087話「獣人②_02」
「終わったぞ、レクス・アスカ。ランドールが死んだ」
大鷲獣人ブルノアが上空から舞い降り、レクスの耳元に囁いた。
言葉の意味が頭に染み込み、胸の中に浸透するまで、レクス・アスカであってさえ少しの時間を必要とする情報だった。
それほどまでに、その事実は重い。
そうなるように布石を打った。何年も……十何年も。
そうなるように策を練った。幾度も、幾数十度でも。
レクスは自分の胸に手を当てながら意識的にゆっくりと息を吐き、吸って、もう一度吐き出した。それでも鼓動が早鐘を打つのは、仕方がないことだった。
だが、これで終わりじゃない。
ここからが本番だ。
「判りました。それでは手筈通り、ブルノアとクオンは上空から笛を鳴らしてください。私はプラド様の元へ向かいます」
「……ねえ、どういうことよ?」
問いを口にしたのは魔族の女、マイア・グロリアス。彼女の両脇にはまだ子供の魔族と、妖狐セレナの娘。
レクスの隣に控えている山猫獣人のニーヴァが警戒心を見せるが、この状況でマイアが自分を襲うとは思えない。レクスを殺したところで、周囲には獣人しかいないのだ。彼女が保護している少女二人だって間違いなく危険だ。
「ランドールが死にました。この戦争を集結させ、後始末をしに行きます。貴女たちも、来たいのであれば来るといいでしょう」
「あの獣王が……? よくもまあ殺せたものね。もちろん一緒にいくわよ。あんたが行くなら危険はないでしょ」
意外そうに、しかしそれ以上の感慨はなさそうにマイアは頷く。
そうこうしているうちに馬車が用意され、ニーヴァに手を引かれて荷車へ。促してもいないマイアたちが乗り込んでくるのを待ち、馬車を出させる。
鼓動はまるで静まらなかった。
けれどもおそらく、表情には出ていないはずだ。
そう思った。
◇◇◇
ブルノアとクオンが上空で鳴らす木笛の音が、馬車の中にも響くのを確認し、レクスは戦場の光景を眺めた。
馬車が出発してすぐのうちは当然ながら本陣に近いので被害もない。強いて言えばランドールの暴走に巻き込まれてた不運な誰かが草原に倒れているが、もしかすると頭から落ちて失神しているのかも知れない。
とはいえ、レクスが介抱しにいくわけにもいかないのだが。
進んでいくうちに、どんどん戦闘の痕跡が増えていく。笛の音を聞いた獣王軍はその場にへたり込んでいたり、通りかかるレクスたちの馬車へ視線を向けたり、あるいは負傷者の介助に当っていた。
戦場全体から見れば、まだ獣王軍の側なので、『反獅子連』の戦士は誰一人として生き残っていない。
後々の死体処理も、問題だ。そのことを頭の片隅に置きつつ、レクスの内心は獣王軍と『反獅子連』の中心地へ引き寄せられる。
到着して、ニーヴァの手を借りずに馬車を降りれば、そこだけ咽せ返るほど血の臭いが漂っており、草原のそこだけドス黒い赤色に染まっていた。
地面に転がる腕や脚、肉片。いくつもの死体。
無事に立っているのは――プラド・クルーガ。
そして彼が戦場へ連れて行った直属の部下が何人か。
クラリス・グローリア。
その仲間であるユーノス・グロリアス。
妖狐セレナ。
判別のつく死体としては、獣王の息子であるガーランド・クルーガに、獣王の側近である蛇人のオーレン。
血塗れの中心に、ランドール・クルーガ。
暴威と我儘をその強さで押し通してきた獅子王の、死体。
「終わったのですね」
問いともいえないようなレクスの言葉に、プラドは頷いた。
表情に浮かぶのは、複雑な様々。嬉しさや高揚は表に出ていないが、レクスには感じられた。彼との付き合いもそれなりに長いから判る。決してそれだけでないことも、同時に判ってしまう。
どんな暴君だったとしても、父と兄だ。
思うところのひとつやふたつ、あるに決まっている。
レクスでさえ、獣王の死体を眺めて胸にこみ上げるものがあるのだ。
ずっと、ずっと以前から殺すべきだと思っていた。
そのために様々な方策をとった。
策が成った。
こうなることは判っていて、考えていた通りにこうなったのに。
あんなにも強かったランドールが死んだことに、驚きのような気持ちが、どうしても拭えない。死体を前にしても、死んでいるのが不思議でさえある。
