074話「獣の戦_09」
困惑が半分、開き直りが四分の一で、残りは諦念。
スペイド領魔術師隊の中隊長だったレガロの心境は、概ねそんなようなものだ。後悔という感情が一切湧かなかったのは、自分でも意外だったが。
どうにかして魔術師隊に戻らねば、という気にならないし、獣人たちの捕虜になったから是が非でも逃げ出さねば、ともあまり思わない。
クラリスと呼ばれている少女のせいだ。
獣人たちの中に魔族が紛れていたことにも驚いたが、その魔族たちが明確に『上』へ置いている人族の少女には、もっと驚かされた。
一見すれば、ただ美しいだけの少女だ。
折れそうなほど細い手足、厚みを感じさせない胴や腰、きらきら輝く長い金の髪に、はっとするほど整った相貌。
その少女が、明らかに魔族たちに敬われている。
魔族のみならず、よく観察すれば一部の獣人たちもだ。
いや、そもそもクラリスが当たり前のような顔をして捕虜との会話に臨んで来たときには、もうレガロは直感していたような気がする。
――こいつに逆らうべきじゃない。
理由? 後からならなんとでも言える。魔族たちが敬っているから。獣人たちに一目置かれているから。獣王ランドールと対等に喋るから……。
しかしそうではない。
金髪の少女が現れた瞬間、レガロは自分自身の胸に空いた穴に気付いたのだ。自分でも知らぬ間に穿たれ、日々が広げ、そして名称し難い様々なものがそこからこぼれ落ちていたのだと、そのとき気付いた。
だって、自分はもうずっとあんなふうに笑っていなかった。
◇◇◇
森を横断するに馬車は邪魔だということで、コボルト族のプーキー・シャマルと曲剣使いの魔族ジェイドをガエリコ村へ残すことになった。
捕虜であり情報源でもあるレガロは当然ながら同行だ。生存した部下たちは朝が来る前に解放され、一足先に森へ入って行った。かなり雑な対応だとレガロは思ったが、クラリスに言わせると「興味がないんだろ」とのことだ。
誰にとって?
獣王にとって、だ。
レガロは生まれも育ちもスペイド領である。つまりロイス王国で最も獣人の領域に近い場所で生きていたのだが、実際のところ獣人のことなどなにも知らないに等しかった。交流がなかったからだ。
だから雑多な獣人部隊を率いているのが獣王ランドール・クルーガーだ、なんて気付きようもなかったし、そもそも獣王の存在だって知らなかった。
獅子獣人の大男。
遠目で見てさえレガロは獣王の存在力とでもいうようなナニカに圧倒されてしまった。そこにランドールがいる、それだけで肌感覚として『恐ろしい』のだ。
これはスペイド城に勤めるようになって、いわゆる『偉い人』を間近にしたときとは完全に異なる感覚だった。
魔術師隊の総隊長、騎士団の団長や副団長、あるいは領主であるトゥマット・スペイド……彼らに面会したとき、レガロは確かに恐ろしいと思った。それは彼らが大した労力もなくレガロの進退を決定できるからだ。
自分の未来を容易に変えられる存在。
その意味では獣王となにも変わらないはずなのに。
「本能ってやつだな」
森を歩く暇つぶしに、獣王が怖いというような話をすれば、クラリスはボア・オークの肩に腰を下ろした状態でふむふむと頷いた。
ボア・オークの……名前はなんだったか、ゾンダとかいった気がする。彼は村を出発するときにはもうクラリスに呼び付けられ、その肩を彼女の荷台に指定されていた。当人は嫌がるふうでもなく、なんとも不思議なものだった。
だいたい、猪獣人だって獣王ほどではないにしろ十分に『恐ろしい』存在のはずだ。魔術師であるレガロなら、十分な距離さえ取ればあるいは打倒し得るだろうが、会話ができるような至近距離では可能性など皆無だ。
まして華奢な少女であれば、距離など無関係のはず。
なのに彼女はゾンダであろうが獣王ランドールであろうが、恐れる素振りを見せない。我慢しているとかいう雰囲気もなく、本当に怖がっていないのが判る。
「本能的恐怖、ってやつですかねぇ」
「まあそうだな。闇を恐れるのも、未知を恐れるのも、将来的な不利益を恐れるのも根は同じだ。誰も死にたくはない。死の気配がはっきりしてる方が怖いに決まってる。獣王ランドールなんて、恐怖の最たるものだろ」
そう言いのけるクラリスが恐怖を感じていないようなので、話の内容は理解できるのに、なんだかちぐはぐな印象を受けた。
「まあ、判らないでもないわよ。アレはちょっと、まともに正面からはやりたくないわね。底がまるで見えないもの」
身長と同じ長さの槍を片手で担ぎながら言ったのは、レガロを取り押さえたマイアという魔族だった。やや苦々しげに唇を曲げているが、そこにある悔しさを見つけてレガロは内心で驚嘆してしまった。
あの恐ろしい獣王と、武力をもって対峙しようという発想が浮かぶこと自体、とんでもないことだ。
「別に誰もおまえに獣王を倒せなんて言ってないぞ」
うふふ、と楽しげに笑うクラリスは、その笑みだけ見れば本当に驚くほどの美少女だ。ボア・オークの肩に乗って、これから人族の領地を襲撃するのでなければ、とても幸せそうな笑みだと思っただろう。
「あっそ。なんだかあんたはランドールと仲良さげだしね。どういうつもりなんだか知らないけど、なに考えてんのよ?」
「こいつの考えが理解できた試しがあるか?」
と、珍しく口を開いたのは、クラリスにずっと付き従っているユーノスという魔族だ。まるで王族の護衛であるかのように、あまりに自然にクラリスの側にいるので存在感が薄く思えるが、そう思わせる時点でかなり異常だ。
この目立つ少女の側にいて、気を引かないでいられるか?
だいたいにして、このクラリスという少女と魔族たちは一体全体なんなのか。どう考えても、どう見ても、獣王の手下ではなさそうだ。だというのに獣王ランドールはクラリスの自由を認めているし、魔族たちの行動も許している。
にも拘らず、部隊全体の行動は淀みない。
だが、それらの疑問をレガロはまだ口から吐き出せずにいた。
予感はある。
きっとこれまでの退屈な日々とは違う、もっとずっと奇妙な日々が来るはずだ。それが楽しいかどうかは判らないが、戻れないことだけは確かだ。
戻りたいとも別に思っていない。
森を進む。
木漏れ日がわずかずつ地面を照らす、ほとんど人の通った形跡のない森林を――行きは人族の部隊の中で、戻りは獣人の部隊と共に、踏み荒らして行く。
これからどうなる?
クラリスたちの話では、スペイド城へ乗り込んで領主や騎士団を相手に大立ち回りを演じ、『判らせてやる』つもりらしい。
なんとなく、上手くいくような気がする。レガロたちがやったように敵地を占拠しようというなら、どう考えても失敗するに決まっているが、ただ暴力を撒き散らして去るというのなら――まして獣王がそれをするのなら。
しかし、こうも思う。
そんなことをして一体なんだというのだ?
クラリスがそんなことをしたがっているようには思えない。
何故、思えないのか――それはレガロにも上手く言語化できなかった。
◇◇◇
森を抜ける。
あとはいくつかの村や町を通り過ぎれば、あっという間にスペイド城下だ。
「さて、どうなるかな?」
にんまりと笑いながらクラリスが言う。
そんなもの、レガロの方こそ聞きたかった。
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