二人の関係、理想と現実。その1
カルキ臭いに汗臭い。ついでに言うと血なまぐさい。
飾り立てられた野営のテントの内部、焚きしめられた香の匂いは、
テントの大きさに不釣り合いなベッドに横たわり、男にかき抱かれる彼女には、
もう慣れ切ってしまい届かない。
男が動くたびに、半分演技みたいな甘い声を上げ、長いダークブラウンの髪を振り乱し、潤んだ瞳をきつく閉じる。
それが男という生き物を煽る行動だと、彼女は完全に冷めた頭で計算している。
じゃらじゃら、と、最早身に申し訳程度に纏っている…、これもまた男を煽る様に出来た、前空きのドレスの装飾が、鈴の様に音を立てる。
「……ッ、…メ、ィ…!」
独り言、人の名前だろうか?
そっと目を開ければ、男は切なそうな青い瞳を彼女に向け、ひたすら誰かを呼んでいる様に思える。
自分の名前とは掠りもしない呼び声。この男の妻の名前だろうか?
いや、まだ少年にも見える男の容姿からして、恋人の名前…。と思ったほうが正しいのだろうか?
もう慣れに慣れてしまった光景。
「っ…あっ、キー、スっ…!」
行為に及ぶ前に、こんなことも有ろうかと聞いておいた名前を、呼んでみる。
彼女に対して、思い人を重ね合わせる男は少なくはない。
すっかり、彼女を恋人だと思い込んでいる男は、青い目を愛おしげに細め、しつこい位の口づけを降らせる。
彼の亜麻色の髪は、汗により頬に張り付き、時折、切羽詰まった様に眉根を寄せ、熱い吐息を洩らす。
その容姿はさながら戦う麗しき王子様。もしくは天使か…だと、彼女は思う。
平時であればこんな処に絶対に用は無さそうだ、と思わせる美貌を醸し出していた。
だが、
国に置いてきた恋人が忘れられなくとも、女は抱きたいなんて考えは、随分身勝手で、外見に似合わず汚らわしいお考えだ。
まあ、そういう考えの男や、高ぶる気持ちを抑えられずに、持て余す奴がいる…。
そのお陰で自分が必要とされて、この場所に居られるのだからと、ぼーっとした頭で考えつつ、強請る様に、男の腰に足を絡めた。
「世話になったな」
言い捨てる、正にそういった、何の感情も含まれていない口調で一言を告げ、
男は女が未だに気だるく横たわるベッドに、赤茶色の…、包みのようなものを放り投げ、
何事もなかったかのような涼しい顔で、テントの外へと出ていく。
「…さんくす。」
その背中を見送りながら、ひとりごとみたいに彼女は礼をいってみたが、その言葉はたぶん男には伝わっていない。
だからと言って、なにかあるのかと言われれば、別にこれといって彼女には何にもないのだが。
散々見慣れた光景。
ここは戦場の野営地で、そこで自分は戦う男たちの慰み者として、抱かれる生活をしている。
そのことに関しても、彼女には現実味が湧かない。
ただ、好きなように弄ばれ、
戦いに赴く男たちの背中を見つめ、
戻ってきた男たちに再び抱かれる。
その繰り返し。
彼女を抱いた男たちが、次の戦では姿を見せなくなっても、
行き場のない戦の高揚感を、半ば無理やりにぶつけられたとしても、
先ほどのように、どこかに思い人を残している男が、身代りに自分を抱いたとしても、
彼女には全てが、どこか遠くで起きている、夢物語か、映画か、みたいに思えて。
夢みたいだと、頭では考えていても、肉体は疲れる。
少々だるい身体を起こし、乱れた服装を整えると、先ほど男が放った包みが目に映った。
開けば、幾ばくかの金と、綺麗な色紙に包まれた、…色とりどりのキャンディ。
「…あら、意外と気が利く奴じゃない。」
口に放り込めば、素朴な甘い味が広がる。
もっと美味しいキャンディを、彼女は過去に多数食べたことがあるが、
それでも、その甘味に疲れが癒される。…気がした。
精神が、知らない男に抱かれることに慣れても、元々彼女は抱かれることを生業としている職業の人間ではなく、寧ろその逆、このような行為には淡泊な人間。
彼女…大沢里香は、
つい、数か月前まで、日本国で女子大生として、
何不自由なく、まあまあ平穏に生きてきた人間が、
何の因果か、見知らぬ世界の戦場で、男の慰み者として生きる道を選んでいる。
無理やりやらされたわけではなく、れっきとした彼女の意思で…だ。
一人の人間の、傍に居たいがため。ただそれだけの為に。
「リカ〜?いるか?」
不意に間の抜けた声が、テントの外から彼女の名前を呼ぶ。
…戸狩つばさ、彼女と同じ境遇で、この世界に飛ばされながら、
彼女とは立場を180度変えてしまった人間。
そして、リカの元…彼氏。
「いいわよ、別に入っても。今なら誰もいないし。」
その言葉に応え、ひょっこり顔をだしたのは、真っ黒いローブに身を包み、頭にとんがり帽子をのっけた、『これぞ魔法使い』みたいな恰好をした、少年。
これでほうきでも持とうものなら、空をも飛べそうだ。
「アンタ、まだそんな間抜けな格好してるの…?」
溜息まじりのリカの言葉に、魔法使いの格好の少年は、
少々年より幼い顔をむっとさせる。
「だってよ〜、魔法使いって言ったらこの格好じゃないか!
