春霞と春愁のデート
僕とユウキは、目白にある学習院大学の前を歩いていた。
それは、まだ、春の夜のこと。
大通りと、大学を隔てる石垣の上に植えられた桜は
敷地外へと大きく枝を伸ばし、歩道にいる僕達の頭の上に伸びていた。
その枝から、冷たい風に吹かれて、花びらがひらひらと上から落ちてくる。
「ユウキの頭に、くっついてるよ」
ほら。と僕は摘んだ花びらを
ユウキ手を掴んで、手のひらを上に向かせ、そこにそっとのせた。
今日は桜を見たいというユウキのリクエストで
散歩がてら、僕たちはここまで歩いてきた。
ユウキは花びらの乗った左手をそっと鼻に近づける。
「においする?」
僕が聞くと
わかんないですとはにかんだ。
ふっと、手のひらに大きく息を吹きかけて
勢いよく花びらを飛ばしたあと
息を吐いた肺を、春の空気で満たすように大きく鼻から吸った。
そうして言った。
「春のにおいしますね。他の花の香りだと思いますけど」
しばらく二人でひとけの無い、夜の静かな道を楽しんだあと
ユウキが思い出したように呟いた。
「春先は不安になるんです。」
僕はその言葉の意味がわからなかった。
「なんで?」
「冬場は、空気が凍てついて、澄んでいて、静かだったでしょ。
だから、物事の輪郭がものすごく鮮明にわかるんです。
例えば、
人が僕のそばにいたら、風の流れが変わって
冷たい空気が柔らかくなったり
その人から発する熱だったり
言葉を発しなくても人がいることを察知できるんです。
それを温かいなあ、ありがたいなぁって感じるってことは
僕の体は、生きるために、その人を必要としてるってことで…」
あぁ〜!!もう!
僕の言いたいこと、わかりにくいですよね?と
ユウキが、照れながら笑う。
「つまり、何が言いたいか要約すると
僕のそばに誰かいてくれて
生き物として本能からその温かさを必要としてて
その上、それが大切な人なら心まで温かいなぁってなるんです。」
僕は、そんなユウキの言葉に嬉しさを感じ
口角をあげながら答える。
「たしかに、言いたいことは、わかる気がする。気配がわかりやすいよな。」
ユウキは、感覚を言葉にしようと続きを話した。
「そうなんです。
でも、春先になると暖かい日差しが
花や生き物を一斉に起こしてしまって、
空気の中が賑やかになるんです。」
人がいることでの、空気の温かみを感じなくなってしまうし
花粉で、そばにいる人の匂いもわからなくなってしまう。
そして、生物みんなが活発になるから、ガヤガヤと音がたくさんして…
近くにいるのに、賑やかさにかき消されて…
大切な人は、変わらずにそばにいてくれて
僕はちゃんと必要としてるはずなのに
気配や温度がわかりにくくなってしまって
心にまで少し距離ができてしまったみたいな。
「そういう、寂しさが少しあるんです」
ユウキにも春が来る嬉しさはもちろんある。
生き物だから、厳しい冬より、暖かな春のほうが断然心もウキウキとする。
でも
手探りで歩いても、感覚がつかめない、この、なんとも言えない不安感は心の中にずーっとあって…不安だった。
ユウキの目は、太陽の光が少し見える程度で
ほとんど何も映さない。
生まれついてのもので、年々見える光も弱くなってしまっていた。
だから、視覚以外の感覚で世界を見ている。
今日の桜も、香りや音は楽しめるけれど
その美しい薄桃色を目で映すことはなかった。
そして、
嗅覚や音で捕らえられていた世界は、春になると賑やかさによってぼやかされてしまう
「だから、物事の境界が曖昧になってしまうんですよね」
ユウキが、少し悲しそうな声でいった。
ぼくは、それを聞いて少し嬉しい気持ちになった。
「そうか、春霞は君の世界にもちゃんとあるんだね
君は、景色としての遠い近いは見えないけれど
君のそばにある物事や、人との心の距離をいつも見ているんだね」
「先生。春霞ってなんですか?」
「春は霧キリや靄モヤが発生しやすいんだ。
それを霧が立つ、とか霞が立つっていう。」
霧や、靄っていうのは
こういう字を書くんだ
そう言って、僕はユウキ背中にそっと字を書いた。
「雨かんむり、、、」
「そう。ユウキは、霧や霞は知らないかな?」
「わかんない」
「霧や霞は、空気中に気体となって含まれた水分が
気温の低下によって、小さな水の粒に戻ることによって
視界が見えにくくなるんだ。」
「へえ」
「春先に、霧や霞によって、遠くが見えにくくなった視界のことを春霞と、よぶんだ。」
つまり、ユウキは
人と自分との間に感じていた物理的距離や心の距離を
冬はより鮮明に感じていたのに
春になるとぼやけてしまうという。
そんな感覚は、まるで、春霞のようだと僕は思った。
「そうして、いまのユウキようになんとなく物憂げになってしまうことを、春愁と呼ぶんだ。」
「シュンジュウ、、、。」
春になると、えもいわれぬ、不安や
物憂げになってしまうこのことに
名前がついているんですね。
不思議、、、
今まで、名前の見えなかったものに名前があると知ると
とたんに、その形が鮮明になり、自分の中で扱いやすいものになりますね。
そういって、ユウキはまた
「春霞」とつぶやく
「人の名前みたい」
せんせい。
距離が遠く感じてしまわないように
「手をつなぎませんか?」
そう言って、ユウキは 閉じた瞼の目尻を下げて笑った。




