水瓶の間のテラスにて
「ごめんなさい! 遅くなりました!」
ツルハの声に気が付くと、胡坐をかき、白い雲のゆく天を仰いでいたアスピスは、ツルハに振り向いた。
アスピスに再会したのは、ようやく学院の生活に足がついた頃だった。
学び舎で過ごす学友の顔も見慣れ、慣れないことばかりで長く感じられた一日も、緩やかな流れの川を下る船のように過ぎて行った。
気が付けば、ユズハ達とはすっかり打ち解け、いつの間にか、まるで昔から一緒にいるような雰囲気が生まれていた。あれほど真新しく映っていた学院も、今ではグラディワンドの城のように――もしかしたら、それ以上に落ち着く居心地の良ささえある。
ツルハは、学院での生活を心から楽しんでいた。
幼少期から張り詰めた空気ばかり吸っていたツルハにとって、同じ歳頃の子達と一緒に学び、遊び、同じ屋根の下で過ごす生活は、とにかく新鮮で開放的だった。
自身の身分と学院に来た理由を忘れかける程の生活の中、ハッとそれを思い出すのは、たびたび学院で見かける、アスピスの姿を目にする時だった。
アスピスの姿を目にするたびに、話しかけようとは試みるものの、いつもそのタイミングが合わずにいた。
特にアスピスからも話しかける様子もなく、お互いにすれ違う形で日々が過ぎて行ったが、そのきっかけはアスピスの方から訪れた。
席を外した隙に置かれたのか、机上にあった、その折りたたまれた紙を開くと、そこには「水瓶の間、テラスにて待つ」とだけ記されていた。
名は記されていなかったが、不思議にも、それがアスピスからのものだと、すぐに分かった。
ツルハの声に振り向いたアスピスの白い顔は、相変わらず不機嫌そうな表情を帯びていた。
「ギル教師に急に呼ばれちゃって……」
ツルハが手を合わし、きまり悪そうに言うと、アスピスはプイッとまたそっぽを向いた。
「随分と楽しそうじゃん」
苦い口をしていたツルハの顔が、不意をつかれたようになると、ツルハは「ああ」と気が付いたように手を打った。
「うん! 最初の頃は大変だったけど、皆優しくて面白くて、凄く楽しいよ。
魔法術の講義は新しいことばっかりで面白いんだけど、今度始まる実践講義は、私にできるかなあって、今から心配になっちゃって」
ツルハが苦笑気味で言うと、アスピスは大きく呆れたように息を溢した。
「それ以外に進展はないわけ? 学院で金髪の尻尾を掴んだとか、重要な機密を手に入れたとか」
アスピスが訊くと、ツルハはうっかりしていたように口を手に当て、首を横に振った。
その様子を見ると、アスピスはさっきよりも大きな息を吐いた。
「全く、何のためにアンタを学院に連れて来たと思ってんだよ。
あれだけ交友広めてるんだから、何かしら進展があっただろうなと思ってたのに」
「ごめんなさい……。
アスピスちゃんの方は?」
ツルハが訊くと、アスピスは少し慌てたように目を丸くした。
「あ、アタシ?
ええい! 前にも言ったように、アタシは下手に学院をうろちょろできないの!
学院に何かあるとすれば、きっとあの学院長が絡んでるんだろうけど、間違いなくあいつはアタシの正体に気付いているだろうし。
人間のアンタなら、怪しまれずに学院の何か尾を掴んでくれると思ってたのに」
アスピスが頬を膨らませて言うと、ツルハはシュンと頭を垂らした。
しばらくの沈黙の後、ツルハは何かに気が付いたように短い声を漏らすと、手に抱えていたそれをアスピスに見せ、言った。
「アスピスちゃん。私、お弁当持って来たの。
進展は今のところないんだけれど、良かったら一緒に食べない?」
アスピスは細い目で、蓋の開かれた箱の中のサンドウィッチを見ると、プイッと顔を背け、
「フンッ! 誰が人間の作った物なんか!」
「……そう、だよね。
ゴメンね。アスピスちゃん、いつもお昼に見かける時、緑葉庭園で1人でいるから、ちゃんとご飯食べてるかなって心配で。
余計なお世話だったね。私、ついお節介しちゃう悪い癖があるから」
ツルハが苦笑してその蓋を閉めようとすると、「あああ!」とアスピスは慌てた顔で声を漏らした。
ツルハが驚いた様子で、その手を止めると、アスピスはそれを一つ手につまんだ。
「あ、アタシのために作って来たんだろ。人間なんてクズでバカで鳥肌立つくらいに嫌いだけど、供物だったら遠慮なく貰ってやる。ありがたく思え!」
アスピスがそのままそれを一口、口に運ぶと、大悪魔の少女の不機嫌そうな顔は、一瞬感動したように目が輝いた。
それをもう一口と口に運ぶと、モグモグとあっという間に食べ終えた。
「……もう一個良い?」
アスピスが訊くと、ツルハは嬉しそうに頷いた。
「全部あげるよ。
アスピスちゃん、私がいると迷惑だと思うから、私、先に帰ってるね。箱はまた今度返してくれれば良いから」
ツルハがその場を去ろうとすると、アスピスの小さな手がツルハの手を掴んだ。
「全部食べ終わるまで、ここにいろ。
その……、そうすればアタシがアンタのところまで返しに行く手間が省けるだろ!」
アスピスが言うと、ツルハは嬉しそうに笑み、快く頷いた。




