宵の憩い3
3階層に渡る塔内庭園。水瓶の間から続く、その螺旋状の階段を降り終えた時、シャーロットはその気配に見上げた。
それと同時に、「イシシシ」という気味の悪い声が聞こえると、その声の主にシャーロットは眉をひそめた。
女神を象った、大きな彫刻の頭上にいた黒い小柄な影が、硝子壁から差し込む月光に照らされ、その華奢な姿が露わになると、紅蓮の瞳がギラギラとその眼を輝かせた。
「よお。優等生♪」
ご機嫌な顔でその少女が言うと、少女の尻から伸びた尾がその感情を表すように、ゆらゆらと揺れた。
「こんな時間に夜のお散歩なんて、奇遇だねえ」
少女の姿は、それを見た者なら勇敢な騎士であっても、その瞳に恐怖を浮かべたことだろう。血のような紅い瞳を輝かせ、白い八重歯のような牙をギラリと光らせる彼女のその姿は、文字通り、悪魔のように映った。
ごく普通の人間であれば悲鳴の一つもあげたことだろう。少なくとも、怯えた表情くらいは拝めるはずだ。
しかし、その少女の期待はすぐに裏切られた。
「あなたこそ、こんな時間にそんな所で一体何をしているのかしら。アスピスさん?」
物怖じしない、毅然とした態度でシャーロットが言うと、アスピスの笑みに不満の色が滲んだ。
しかし、それをすり潰すように、アスピスはその声調のまま返した。
「驚いたなあ。まさか名前を知っていてもらえているなんて、思いもしなかったよ」
アスピスが言い切る前にシャーロットは踵を返すと、
「私は部屋に戻って、もう寝るつもりよ。貴方もこんなところで油なんか売ってないで、さっさと寝なさい」
シャーロットがそれだけを言い残し、髪を靡かせながらその場を去ろうとすると、アスピスは引き止めるように言った。
「知ってるんだぜ。アンタが学院長の部屋に行っては、毎晩のように密会してるってことをさあ」
その言葉を聞くと、シャーロットはピタリを足を止めた。
睨みつけるような目が、振り返った彼女の顔に見えると、アスピスは、待ってましたとばかりにニヤリと笑った。
「アンタは確か、この学院で一番優秀な生徒だったよな?
学院長のお気に入りで、学院始まって以来の逸材。
だけどそんな優等生が、こんな夜遅くに学院長のところに行くなんて、変な話だと思わないか? まるで人目を盗んでコソコソしているみたいじゃ、怪しまれても仕方がないっていうかさあ」
「別に。疚しいことなんて特にしていないけど」
「嘘をつくのが下手だなあ。アンタには数カ月前から目をつけてたんだぜ?
今さら、何もしてません、で通るとでも思うのか?」
挑発の音を帯びた声で、アスピスが言うと、シャーロットは一層深く呆れた息を吐いた。
「はあ、呆れた。よっぽどの暇人さんみたいね」
シャーロットが言うと、アスピスの額にピクリと血管が浮き出た。
シャーロットはそれを良いことに、わざと煽るように加えた。
「それは良いして、貴方こそ隠し事があるんじゃないかしら。
なんでこんな学院に、"七帝の魔物"がいるのかしら?」
シャーロットがその言葉を口にすると、アスピスは目を見開いた。
表情から笑みが消えたアスピスに、シャーロットはお構いなしに言い加える。
「わざわざ世俗に塗れてまで、ここに来たってことは、よっぽど学院のことが気になる理由があるのでしょうけど、バレバレなのよね。
他の子達は、仮装好きの問題児程度にしか見えていないみたいだけど、尻尾は出てるわ、魔力は溢れてるわ。そもそも擬態ってものが、分かってないのよ。
貴方の擬態じゃ、擬態の意味もないっていうか。
人間に化けた経験が少ないならまだしも、もしかして、擬態がお下手なのかしら?
もし良ければ、私が擬態の仕方を指導して差し上げようかしら?」
シャーロットの挑発は容易く、アスピスの怒りの沸点を越えさせた。
笑みが消えた、その形相が鬼のように恐ろしい表情になると、煮えたぎった怒りは、恐ろしく静かな声となって現れた。
「言ってくれるじゃねえか、クソ人間が。
よっぽど汚ない挽肉になりたいみてえだな。」
アスピスの背から、皮膚ごと衣服を突き破るように蝙蝠のような禍々しい翼が大きく開くと、両手の先から曲剣の刃のような爪が音を立て広がった。
擬態が解け始めたアスピスの恐ろしい姿に、シャーロットは相変わらず平静を保っていた。
そして、嘲笑を浮かべながら、こう言った。
「やめておきなさい。アナタじゃ、相手にならないわ」
アスピスの俊足は、瞬く間にその鋭利な爪の先をシャーロットの瞳の前まで迫らせた。
――ブチ殺すッ!!!
しかし、どうしたことだろう。
アスピスの鋭く尖った爪は、シャーロットの眼球を貫く寸前、ピタリとその勢いを止めた。
アスピスも何が起こったのか分からない様子だった。
何が起きているのか、理解できない苦しい感情に、その理性がようやくその異変に気が付くと、アスピスはハッとした。
――足が震えている。
足だけではない。
爪先から腕、全身がカタカタと小刻みに震えていた。
温度の下がった体に、皮膚の感覚が戻ると、鳥肌が立っていることにも気が付いた。
「一体、何が起こって――ぐあっ!!?」
砲弾を受けたように、アスピスは思い切りに飛ばされると、女神像に激突し、瓦礫の中に倒れた。
「言ったでしょう。アナタと私じゃ、相手にならないって」
シャーロットの言葉にアスピスは顔を上げた。
――なんでだ? なんでこのアタシが、人間の小娘如きに恐れを感じている!?
体の反応と訳が分からない現実に戸惑ったアスピスの表情は、シャーロットの静かな眼にしっかりと映っていた。
――ダメだ。一歩も動けない。
こんなにも奴を八つ裂きにしたいのに、体中がそれを拒んでやがる。
困惑するアスピスに、シャーロットは歩み寄ると、アスピスを見下ろしながら静かな声で言った。
「貴方たち、悪魔がこの世に現れたのは、人間の心に欲が生まれた数千年も前のこと。
だけど、それよりも前から地上に君臨していた私たちにとって、それはつい最近の話」
アスピスは目を大きく見開いた。
その瞬間、アスピスの表情は戸惑いと混乱から、驚愕に変わった。
目の前にいる者、その少女の正体に気が付くと、アスピスは口をパクパクとさせた。
「あ、アンタは……」
アスピスのその様子に、シャーロットは髪をなびかせると、気高い眼差しを向けた。
その一瞬に放たれた、計り知れない魔力を感じると、アスピスは確信した。
月光に照らされた、神々しい金色の髪。殺意と戦意を瞬く間にして喪失させる、圧倒的な覇気。
今の今まで気が付かなかった。
いや、恐らくアルフィーでさえも、その正体に気が付くことは困難を極めるだろう。
どんなに魔力を感知する能力が優れていようと、決して明らかにすることのできない完全な擬態。
シャーロットというのは、偽りの名。
そう、目の前にいるこいつは――人間なんかじゃない。
七帝の一柱にして、遍く獣たちの頂点に君臨する魔獣たちの王――シャーナ。




