089話「獣人②_04」
マイア・グロリアスは、クラリス・グローリアの言葉にさしたる疑問を覚えず動き出した自分自身にこそ、驚いてしまった。
――カタリナとキリナはレクス・アスカを人質に取れ。
――マイアはプラドを抑えろ。
――ユーノスとセレナ、おまえたちはあのいけ好かない妖狐を取り押さえろ。
指示はその三つ。
ほとんど思考というものを挟まずにマイアの手が槍を繰り、ちょうどレクス・アスカとプラド・クルーガの間に飛び込んでから「あれ?」と考える。
なんでクラリスはそんなことを言ったのだ?
同時に、こうも思う。
獣王の息子――いや、現獣王であるプラドは、レクス・アスカを大事にしている。人質に取られて黙っているわけがない。
ちらりと横目で確認してみれば、もうとっくにカタリナとキリナは女豹を地面に叩き伏せ、カタリナがレクスの首筋に短剣を突きつけていた。キリナの方は同じ短剣を構えて周囲を警戒している。
馬車を降りてから、かなり近くにいたのは……偶然である。だって、最初からレクスを人質に取ろうだなんて考えていたわけがない。
「ちょ、ちょ、ちょい! 待ちなさい、プラド・クルーガ!」
獅子獣人の右腕に強烈な魔力が込められているのを視認し、マイアは槍の穂先を向けながら思わず口走った。自分でもなにを言っているのか判らないが、そもそもクラリスがなにを言っているのか判っていないのだ。
「待つ? 待つとはなんだ。待って俺たちになんの得がある? レクスが連れて来て、親父が許可したが――確かに本人が言っていたな、別に俺たちの仲間になったわけじゃない、とな」
怒気を押し殺しながら一歩踏み出すプラド。
マイアは己の内側で荒れ狂う混乱をひとまず無視して大声を出すことにする。クラリスは『抑えろ』と言ったのだ。
戦って倒せとも、無力化しろとも言っていない。
「だから待てって言ってんでしょうが! 人質取られてる意味を考えなさい! クラリスが命じたのよ!? カタリナとキリナは本当に躊躇しないわよ!」
どういうわけかプラドを気遣うような科白になってしまったが、事実なのだから仕方ない。マイアのような困惑を、少女二人は有していないはずだ。
実際、レクスの首筋に押し当てられた短剣が薄皮一枚を傷付けていたし、周囲の警戒にあたっていたキリナは警戒をそのままにしゃがみ込み、レクスの太ももあたりに短剣の先端を突きつけていた。
「ほら、カタリナ。首だと殺しちゃうから……ね?」
こっちなら大丈夫、とばかりに微笑むキリナだった。
頭が痛くなる。思わず槍の穂先が揺らいだが、プラドはその隙に動いたりしなかった。仮にマイアの脇を抜けてカタリナを瞬時に無力化できたとしても、その瞬間にはキリナの短剣がレクスの大腿部に突き刺さる。
確かに首筋を斬るのとは違って即死こそしないが――かなり危険だ。
「なんなんだ、おまえらは一体なにがしたい!?」
「そんなもん、こっちが聞きたいわよ!」
怒鳴るプラドに怒鳴り返す。
次の瞬間、巨大な火柱が出現した。
「ああっ、もう! なんだってのよ一体全体――!?」
◇◇◇
誰より先に動いたユーノスの背中を眺めながら、セレナは自分が困惑していないことにこそ、わずかな困惑を覚えていた。
クラリスの言葉には確信があった……気がする。
セレナには、ない。
しかしかつての馴染みであるカイラインを取り押さえろという指示、それ自体はすんなりと納得できた。なんとなく、というくらいの理由で。
そう――なにか気に入らない。
言語化のできない不快感。狐人が獣王に解散させられる前からセレナはカイラインのことが好きではなかったが、それでも以前は『嫌味なほど頭の切れる男』という認識でしかなかった。
今は、違う。
あんなふうに他人を見下して嗤う男ではなかった。
……単に、本性を見抜けていなかっただけかも知れないが。
「寄るな、汚らわしい!」
ユーノスの動きは目を疑うほど速かったが、いかんせんカイラインとの距離があった。魔人種の接近に気づいた九尾の狐人が、咄嗟に妖術を放つ。
不可視の、風刃の壁。
そのままユーノスがカイラインへ接近しようとすればずたずたにされる位置と間。術の規模と速度はセレナからしても称賛したくなるものだ。
それを、ユーノスは魔剣を一閃させて断ち切った。
獣王ランドールが空間上に『爪撃』を出現させるのに似ているが、もっとずっと繊細で、意図的で、制御されている。
強すぎず、弱くもない。
次の動作へ繋げられる剣さばき。言い換えればその程度の力加減でカイラインの妖術を断ち切ったということだ。
「舐めるなァ――!」
カイラインの黒い尾が震える。
蓄えている魔力を術へ変換した証だ。
放たれるのは、握り拳ほどの大きさの、氷塊。
子供が戯れにつくる泥団子ほどの、氷の玉が――ゆるりと宙を泳ぐ。
「それに触るな!」
魔剣を構えて迎撃しようとするユーノスに気付き、セレナは手に持っていた扇子を振りつつ狐火を放っていた。
ゆらゆらと対空する氷玉へ、するりと狐火が滑り込む。
ユーノスが危険を察知して後方へ――セレナのすぐ側まで飛び退いた。
――轟、と。
氷玉に触れた狐火が豪炎と化し、渦巻く火柱となって周囲に熱波を振りまいた。
「我の狐火と同じで、あの氷の玉は触れると爆ぜる。お主の魔剣であれば斬れたかも知れぬが、余計な世話じゃったかの?」
「懐かしい気もするな。初対面のクラリスを焼き尽くした魔術か」
ほんのわずかに唇の端を曲げるユーノスに、セレナは思わず苦笑する。
何度も何度も焼き殺したというのに、全身の煤を払ってにんまりと笑いながら歩を進めてくる人族の少女。
「思い出したくもない記憶じゃな。ただの人族の小娘と思ったのが運の尽きよ。思えばあれが、我にとっての始まりじゃ。とうに終わっていたはずが、気づけば様々なことが動き出していた」
「終わりを満喫することなんぞ許してくれるような女じゃない」
「然りよな」
いつの間にか手塩にかけて育てた義理の娘が、レクス・アスカの太ももに短剣の先を押し当ててプラド・クルーガを脅している。しかも周囲を気にしながら。セレナが動くよりもずっと先に、キリナは動いていたのだ。
「殺さず取り押さえるのは、一人では少々面倒だな。手間を掛けてもいられない。手伝え、セレナ」
どうということもなく呟くユーノスである。
それは単に殺すだけなら簡単だし、手間さえ掛ければ無力化できるという意味合いだ。こういう場面で虚勢を張る男でないのは、セレナには判る。
「よかろう。思えばこのために我らを温存したのかも知れんな。獣王は実力不足ではなく、魔力不足が敗因じゃ」
「多少の隙をつくる。セレナは妖術を撃て。やつに対処させたところを、俺がやる。それでいいな」
「構わん。征け」
言った瞬間には、もうユーノスは駆け出していた。
セレナは己の唇が三日月に吊り上がっているのを自覚する。
こんなことをして、これが一体なんだというのか。
まるで判らないのに、悪くない気分だった。
自分たちは、なにかとんでもない過ちを犯しているのかも知れない。そう思ったことは何度もある。今だって胸の内では微かに感じている。
それでも、一緒にいるのが、一緒にやるのが、楽しいのだ。
クラリス・グローリアと。
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