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短編集

Direction

作者: 喜岡せん

思い出は砂に沈み、

記憶は海へ流れ出る。

或る人はその名を呼び、

或る人は名など無いと言う。

全てを底に沈めた彼女は扉を開け、

全てを外に忘れた青年が砂に埋もれた。

 手渡された羅針盤はかなりの年季が入っていて、一目で古物だと判った。

 本来ならば銀色に輝いているだろうフレームは鈍い錆に変容し、数多くの年月を相手にしてきたことが窺える。

 「もっと良いものがあるわ」

 役所の受付をしていた婦人が怪訝な顔をしてそう言ったが、むしろこれが良いのだと、私は半ば強引に頂戴してきた。

 そのことが一体いつの間に広まったのやら、気が付いたら「もの好きさん」とあだ名が付いていた。

 確かにひどく錆びついているものの、ひび割れた硝子の下の方位針は健在である。狂った様子もなく、ただひたすら一点に留まっている。

 ニューヨークを飛び出して早一年。ロスアンゼルス、ジュネーブ、ロンドン、パリ、香港と各地を旅した挙句、行きついた先がこの貝楼諸島だった。一体どこを経由して辿り着いたのか、困ったことに道程を微かにしか覚えていない。よほど疲弊していたらしい。

 「ここは何と言う国だ」と訊ねたことも幾度となくあるが、そのたびに「貝楼諸島ですよ」と要領を得ない返答を貰った。聞いたことのない諸島だったが、世界の広さに納得もした。

 世界も広いが、貝楼諸島も広かった。

 手中の羅針盤が北を指し、舟は東へ進んでいく。

 周辺に点在する島々を総称して「貝楼諸島」と呼ぶらしいのだが、島それぞれに正式な名があるわけではない。役所の婦人はそう言っていたが、舟の乗客に尋ねると「なに、ちゃあんとあるさ」と方々を指さしてもらいながら、ひとつずつ教えてもらった。

 舟は海面と潮風を切り、自分の金髪が攫われる。視界を邪魔する金を鬱陶しく思った瞬間、自分の目的を思い出した。今日は散髪に行きたかったのだ。だから私は東行きの舟に乗った。

 いい加減、忘れなければ。後ろ髪を引かれぬように。



 東を目指して走った舟は、ほどなくして東の端に着いた。

 端、ということもあって、この先の東側には島の姿は見えない。もしかすると見えないだけで、まだ先に島があるのかもしれないが、今の私にはこの島こそが東の端だった。

 一面に砂浜が広がり、陽を反射して宝石のように煌めいている。砂浜の上に家が建ち、噴水があり、椰子の実が立っている。

 一歩進むたびに砂が靴に潜り、じゃりじゃりとした感触が足の裏に伝わった。

「ここがイーストウッド島だ。ようこそ、東の端へ」

 さきほど各島の説明をしてくれた男が明朗な声で言った。目元を隠す大振りのサングラス越しに私の顔が映る。男の名はシーモアといった。

 イーストウッド。どこかで聞いたことのある名だ。しかし島の看板には「東」と書かれているだけでどこにも「イーストウッド」なんて言葉は出てこない。

 そもそもどこから見ての「東」なんだろうか。東に向かって走った舟は、中心に戻るのではなく西に戻っていった。私の足は東を目指していたのに、東は途端に中心になる。

 こうして徐々に自分の足元が朧気になってくる。私は一体、何処を目指せばいい。

「何処でも良いのさ、自分が行きたいと思った場所で」

 シーモアは言う。

「大事なことは、自分が楽しいかどうかだ。過程を楽しむんだぜ、モーロクしてからじゃやりたいことも出来ないからな」

 散髪屋までの道行きを共に歩き、とあるホテルの前で彼と別れた。エレベーターに乗る瞬間、乗り合わせた女性に何か怒鳴っていた気がしたが声を掛ける前に扉が閉まった。



 羅針盤の針は北を指し、私は南西を目指して歩く。砂浜はどこまでも続き、途中で出会う「散髪屋・ドールハウス」の看板を頼りにざくざくと足跡を残していった。その間も砂は順調に靴を侵食していく。

 ようやくドールハウスを見つけた時には、靴は普段の二倍の重さになっていた。

 此処が目指していた南西で、私の中心だ。

 コン、コン、コンと三度のノックの後、店のドアを開ける。

「ミズ・リー。いらっしゃるんでしょう、僕です、アイルです」

「あら、本当に来たの? わたくし冗談のつもりだったのだけど」

 ドールハウスから出てきたのは若い婦人だった。ミズ・リーは私の瞳を覗き込むと相好を崩して私を店内へ招き入れる。

「人聞きの悪い。あなたが来いとおっしゃったではありませんか。おかげで自慢の革靴がこのザマだ」

 ほら、とすっかり白くなった靴を見せびらかすと、ミズ・リーは可笑しそうに口を押さえて肩を震わせた。

「慣れない道で大変だったでしょう。まだあの羅針盤を使っているの?」

「シュアー。ここに辿り着けたのはこの羅針盤のおかげですよ。貴方が役所の廃棄処分専用段ボールに入れた瞬間、僕はこの羅針盤に惚れたんですから。僕よりも長い年月を貝楼で生きた『こいつ』が道を間違えるはずありません」