どうせなら、見た目もファンタジックに!マジカル★な感じにしてぇし〜。」
ばっ!と天に手をかざせば、現われたのは、ほうき…ではなく、
年老いた魔法使いが持っていそうな、樫の杖。
どーだ、かっこいいだろう!とでも言いたそうな、にんまりとした表情に、未だ情事の名残を残す寝台にその身を横たえると、
リカは「馬鹿じゃないの…?」とだけ答えた。
「ま、冗談はこれ位にして…。今日の仕事はこれで終いにするんだよな?」
「アンタがいれば、わたしにオシゴトさせようなんて奴はいないだろうし、
アンタ次第って処かしら。」
「そっか、んじゃちょっくら居つかせてもらうかねえ〜…。」
手に握っていた樫の杖を床に置くと、つばさはリカの寝そべる寝台の端に座る。
「飴。」
「ん?」
「飴、なめる?」
何の脈絡もなく、リカが差し出したのは、先ほどの男から貰った飴玉。
伸ばされた腕は、元の世界にいた時に比べ、確実に細くなっていた。
「…、なんか、腕細くなったな。」
「痩せたよ、ダイエットいらず。ありがたいね。」
ニヤリと微笑む彼女に、少々心が痛んだのをつばさはやり過ごし、
受け取った飴玉を口に放り込む。
「なにこれ?誰かからの差し入れ?」
「うん、アンタがここに来る直前の相手から貰った。」
口に入れた甘味が、一瞬苦味に感じ、彼は思わず吐き出しそうになったが、
すんでの処でそれを押しとどめる。
そんな事は知る由もない彼女は、まあ役得よねぇ〜なんて、呑気な事を言いながら、寝台で寝がえりを打っていて、仮にも男の前だというのに、無防備なものだ。
それは、自分がもう全く男性として意識されていない…。
と、いうことと同義なのだと思うと、苦笑せざるをえない。
「口に合わなかった?飴。」
「いや、昔近所のばあちゃんに貰った、べっ甲飴みたいな味だな。と思って」
「懐かしんでおりましたか〜。」
ケラケラ笑う彼女は、とても強い人間だと、つばさは思う。
見知らぬ男に抱かれる職業など、辞めさせたかった。
止めたことは幾度となく。だが、そのたびにリカは、
「わたしは何もかもアンタに負けたくない。」
そんな無茶苦茶な理由で断られる。
自分には出来すぎた、元彼女なんだと、つばさは嗤う。
同じ高校に通っていた、ひとつ年上の容姿端麗頭脳明晰で有名だった先輩。
有名女優に似てるとも言われる容姿は、
つばさと共に歩いていても男性から声を掛けられる事も少なくなく、
なおかつ、苦手なものは無いと思えるくらい、何でもそつなくこなし、
つばさでも名前を知っている、難関有名私立大学にいとも簡単に合格するほど。
そんな完璧な存在にいたたまれなくなり、
つばさはリカが高校を卒業すると共に、逃げるように彼女と別れた。
嫌って別れたわけではないから、メールではちょくちょく連絡はとってはいたが、
直接会うこと、それだけはしなくなっていた。
…思い出として、風化するはずだった関係。
それが今、何の因果か。
異世界で腐れ縁として、存在していて。
彼女はきっと、振られた男の庇護など受けたくなかったのだろう。
そして、負い目により彼女に別れを告げてしまった自分に、彼女を止める権利などない。
そう、つばさは諦めるしか、彼女の強さを見届けるしかできなかった。