に、なにやら別な色がちらついたような気がした。

 しかし、次の瞬間にはまた白ばかりにもどっている。

 それでも、必死に目をこらしていると、次第に霧は青みを帯びはじめた。いや霧が青くなったのではない。なにか巨大な青い物が、霧の彼方から近づきつつあるのだ。

 恐ろしく大きな何かだった。深い深い青をしている。

 船だ。

 子供は立ち上がった。小舟が揺れる。疲れたようないびきをかき続ける商人を気にかけることすら忘れて、船縁を握りしめながら近づいてくる物を見つめる。

 その大きさ。その青の色。そして水ではなく霧に浮かんでいるかのようなその姿。

 人の世の物であるはずはない。

 子供にもそのことは一目で分かった。

 下ってくる船が目の前にさしかかるのを、子供は食い入るようにして見つめる。

 やがて、はっとしたように身を乗り出す。

 船尾に近く。甲板へと上がるはしごがあったのだ。

 あそこからなら舟にあがれる。

 だが、船の周りでは水は渦巻き、うかつに近寄ろうものなら飲み込まれてしまうはずだ。

 近寄る手だてを求めて目をこらした子供は小さく叫んでいた。川の水は、そこに船が存在しないかのように穏やかに流れていたのだ。

 普通ならばあり得ないことだった。

 だが、子供はきつく目を閉じて頭を振る。 天帝の船はこの世の物ではない。水の動きが常とは違う程度のことに、何の不思議があろう。

 ためらっている間はない。

 何度か目をこらして、見間違いでないことを確かめると、彼は覚悟を決めて水の中に飛び込んだ。

 年に似合わない逞しい体を駆使して抜き手をきる。あっという間に、彼は梯子の元にたどり着いた。

 わずかなためらいの後、その手に梯子を握りしめると、黙々と上り始める。

 小さい頃から大柄だったうえ、この一年ほどは、商人の元でもっぱら力仕事をまかされている。並の大人よりもよほど力はあるのだ。

 ほとんど息を切らすこともなく、彼は甲板の上に体を引き上げた。

 そこは船の上とは思えないような場所だった。

 揺れることもなく、水音も遙か下方に遠い。

 もちろん立ち働く人の気配などない。太い帆柱のそびえる甲板の上には、ただ霧だけがたゆとうている。 

 ようやく恐れが子供の中で目覚めてきた。

 来てはいけない場所に来てしまったのかもしれない。その怯えに追い打ちをかけるように、獣のうなり声が響き渡った。

 いつの間に現れたのだろう。振り向いた先には、二匹の犬がじっとこちらを伺っている。

 殺される。

 だが、獣は襲いかかっては来ずに、なにやら彼を伺っている。

 背に帆柱が当たる。知らないうちに少しずつ後ろに下がっていたのだ。歯の鳴る音がする。自分の歯の音だ。悔しくて、その音を消したくて、歯を食いしばる。

 一匹がゆっくりとした足取りで彼の方へと近づいてくる。

 近づいてきた獣は、何度も何度も彼の匂いを確かめるように鼻面を寄せてきた。

 怖くて逃げ出したかった。だが、体が自由にならない。それに、どうすれば逃げられるのかも分からない。

 なにより、何も確かめないまま、奇跡のように出会えた天帝の船から逃げ出すわけにはいかないのだ。

 彼の周りを、獣はいぶかしげに回った。

 そして一声。鋭く鳴いた。

 声に応えるかのように、霧の中から人影が浮かび上がった。

 何事です。

 子供は、その場に座り込んでしまった。

 助かった。

 近づいてきたのか。それとも霧が凝ったのか。影の輪郭がたしかなものになっていく。

 現れたのは、老いているとも若いともつかない。男なのか女なのかも分からない。美しくも醜くもない。ただ、静かに端正な面差しをした何者かだった。

 おや。 

 その静かな面が不思議そうにかしぐ。

 そなたはなぜここにいるのです。ここはまだそなたの来るところではない。

 子供は臆していた。人に似ていてもこれは人ではないと分かったのだ。そして、人ではないのに人に近いことが、なにやらとても恐ろしかった。

 だが、彼はあわてて己を立て直す。すくなくとも、言葉は通じるらしい。ならば獣よりはよほどましな相手ではないか。

 ここに父ちゃんがいるはずなんだ。父ちゃんに会わせてよ。

 それが首をかしげたままだったので、子供は堰を切ったようにまくし立てた。

 数年前。大きな戦があり、彼の父は、村の男たちと共に兵士として徴用された。つらい戦いだったそうだが、それほど長い間ではなかった。

 男たちが戻ってきたのは、彼らが村を出てから数ヶ月後だった。

 しかし帰らない者もいた。

 彼の父もその中の一人だったのだ。

 だが、それだけならまだよかった。

 臆病者。

 共に徴用されていた村の男たちは、彼の父をそう言った。

 大きな体をしていながら一人の敵を倒すこともできなかった。と。

 敵を怖がって逃げてばかりいた父は、次第に荷物運びなどの雑用をさせられるようになっていた。なのに、ある日、夜襲があったときに馬にかかずらわっていて、殺されてしまったのだ。