「ああ、終わった。笛の意味は向こうにも伝わっているんだな。『反獅子連』の臨戦態勢が解けている感じがする」
「ええ。彼らの目的は獅子王ランドールを殺すことですから」
どうしても自分たちが王になりたかったわけではない。
中心となっていた狼族の四氏族は、特にそうだ。
彼らと獣王の間に一体なにがあったのか――それをレクスは知らないし知りたくもないが。
「どれもこれも、おまえの策略通りというわけか」
胸の前で腕組みをしたクラリス・グローリアが、にんまりと笑って言った。ひどく楽しそうな笑みに見えたが、本当に楽しいのかは、レクスには判らない。
自分と同じ、暴力を持たない彼女。
しかしクラリスは自分と決定的に違う、とレクスは思う。
何故なら彼女は楽しそうだ。
レクスは――楽しくない。
こんなことのなにが楽しいというのか。
「全てが全てとは言いませんが」
言って、レクスは周囲を見回した。
馬車の到着を契機に、それまでランドールの死体に近づこうとしなかった獣人たちが近づいて来て、ほとんどの者が沈痛な表情を見せている。
「おまえの思惑通り、プラド・クルーガが次の獣王だ。『反獅子連』の連中は目的を果たしたわけだな。やつらはランドールを王座から引きずり落とすことが目的で、自分たちで獣人の領域を支配するのが目的なわけじゃない」
よく通る声で、まるで周囲に響かせるかのように話す。
ランドールの死を画策していたと知られるのはあまり良いことではないが、状況がここまで進んでしまえば今更とも言える。知られることなくプラドが王位を継承できれば良かったが、獣王殺害の画策を秘匿することも誤魔化すことも、やらないほうがいいだろう。
――と。
「まったくその通りですね。噂に聞いた人族の少女よ、どうやら貴女が最も状況を理解しているようだ」
不意に、景色の中から不正に出現したような唐突さで、九本の黒い尾を持つ狐獣人が現れて言った。
妖狐カイライン。
裏でレクスと通じていた『反獅子連』の頭脳。
金に近い茶色の髪と、黒い九本の尾。細い顎と切れ長の瞳。薄い唇は微笑を形作っているが、クラリスとは違った意味で内心が読めない。
おそらくは妖術で姿を消していたのだろう。いつから、という点については知る由もないし、知ったところで意味はない。
「カイラインか」
「おや、御無沙汰ですねぇ、セレナさん。辺境の守護は如何なさったのです?」
旧知である妖狐セレナが反応し、カイラインが綽々と答える。
レクスもカイラインと直接対面したのは数えるほどだが、彼に対する印象は『胡散臭い』というものだ。
どんなものにどんな感慨を持っているのか、まるで読めない。
なにを好み、なにを許し難く思っているのか、判らない。
ただ――獣王ランドールには、敵意を持っていたようだ。
「貴様こそ、趣味の悪い人形遊びに没頭していたようじゃな。今となっては貴様の存在がランドールの癪に障ったのではないかと思えるぞえ」
「だからといって無辜の狐人を罪悪と断ずるなど、そんなことが許されていいとは思いませんがねぇ」
「よくも囀るものよな。それで貴様はどうするつもりじゃ? 新たな獣王を殺して自らが王に成り変わるか?」
「まさか!」
大仰に肩を竦めたカイラインは、わざとらしくプラドへ視線を向ける。
「我々『反獅子連』の目的は、文字通りに獅子王ランドール・クルーガの打倒です。狼族の四大氏族も、我々と志を同じくする他の氏族たちも、そこに相違はない。ランドールの息子、プラド・クルーガですか。彼の統治がランドールのような暴虐でないのなら、我々としては彼が王でも全く問題はありませんよ」
「…………」
言われたプラドは、特になにも答えない。いつの間にか『反獅子連』の側からも、獣人たちがぞろぞろと集まっているのに目を向けている。
もちろんこちら側――獣王軍の獣人たちも、集まっている。
死んだ獣王を中心に。
この莫迦らしい戦争の役者たちが。
「センダン氏族のポロスだ。プラド・クルーガ、あんたが王として立つのなら、どんな王になるのかを聞かせて欲しい」
「レイザット氏族のランサス。おまえがランドールを殺したのであれば、それは何故かを聞かせろ。我らの父の死を、意味のあるものだと聞かせてくれ」
