序 ~ 天界の鳥 其の壱~
全五話の中編です。
岩と砂の中にその街は浮かんでいた。
ささやかな緑を抱く石造りの城塞は、今にも赤茶けた砂漠の中に沈んでしまいそうに頼りなく。それなのにしたたかに長い年月そこに在り続けている。
乾き疲れた旅人達はこの街にしばしの安らぎを求めた。
だが、そこはある意味で、砂漠よりもたちの悪い場所だったのかもしれない。東から西へ、南から北へ、それぞれの利を求めて行き交う者達が足を止める場所。彼らの欲望を食らって肥え太って来た街。
だから、彼はその街が嫌いだった。
いつからだろう、命を賭けて旅をする者達の利をかすめて安逸な暮らしをしている自分に嫌気がさすようになったのは。
おそらく、それはあの鳥に出会った頃のことだ。
鳥に出会ったから嫌になったのか、それとも嫌になったから鳥に出会ったのか……。
だからといって、この町から出ることもできず、若者は今日もふらふらと市を歩き回っていた。
市は今日もにぎわっている。
屋台の並ぶ一角では、料理の匂いが混じり合っていた。
ふっくらと蒸し上がった饅頭のとなりには、香料につけ込んで焼き上げた串焼き肉が並び、その向こうには果物と独特の香りを持つ野菜を煮込んだスープが湯気を立てている。
この町を行き交う人々が、それぞれのふるさとから持ち込み、いつかこの土地に馴染んでしまった食べ物だった。
各地から持ち寄られた香料の香が重なり合う。
店主たちと客は怒鳴り合うように言葉を交わし合う。
飛び交う言葉の全てが分かるものなど、おそらくいないだろう。
若者の傍らを、赤毛に緑の瞳を持つ、彫りの深い男が通り過ぎていった。少し先の店先では、金髪碧眼の踊り子が饅頭にかじりついている。
数こそ、黒い髪と目を持つものよりも少なかったが、異なる色彩を纏っている彼らに、奇異の目を向けるものはほとんどない。
ここは、そういう街だ。
若者は、様々な色彩と衣装と言葉を纏う人々の流れの中に、あてもなく身を任せていた。
狭いこの街の中で、そうしているときだけ、一人になれる。
自分の目的を満たすことで精一杯の人々は、若者のことなど気に留めることもないはずだから。
しかし、街はあまりに狭かった。
「ぼっちゃん。どうしました。具合でもお悪いんで」
突然、彼をこの世に引き戻した者がいる。
つやつやとした丸顔に、人の良さそうな笑顔を浮かべた男だ。
「ああ、いや。べつに」
若者は曖昧な言葉と共に、その場から逃げだそうとした。
以前、若者の父の元で商売の手伝いをしていた男だった。今では独り立ちして小さな店を開いている。
「お待ちください。見たところご用がおありのようでもない。この時間はお仕事が忙しいはずだ。こんなところをふらふらしていていいんですか」
振り切って逃げるには、彼はあまりに臆病すぎた。
「仕事なら。弟や義兄がちゃんと手伝っているよ。わたしのような者が、よけいな手出しをしても仕方がない」
片足は、今にも逃げだそうとするかのように、一歩踏み出しかけた形になっている。
しかし、男は、遮るように体を回した。
「なにをおっしゃいます。跡継ぎは、ぼっちゃんなんですよ。この前もお父様がこぼしてらっしゃいました。できが良いと思って甘やかしてしまったせいか、息子が最近、仕事を手伝おうとしなくなったって。以前は、ちゃんと働いてらしたじゃありませんか。なかなか目が利くから楽しみだと、旦那様もおっしゃってましたよ。いったい何がおありになったんです。悪い女にでも入れ込んでいらっしゃるんじゃないでしょうね」
人の良さそうな男は、いかにも親身な様子で若者の顔を覗き込む。
若者は、彼の視線から逃れるように顔を背け、髭の薄い口元に、ゆがんだ笑いを浮かべた。
「そんなことではないんだ」
その声には、微かにだが高慢な色が含まれている。しかし、男は気付く様子もなく問いかけた。
「なら。どうして」
「別におまえが考えるようなことではないさ」
男の表情が曇る。若者の声に棘があることに、さすがに気が付いたようだ。しかし、彼は世慣れた笑みを浮かべ、なにかまた口を開きかけた。
「すまない。ちょっと急ぐんだ」
遮るように言い捨てると。若者はそれ以上は何も聞こうとせず、逃げるように人の流れの中に飛び込んだ。
彼の足は先ほどよりも勢いづいていた。ぼんやりしていた顔にも悔しげな表情が浮かんでいる。
「おまえが考えるようなことであるものか」
きりきりと歯を食いしばる。瞳には憑かれたような光が浮かんでいる。
そう。彼らに分かるはずなどないのだ。若者自身にすら確かなことは分からないのだから。
ただ、ある日突然耐えられなくなったのだ。苦労して隊商が運んできた商品を、したり顔で安く買いたたき、別の客の足元をみて高く売りつけて得意になっていた自分に。
ただ、それだけのことなのだ。
流されるままに歩くうち、市のはずれまで来てしまった。
人の流れが澱んでいる。
このあたりで商われるものは、先ほどまでのような食料や、日用の道具では無い。贅をこらした豪奢な品々でも無い。
どこの寺院から持ち出されたともつかない奇妙な像。人には言えないような用途に用いられる薬。明らかにまがい物と分かる伝説の宝。怪しい辻占。
彼は足を止めた。
このあたりの店だ。彼があの鳥かごを手に入れたのは。雑多な荷物を広げていた露天商の店先にほこりにまみれて転がっていた。
それがなぜそんなにも彼を引きつけたのかもわからない。だが、魂まで吸い込まれるような気がしてどうしても離れられなかった。
彼の目利きは告げていた。これはただガラクタだと。しかし、なぜかあきらめることができず、彼は大枚をはたいてそれを購ったのだ。
そのときの商人はおそらくもうここにはいない。たとえ居たとしても、誰がそうなのかも分からないだろう。
それでも、あの鳥に出会った日からずっと、ここに来るたびに探してしまう。
見つかることを期待しているわけではないのだが……。
ぼんやり巡らした視線の片隅に、小さな人垣ができていた。
心地よいリズムをもった語りがそこから聞こえてくる。取り立てて美声というわけではないが、深みのある、印象的な声だ。
語り部だった。
おそらくは東方の民だろう。だが、深い皺に飾られた顔は日に焼けて赤茶け、砂漠の民のようにも見える。
人垣の中に分け入り、始まったばかりであるらしい話に耳を傾ける。
ここは、様々な国の様々な物語が集まる街だ。若者も幼い頃からおびただしい物語を聞いてきた。妖かしに取り替えられたしまった子供の話。水の中にある海王の館で供応を受ける話。空を飛ぶ絨毯の話。死せる女神の体から植物が生まれる話。垢でできた人形が力持ちの子供になる話。それから、もう数え切れないほどたくさんの。
だが、今日のそれは、聞き覚えのない物語のようだった。