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悪徳令嬢クラリス・グローリアの永久没落【書籍化】  作者: モモンガ・アイリス


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055話「獣の王_07」





「……なあ、おい、なんだこの小娘は? そっちの狐人もだ。『なんだ?』と俺は訊いたぞ、アスカ」


 がりがりと頭を掻きながら、獅子王ランドールはレクス・アスカへゆっくりと視線を向けた。


 この王を前にすると、ルーチェ・ルビアは長い兎耳が倒れそうになるのを必死で制御しなければならず、それが嫌で嫌で仕方がない。

 周囲に鋭利な刃物がばら撒かれたような不快感と、次の瞬間殺されてもおかしくないと思わせる緊迫感。呼吸ひとつでさえ慎重さを求められるような空気が、ルーチェは本当に嫌いだった。


 怯えないわけにはいかない。

 生物である以上――獣である以上、避け難い本能だ。


 何故なら、この獅子王には敵わないから。

 敵わない相手の領域に足を踏み入れているから。


 だというのに。


 ランドールの不機嫌を向けられた女豹は、冷や汗ひとつ垂らさず、表情も変えず、澄ましたままで返答ができる。


「彼女は、自分でも名乗りましたがクラリス・グローリアといいます。人族の領域を追われ、魔境を抜けて獣人の領域の端へ辿り着きました。そこでオークの集落を助け、今はオークの集落を取りまとめています」


「そっちの狐人は?」


 レクスの言葉にはまるで興味を示さず、ランドールは侍らせている女が用意した衣服を当然のように着させてから――自分で着ることはしないのだ――立ち上がり、また大欠伸を洩らした。

 脛の辺りまでの短い下穿きと、大きな虎の毛皮を利用した外衣を肌の上から直接羽織っている。手足が露出しており、ごつごつした手指の先は獅子獣人らしい爪が見える。今は収納されているが、戦闘時は爪が飛び出て敵を切り裂くだろう。


 そう――ただ服を着て、立ち上がっただけ。

 なのに、もうルーチェはこの場から逃げ去りたくなっている。


「そちらの狐人は、セレナといいます。十数年前に王が離散を命じた狐人たちの中の一人です。彼女が最初にクラリス・グローリアと出会ったそうです」


「ほぅん? 忘れちまったが……そういや、そんなこともあったか。で、なんだった? その小娘をどうして俺の前に連れて来た?」


「仮にも獣人の集落を取りまとめている人族の娘ですから、王への――」


「おいレクス、少し黙れ」


 不愉快そうに言ったのは、クラリス・グローリアだった。

 さっきまで偉そうに胸を張って笑んでいた……そのことだけでもルーチェには驚愕だったが、今はつまらなそうな顔をして長い金髪を指先で弄んでいる。


 緊張というものが、ないのか?

 ルーチェには判らない。

 どうして獅子王の前で、そんな普通でいられるのか。


「ランドール・クルーガ。もう一度言うぞ、私は挨拶をしに来た。もし言葉の通じないウスノロだったらまあ仕方ないと諦めよう。お喋りもできないケモノに話しかけたこっちが悪いからな。聞こえてるか、ケモノの王様? はじめまして、こんにちは、私が、クラリス・グローリアだ。ほら、どうだ、聞こえたか?」


 心底から興醒め、とばかりの棒読みで、クラリスは言う。

 これにランドールは、にたりと口角を持ち上げて嘲笑を返した。


「おい、小娘。なにをどうしたら俺様と話ができるなんて思い上がっちまったのかは知らんが、俺はおまえに興味がねぇよ。オークの集落? 知るか、そんなもん。人族がまとめてようが、蛆が集ろうが、知ったことか。アスカ、なあ、おい。なんだってこんなつまらん小娘を――」


「はっ! 所詮はケダモノか。くだらん群をつくって、くだらん城をこさえて、ふんぞり返って偉ぶるだけ。できることといったらケダモノと同じで、食う、殺す、犯す。まったく、なにが楽しくて生きているんだ?」


 何故だ。

 ルーチェにはまるで判らない。クラリスが言葉を重ねるたび、立っていることすら覚束ないほどの濃密な殺気が溢れ出すのだ。王が侍らせていた三人の女は既に腰を抜かしているし、レクスでさえもわずかに眉を寄せている。