「ライドット氏族のレガリス。貴様が王に相応しくないと感じたなら、我々は貴様の傘下には入らない。これまでと同じように、獣王とは無関係に生きていく」
「バーグット氏族のブリオス。犠牲をこれ以上増やしたくない。しかし必要とあらば、親父たちと同じことを、俺たちもおまえにしてやる覚悟はある」
続々と前へ出てくる狼族たち。『反獅子連』の中枢を構成していた四大氏族の、長の息子たちなのだろう。レクスは面識がないが、どうやら継承は済ませていたようだ。
命懸けになることを、彼らは知っていた。
それでもなお、獣王を殺すべきと考えていた。
そのことを――レクスは知っていたのだ。
彼らが誇り高き氏族であることを、知っていて利用した。
そうでなければランドールを殺すには至らなかった。
「ちょっと待て! どういうことだ、レクス・アスカ!」
どすどすと足音を立てて前へ出たのは、猪獣人のゾンダ・パウガ。彼の部下たちは前へこそ出てこなかったが、ゾンダと同じような表情をしていた。
即ち、不審。
獣王ランドール・クルーガの忠実な部下だった彼には、この現状が信じ難く、許せないのだ。
腹心であるレクス・アスカの策略で、実の息子であるプラド・クルーガが獅子王を殺害したなどと――。
見れば猪獣人だけでなく、少なくない種族の獣人たちがレクスとプラドへ不信と猜疑を向けている。
けれども、それより多くの獣人たちが、この場の流れに固唾を呑んでいた。
多くの者が――内心では思っていたということだ。
ランドールの手下でいるのは嫌だ、と。
親衛隊の中では、例えば兎獣人のルーチェ・ルビアがそうだった。ランドールを慕ってではなく、ランドールに怯えて、獣王の配下として動いていた。
「どうもこうもあるものですか。どうやら役者も概ね揃ったようですね。そちらの人族の少女と魔族の方、それに懐かしいセレナ嬢がどのような立場であるかは存じませんが……今、この場がどのような何であるのか、明かすべきでしょう」
仰々しく両手を広げ、ひどく嬉しそうにカイラインが言う。
まるで宣誓するかのような、よく通る声だった。
「言え! レクス・アスカ! それにプラド様もだ! おまえたちがランドール様を殺したのか! どうしてだ――!!」
不審の代表者が叫ぶ。
新たな獣王であるプラドはなにも言わず、ランドールを貫いた右手をぶらぶらと揺らしている。相貌に浮かぶのは、強い決意だ。
レクスが見出した、王の器。
ランドールのようになるのは嫌だという、強固な意思。
「ふむ」
と、レクスは頷き、周囲を見回す。
プラドと直属の部下たち。思惑を事細かに伝えることをしなかったのに、最前線で命を張ってくれた彼ら。
妖狐カイラインと『反獅子連』の面々。利害が一致し、お互いがお互いを利用した関係だ。それでも狼族の四大氏族には敬意のような気持ちがあった。
猪獣人のゾンダ・パウガ。彼や彼らは、ランドールの強さに心酔して付き従っていた。実に獣人らしく、だからこそ獣人らしくない。
妖狐セレナ、魔族のユーノス・グロリアス。それにマイア・グロリアスと、カタリナという魔族の少女、セレナの義娘であるキリナ。
……彼女たちのことは、もしかすると羨ましいのかも知れない。自分はランドールの配下として随分と長い時間を過ごしてきた。ランドールを殺すために。
楽しくなんて、なかった。
でも、やるべきだと思った。
山猫獣人のニーヴァ。いつからかレクスの従者みたいに振る舞っている護衛。多くを語らないレクスに、それでも忠義のようなものを見せている彼女が、一体自分になにを見出したのかを、正直言えばあまり理解していない。
そして――クラリス・グローリア。
血溜まりの中心、ランドールの死体の直ぐ側に立ちながら、輝く長い金髪を風に遊ばせている彼女と視線が交差し、レクスは思わず苦笑する。
だって、きらきらした眼差しでレクスを見ているのだ。
レクス・アスカがなにを言い出すのか、とても期待してるというふうに。
まったく、なにがそんなに嬉しいのか、楽しいのか。
判らない。判りたくもない。
ただ、示す必要があった。
鍛え上げたレクス・アスカの『力』を。
――力の強い者が、力の弱い者をねじ伏せる。
それが獣の法だから。
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