いつもの道
なんとなくだった。その日は、たまたま仕事が休みになり、予定も無く特にやりたい事もなかったため、足の赴くままに地元を彷徨っていた。
色づいた葉が絨毯のように拡がり、子供が元気に騒いでいる公園で、一人だけ汗だくのアラサー男性の姿が、そこにはあった。認めたくないがそれは僕だった。最近は電車や車にばかり乗っていたせいか、散歩で情けなくも息も上がってしまっていた。その場に全くそぐわない異質な人物に、道ゆく人の視線も刺さる。
どうして休日にこんな思いをしなければならないのか、馬鹿らしくなった僕は逃げ出すように公園から離れた。
アイスと酒でも買ってすぐに家に帰ろうと思い、近くのコンビニへと足を運ぶ。コンビニから出ると、なにやら見覚えのある景色だった。地元のコンビニなど身近すぎて見覚えも何も当たり前のように今まで幾度となく通り過ぎたり訪れたりと見ているはずだが、このコンビニから出た瞬間の景色を僕は覚えている。たまらないほどに心に刻み付けられている。しかし結局その正体は分からない。なんだか懐かしくなった僕はそのまま近くの中学校へと足を運んだ。
地元にあるこの公立の中学校はいわゆる僕の母校というやつだ。住宅街の中にひっそりと佇んでいるため、高校入学時、自己紹介でこの中学校の説明に難儀した記憶がある。中学校の場所を説明することは、おおよその住所を説明するに等しい行為であり、自転車移動が主流の高校生の遊びにとっては、集合場所を決める際に必要不可欠な情報であった。そんな昔のことを今更思い出すのも、今自分が立っている場所が中学時代幾度となく通った通学路だからだろう。しかし、例のコンビニは通学路から外れており、更に中学時代は買い食いが禁止されていたため、より一層先ほどの郷愁の謎は深まるばかりだった。
家に帰ろうかと考えたが、なんとなくついでに高校へと歩みを進めていた。高校は、家から見ると中学と同じ方向ではあるため、途中まで同じ通学路なのだが、高校となると学区も広い、毎朝急な坂ばかりの通学路を自転車で一時間かけて通学していたと思うと、軽く散歩しただけで汗まみれになっている自分がひどく衰えて感じられた。流石に徒歩では無理があると思い、乗り捨て型のレンタサイクルを使用し、懐かしい道を進む。しかし、所々見慣れない光景があり、肉体の衰えとは別に月日の流れを否応なく感じた。帰り道によく通っていた定食屋はスポーツジムになっており、高校の最寄駅も改装され洗練された佇まいになっていた。
高校には到着したものの、用もなしに敷地内に入るわけにもいかず外周を歩いていると校庭に色彩にあふれたシャツに身を包んだ生徒たちがわらわらと出てきた。どうやら今週末には文化祭が行われるらしい。
高校の頃の文化祭の記憶はあまり思い出したいものではない。若気の至りでバンドを組み全校生徒や来訪者の前で歌ったが、まるで出鱈目な音だった。楽器の音が大きすぎて僕の声は掻き消され、それに負けじと大声で歌う僕の声は音を外していたらしい。黒歴史と言うほどではないが、未だに同級生からは飲み会で馬鹿にされる。体育館から響くやはり出鱈目な演奏に、自分にはもう訪れることのない青春を感じ、どことなく寂しい気持ちで家へと帰る。
大学には電車で通学しており、特に通学路に思い入れもなく、また使っていた路線に至っては現在毎日通勤で使っている路線と同じであるため、大学を訪れようとはしなかった。これで長い通学路ツアーも終わりを迎える。短く当時は自覚することすらなかった青春を思いがけず今更思い返すこととなった散歩だった。明日からは仕事が再開する。高校卒業以来、八年ぶりに訪れたこの通学路を次に辿る日は何年後だろうか。更に衰えた僕は更に変わっているだろう景色を見て何を思うのだろう。
家に帰り着く前に、最後にもう一度あのコンビニに向かった。コンビニへと向かう途中やたら新しい学習塾が目に留まった。そして、思い出す。あそこには昔違う学習塾があり、僕はそこに通っていた。そしてあのコンビニには塾の帰り道に寄っていたのだ。部活を引退し受験勉強をする僕たちは毎日飽きもせずに二つ割りのアイスクリームを分け合って食べていた。
そう、たしか隣にいたのはクラスメイトの女の子だった。学校では特に知り合いでもなかったが、塾で毎日顔を合わせるうちに打ち解け毎日のようにくだらない話をしながら一緒に帰った。お互いに得意教科を教え合ったりもした。同じ高校に入学したが、受験という目的を失った僕たちはそれからはクラスが同じになることもなく、特に話をしたわけでもない。そのまま高校では接点がないまま卒業してしまった。恋愛においてはとことん奥手だった僕は結局気持ちを伝えるどころか今や連絡先すら知らない有様だった。思い出せないというよりは思い出さないようにしていた。
コンビニで二つ割りのアイスを買い一人で平らげた。もちろんコンビニには彼女の姿などない。家に帰ってもその日はなかなか寝付けなかった。
次の日の朝、最悪の目覚めだった。昨日の散歩のせいで身体が重く、すこし動くたびに鈍い痛みが拡がっていく。筋肉痛などここ数年経験がなかった。気怠いまま玄関を出るとつい通学路の方に足を運びそうになり踏みとどまる。やはり何年経っても昔の習慣は身体が覚えているようだ。
地下鉄は相変わらず空いている、この路線はユーザーが少なく、いつ乗っても座れるのが魅力だ。二両目の窓際が僕の定位置だった。
暗黙の了解のようなもので、路線ユーザーはいつも決まった位置に座っていることが多い。たとえば僕と同じ駅で降りるスーツ姿の彼女は僕の斜め前に座ることが多い。彼女の結んだ髪が電車の揺れに合わせて揺れているのがいつも視界に入るため、正直うっとうしい。
この景色も老後は懐かしく感じるのだろうか。職場の最寄り駅に着き微笑ましい気持ちで改札を出る。やはり目の前には彼女がいる。ふと横顔が見えた。僕は彼女の手を掴んだ。
「何の用?」一つ結びの彼女は言う。
「久しぶり」僕の胸は早鐘を打っている。
「誰かわかんないけど、とりあえず離して」彼女はぶっきらぼうに言った。
「今週末さ!」声が上擦りそうだ。身体にまるで力が入らない。
「高校の文化祭一緒に行かない?」
「何のこと?まぁ空いてはいるけど…」
それよりさ、彼女は続けた。
「なにその声。また音、外れてるよ。」
彼女は微笑んで僕の手を握り返した。
あの通学路には一週間後に再び訪れることとなった。当然景色に変化なんてものは全くなかった
ただ僕のアイスが半分になった。
それだけの話だった。