「やれやれ、本当にくだらない。くだらなさすぎて欠伸が――」


 クラリスが大袈裟に両手を広げて、わざとらしく欠伸を洩らそうとした。

 次の瞬間、様々なことが起こった。


 軽やかな足音と共に、ガーランドが――獣王の息子、ガーランド・クルーガが――クラリスの前へ接近し、曲剣を振り下ろそうとした。

 動作の開始も、曲剣を腰から抜き払うのも、ルーチェには見えなかった。動きそのものが滑らかかつ迅速、そしてあまりに唐突すぎたせいだ。

 一瞬後に身体を両断されたクラリスの死体を、ルーチェは幻視する。

 しかし、


 ――()()()()


 という破裂音と共に、振り下ろそうとした曲剣がへし折られる。何が起こったのか、それを理解するのが難しかった。まずガーランドの攻撃が弾かれるという事態を上手く把握できなかったからだ。


 それに、ガーランドの攻撃と同様、妖狐セレナの防御もまたルーチェの目では捉えられなかった。

 折られた曲剣が宙を舞い、くるくると回転しながら落下して、床に落ちる。


「話ができぬのは息子も同様か」


 くつくつと嗤い、妖狐セレナが尻尾を動かした。

 六本ある尻尾のうち一本、ふさふさした銀色の毛で覆われた尻尾が――どういうわけか、黒く堅い鉄の鞭みたいに変形している。


 その鞭を、ガーランドの一撃に克ち合わせたのだ。


「ケダモノの一族は、口で話すことも満足にできんらしいな。のう、クラリスよ。わざわざこんな連中に構う必要があるのかえ? 我には疑問じゃな。昔は判らんかったが、今は理解できる。こやつらは、小さな小さな小山の大将じゃ。放っておけば自滅するだけの、憐れなケダモノじゃ」


 くつくつと――喉が鳴る。


 同時に、ぽっ、ぽっ、ぽっ、と妖狐の周囲に青い鬼火が灯り、漂い始める。おそらくはそれが彼女の、妖狐の妖術なのだ。ルーチェが親衛隊になる以前、ランドールが離散を命じたという狐人の一族。

 王を害する牙を持つから、王によって迫害された妖狐たち。


「――っ!」


 そこでようやく、ルーチェは自分も腰の曲剣を抜く必要があるのに気付いた。呆然としていたが、今はまだルーチェは「王の親衛隊」である。いずれ裏切り、プラドを王にしてランドールには死んでもらうつもりだが、それは今ではない。


 だって、レクスが苦い顔をしている。

 この女豹がそんな表情を見せるのを、ルーチェは初めて見た。


 と。


「まあ、待て。まあ、待て。獅子王の息子だったか? おまえもだ。まあちょっと待ってろ。つまらん時間を長引かせるのは、私も本意じゃない」


 場の空気など知るかとばかりにクラリスが言った。

 眼前で己を睨みつけているガーランドを無視し、臨戦態勢に入っている妖狐セレナを見もせずに宥め、もちろんルーチェには一瞥も向けず。


 ただ、獅子王を真っ直ぐに見据えて。

 金髪の少女は、言いのける。


「なあ、ケダモノの王様。余興を思いついたぞ」



◇ ◇ ◇



 大気を満たしていた濃密な殺気が、わずかに薄れた。

 ぴくりと太い眉を持ち上げたランドールは、自身の居場所である段差の上からするりと降り立ち、息子のガーランドを無言で押し退け、クラリス・グローリアの眼前へ立ち、その小さく美しい顔へ自分の顔を寄せた。


「余興と言ったか? そっちの狐じゃなく、おまえが、俺を楽しませると?」


「そんな近づかなくても聞こえるよ、王様」


 嫌そうに目を細めてクラリスは言う。

 どうしてそんな自然体なのか――ルーチェには判らない。

 おそらくレクスにも、当然ガーランドにも、もう一人の護衛である蛇人のオーレンにも、そんなものは理解できないはずだ。


 ちょっと手を伸ばせば届く距離に、獣王がいる。

 それだけで、身を竦ませる理由は十分だ。

 こんなに恐ろしいことが、他にあるものか。


「ふん、そうか。だったら聞かせてみろ、人族の小娘。なにを考えついた?」


 一歩分だけ身を退き、ランドールは楽しげに問う。

 が、殺気はわずかに薄れただけで、未だに漂ったまま。


「おまえは私に興味がない。私はおまえにさほど興味がない。まあそれはいいさ。だが、私はおまえたちにちょっと興味がある。例えばレクス・アスカとかな。お持ち帰りしたいくらいには、興味がある」