 そんなはずはないんだ。

 子供は叫んだ。

 父ちゃんは強くて逞しかった。どんな大変な仕事があってもくじけなかった。その父ちゃんが敵から逃げるはずなんてないんだ。

 死んだのをいいことに、手柄を横取りしようとみんなが嘘を言ってるに決まってる。

 そうさ、運悪く殺されちゃったけど、きっとすごい兵士だったはずさ。

 だから絶対にこの船に乗っている。

 いや。

 それは静かに口を開いた。

 おまえの父はここには居ない。

 感情のない声が真実を告げていることはあまりにも明らかだった。

 しかし子供に認められるはずもない。

 嘘だ。

 嘘ではない。この船に迎えるのは人として稀なまでに勇猛な兵士のみ。ここにいなかったからといって、なにも不名誉なことはないのだ。

 子供の顔が青ざめて。その目には涙が浮かぶ。 

 父ちゃんはここにいる。ここにいなくちゃいけない。おいらの父ちゃんは誰より強いんだ。

 それは、淡々と続ける。

 いない。己の刃の前に倒れようとする者の恐怖を思い。そのものの家族の悲しみを思い。その優しさの故に、他者を殺めることのできなかった者のいる場所はここにはない。迫り来る火におびえる馬を助けようとして天にかえった魂は、輪廻の中で再び生まれくる日を待っているのだ。

 しかし、子供の魂には、その言葉の半分も届いては居なかった。子供は涙のたまった目でそれを見上げる。

 嘘だ。

 嘘ではない。

 父ちゃんを知らないくせに。

 知っている。私は判定者だ。

 嘘だ。

 叫びながら子供はそれに飛びかかっていった。だが霧のように体をすり抜けてしまう。

ちくしょう。

 振り返り、再び飛びかかろうとした子供の体がふいに浮き上がった。

 帰りなさい。

 めちゃくちゃに暴れる子供の体が、乳色の霧の中を浮いていく。

 船縁を離れ霧の上を滑っていく。

 いやだ。父ちゃんに会わせろ。会わせて。会わせてよう。

 しゃくり上げる声も、だんだんに小さくなっていく。

 その響きが消えるのを待つこともなく、それは振り返り。傍らにいた二匹の犬を見やった。二匹は不審げにそれを見上げている。

 どうした。ああ、そうか。おまえたちが惑うのも無理はない。あれは、おそらく数年の後にはここに迎えられる魂だ。ただ、いまはまだ時が満ちていない。

 獣は安堵したように霧に溶けていく。

 追って、それの姿もまた霧の中に滲み始める。

 乳色の霧を分け、蒼い船はこの日迎える魂の元へと静かに向かっていた。

 その頃、子供は先ほど後にしたばかりの船の上で、惚けたように座り込んでいた。

 商人の鼾が響いている。子供が居なくなっていたことなど知らずに眠り続けていたのだろう。

 不規則な重たい音へのいらだちが、いやな記憶を蘇らせる。

 耳にこびりついているのだ。父を軽んじ、彼や家族の者たちをあざけった村人たちの哄笑。あの音を消したい。なんとしても消さねばならない。そのためには父があの船にのっていてくれなければいけなかったのだ。

 船に出会えたときには、自分の幸運を確かに信じかけたのに。

 父さんが……。

 嘘だ。それとも何かの間違いだ。

 子供は、船縁に拳をたたきつける。

 認めることはできなかった。父が戦えなかった。などというたわごとは。

 そうだ。あんな得体の知れない者の言うことを信じる必要など無いではないか。きっとあれは、おのれが言うほどに全てを知っているわけではないのだ。

 ……。

 そうだ。示せばいいのだ。この身で。

 父の子である自分が、どれほどまでに勇猛であるかを見せつければ、彼らとて真実を認めぬ訳にはいくまい。

 子供の姿が商人の元から消えたのは、それからまもなくのことであった。



            ※  ※  ※



 何も見えなくなるほどに濃い川霧。

 砂漠に生まれ育った若者はもちろんそんなものを知らない。だが、思ってみることはできる。それは、砂嵐に似ているのだろうか。いや、むしろ陽炎に。

 違うのだろう。と思う。重くまとわりつく湿気というのが彼には想像しきれない。

 そのことがただ悔しかった。自分はこんなにも何も知らない。

 父に言えば、そんな役にも立たぬことなど知らなくても。と吐き捨てられて終わりだろう。商売に関わること以外に興味を持つ必要などまるでないと、あの男は思っているのだ。

 なぜ、あの人が自分の父なのか。

 父とよく似た自分の手を見つめる。

 あの話の中の子供は自分だ。ありのままの父を認めることは、屈辱なのだ。

 だが。

 若者は話の中の子供にいらだちを覚えてもいた。

 若者の父とは違い、話の中の父親は素晴らしい人物ではないか。それを子供が勝手に恥じているだけなのだ。

 私であれば、その父を誇りこそすれ、恥じたりしないのに。

 しかし、そんな感情をひきおこしたこの話も、所詮は人の口から口へ伝わるうちに形を変え、さらにこの老人の記憶の中でさらに大きく作り替えられた話なのかもしれない。そう思ったらふと爽快になった。

 そんな若者の横で、大きな剣を穿いた男が語り部と何か話している。

「あんたの話。わりと好きなんだけど。その……何というか、殺風景だねぇ。いや殺風景なのは悪かないか……。うん、そうか。女っ気がないんだ。さっき聞いた話も、今の話も、出てくるのは野郎ばかりじゃないか。もう少し。なんてぇかな。色気のあるというか、いい女のでてくる話はないのかい」

 語り部は、少し困ったように微笑む。

「色気のある話。……でございますか。そうですね。わたしも聞くのは好きなのですが、たしかに自分で話すのは苦手かもしれません。ですが、せっかくのご希望ですし。あまり艶めいてはいませんが、いくらか華やぎのありそうなのにいたしましょう」

 



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