「ふふ、惚れているのはどちらかしらね。さて、散髪にいらっしゃったのでしょう? こちらへどうぞ、お客様」

 ミズ・リーはそう言って私の手を取ると、うやうやしく店の奥まで案内した。本来ならエスコートは男性の役目なのではないかと一瞬過った考えはすぐに馬鹿らしく思え、促されるまま用意された椅子に腰を掛ける。

 赤い色をしたクッションには無数の縫い目があり、多くの年月を相手にしてきたことが窺えた。

「せっかく綺麗な金をしているのに。伸ばさないの?」

 私の髪を束ねながらミズ・リーが問う。

「僕のポニーテールは凶器ですよ。僕が振り向くと無数の屍が散乱することになる。北欧の凍ったタオルよりも危険です」

「あなた面白い冗談を言うのね。分かったわ、どこまで切るの?」

「ばっさり。後ろ髪を引くほどの長さも無いくらいに」

「オーケー」

 銀色の凶器が目の前を横切り、ザクリと聞き慣れない音が耳元で鳴った。

 風が首を擦る。



 私がこの島に来た時はここら一体全部コンクリートだったのよ、とミズ・リーは言う。

 彼女の話によれば、今の真っ白い砂浜の下にはかつてのコンクリートが埋まっているのだという。つまり、砂浜を掘り進めたところでオアシスは出てこない。

 始めは遠い国から風に乗って砂が運ばれているだけで、空が僅かに霞む程度だったが、次第に風は山を乗せて嵐になり、島民が寝静まった一夜にして島全体を侵略し尽くした。

 島の目印をマンホールに頼り切っていたせいで、三か月は迷子になる島民が出たという。しばらくして距離と時間と速さによる計算式をもとにした地図が作成され、ついでに羅針盤を配布することでこの問題は事なきを得た。

 島の学者が言うに、はっきりとした原因は分からないもののこれは何らかの警告に違いない、戦争か、宣戦布告か、そうだ宇宙からのメッセージだ、宇宙人が侵略してくるぞということらしいが、ミズ・リーは「馬鹿らしい」と一蹴したのち、いつも通り店を開けていた。ちなみに今日まで未知の生命体を乗せた宇宙船が降りてきたことはないという。私もミズ・リーに賛成する。

 第一、こんなちっぽけな島ひとつを占領したところで何にもなりやしないだろう。たとえ宇宙人が住みだしても「いらっしゃいよく来たね」と島民たちが笑顔で受け入れる姿が容易に想像できる。宇宙人にできることは占領ではなく共生だ。島民を皆殺しにする選択肢もあるにはあるが、宇宙人にそんな度胸は無いと思っている。宇宙人が銃を構えるよりもミズ・リーがハサミを投げる方が断然早い。



 私の散髪は三十分もかからず終わった。

 風に靡いた後ろ髪は思い出の中に消え、ざりりとした感触だけが手の平に伝わる。視界良好、前髪も掛からない。

 足元に散らばる私の一部をホウキで集めながら、ミズ・リーは改まったように私の名を呼んだ。ミスター。ミスター・アイル、と。

「なんでしょう」

 鏡の中の見慣れない顔を睨みながら返答する。

「あなたの髪、貰っても良いかしら」

「ええ、構いませんが、一体何を?」

「あなたの人形を作るのよ。本当はその綺麗なシアンの双晶もいただきたいのだけど」

「ご冗談を。世界を見尽くすまでは勘弁してください」

「冗談よ。瞳を貰うくらいなら腕の良い剥製職人を呼ぶわ。ところで帰り道は分かるかしら」

「ご心配なく。相棒がいます」

 私はポケットから古びた羅針盤を取り出した。目的地は北東。目印は無く、頼りになるのはこの針だけである。

「そう、そうね。足元に気をつけて」

 ミズ・リーに手を引かれ、私は再び砂を踏んだ。

 足元のもっと深い場所にあるコンクリートに思いを馳せながら行きと同じように足跡を残していく。

 目的地は北東。

 目印は無い。

 頼れる相棒は歴戦猛者で、名誉ある傷を背負っている。

 きっと本当に宇宙人が侵略してくれば、こいつ以外には頼れないだろうなと頭の中でぼんやり考え、ミズ・リーと共にハサミを構える姿を想像していた。



 了

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― 新着の感想 ―
[良い点] 不思議な世界観のお話だなと思いました。まえがきの文章も、詩みたいで素敵です。 タグに「非日常」とありますが、まさしくその通りですね。私たちの知っている世界とは、ちょっと違った時間が流れて…
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