「駄目だな。あれは、俺様のモノだ」


「だろうな。だから持って帰るのは諦める。代わりに、しばらく私をここに滞在させろ。クラリス・グローリア滞在の許可を出せ、獅子王ランドール――ああ、判ってる。余興の内容を聞かせろと言いたいんだろ?」


「判ってるなら、さっさと話せ」


 会話が成立している。

 そのことに驚かないわけにはいかなかった。

 ランドールが「喋る価値なし」と切って捨てた相手、切り捨てられたクラリスが、それでも会話を成立させている。ルーチェが親衛隊に入って以来、そんな事例は初めてだ。王が切り捨てた相手は、そのまま辞するか死ぬしかなかった。


 クラリスはにんまりと笑んで、言う。


「強さが自慢の獣王サマに相応しい余興だぞ。今から私は、とことこ歩いて扉から出ることにする。ランドール、おまえは私が扉を出るまでに、私を殺して阻止してみせろ。それが余興だ」


「……おまえが、歩いて、ここから出て行く?」


「そうだ。私が外へ出るまでに私を殺せば、おまえの勝ち。私が外に出ても生きていれば、私の勝ちだ。私が勝ったら、クラリス・グローリアの滞在を王として認めろ。細かい条件はレクス・アスカが考えるだろ」


「……で? 俺が勝ったらどうなる? そのときおまえは死んでるだろうが、それだけだ。余興をする意味がない」


「妖狐セレナを好きにしていいぞ。誓わせてもいい。もし私が生きて外に出られなければ、なんの抵抗もせず、なにをされても構わないと――なあ、そのくらい誓えるだろ、セレナ?」


 軽い世間話のついでみたいに。

 他人の運命を、クラリスは問いかける。

 妖狐セレナは――、


「当然じゃな。口に出して誓おうか、ケダモノの王よ。我、妖狐セレナは、クラリス・グローリアが余興に負けた際、一切の抵抗をせずにお主らのやることなすことに従おう。……ほれ、これでいいじゃろ? もしこれで我が抵抗をすれば、それは我の誇りを貶めたことになる」


「――いいのですか?」


 問いを口にしたのは、レクスだ。

 そう、こんなところで協力者を失うのはレクス・アスカの思惑から外れに外れている。こんなつもりでクラリスを連れて来たわけではなかったはずだ。クラリスが黙ってさえいれば、レクスが口八丁で王を丸め込んでいた。その未来は、ルーチェにも想像できた。


 でも、そうはならなかった。


「当然じゃと言ったぞ。我はな、その小娘に変えられた。命も誇りも運命も、賭けに乗せても構わんと思っているし――」


 ()()()()()()()()()()

 赤い唇を引き裂くような笑みを見せながら、妖狐は言う。


 その笑みに釣られるようにランドールも笑みを浮かべ、数歩分だけクラリスから距離を取った後、レクスへ視線を向けた。


「いいだろう。乗ってやる。アスカ、おまえが開始の合図をしろ」


 言われたレクスは、わずかだけの躊躇を見せた。

 しかしすぐに躊躇は消え去り、代わりにその場の面々をわざとらしく順繰りに眺めていく。まだ曲剣を抜いてもいないルーチェ、獅子王に押されたままの場所に突っ立っているガーランド、最初から一歩も動いていない蛇人のオーレン、いつの間にか鬼火を消して尻尾も元通りに戻っている妖狐セレナ、奇妙に楽しげな獅子王ランドール……そして、自信たっぷりに微笑むクラリス・グローリア。


 ああ――と、ルーチェは気付く。

 場に満ちる恐ろしい空気は別に変わっていない。

 なのに今、自分の内側から恐怖が消えている。


 鼻を突く濃い獣臭は変わっていないのに。

 鮮やかな光が、胸に差し込んでいる。


「――では、始め」


 レクスが言った。

 いつも通りの、無感情な口調で。






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