004話「火刑_04」
「あれは一体どういうことだ……?」
エックハルトの父、ミュラー伯爵が呟いた。
あの光景を見れば当然の問いであり、その問いに答えられる者が皆無であることもまた当然であった。そんなことは伯爵自身も理解していただろう。
炎の中から舞い降り、喉に剣を突き込まれても傷ひとつなく歩いている。
エックハルト自身もまた父と同じ問いを脳裏に浮かべていたが、やはり答えなどでるはずもなく、無数の疑問符だけが頭蓋の内側を満たしていた。
あれは、なんだ?
エックハルト・ミュラーの知るクラリス・グローリアは、美しくはあるがそれだけの、毒にも薬にもならぬ少女でしかなかった。
花のような、という形容がよく似合う。
誰かの手を借りなければ生存を許されない、ただ美しいだけの。
そんな少女が、割れた人垣の中央を歩いて来る。
衣服は燃え尽きてしまったせいで素裸だというのに、今の今まで炎に巻かれていたというのに、つい一瞬前に喉を刺されたというのに。
あまりにも堂々と、ただ歩を進めてくる。
「撃て」
ミュラー伯爵が言った。叫ぶような声量ではなかったが、確固たる命令であることは声音から伝わった。
ほぼ時差なく、控えていた弓兵が矢を射った。
どんっ、とクラリスが吹き飛ばされる。
訓練された弓の一射には、それだけの威力があるのだ。
狙いは正確で、クラリスの身体の中心――胸のあたりに矢が突き刺さるのがエックハルトにも目視できた。それだけ近づかれていたということだ。
ほんの数瞬、呼吸二回分ほどの時間が流れる。
たったそれだけの間に、クラリスがむくりと起き上がった。
彼女はまず地面に転がったせいで身体に付着した土埃をさっと手で払い、次に長い金髪に一度だけ手櫛を通した。
そして、それから胸の真ん中に突き刺さっている矢を眺め、少しの間だけ首を傾げ――そのまま、歩いて来た。
「莫迦な……」
畏れと呆れが綯い交ぜの声。
それがエックハルト自身のものだったか、父ミュラー伯爵のものだったかは判然としない。あるいはその場の誰もが同じ言葉を吐き出していたのかも知れない。
クラリスが歩いて来る。
もはや誰も彼女を止めようとしない。
花のような美しい少女の――胸の真ん中に矢が突き立ったままの少女の――その歩みを、誰も止められなかった。
そうするのが畏れ多いような。
そんな気がしたのは、エックハルトだけではなかったはずだ。
「ふぅん……なんとなく判ったぞ」
クラリスが言った。
これまで一度も聞いたことがないような、やわらかさに欠けた口調だった。さながら学者や芸術家が未知の物を目の当たりにし、それを自分の中で咀嚼し終えたかのような、そういう言い方だった。
そしてそんな独り言が聞こえたということは、それほどの至近距離にクラリスがいるということでもあった。
クラリスはエックハルトには一瞥すら向けず、ミュラー伯爵をじっと見つめたまま、おもむろに右手を動かした。胸に突き立ったままの矢を掴み、それをずぶずぶと引きずり出していく。
見ているだけで心臓が軋むような、痛々しい光景だった。
ほんの少し前まで火炙りにされていたクラリスを見ていたときは、そのようなことを思わなかったのに。
からん、と矢が落ちる。
その矢を引きずり出したクラリスの右手は、血に塗れている。否――いた。そのはずだった。胸に空いた穴からも、大量の血液が流れ出ていたはずだ。
なのにミュラー伯爵へ向けられた右手には血の跡がない。クラリス自身の慎ましやかな胸にも、傷ひとつ見当たらなかった。
誰も何も言えず、身動ぎひとつですら許されぬ異様な空間の中、クラリスだけがまた脚を動かし、歩を進めた。
一歩。
二歩。
三歩。
そして四歩。
「私はもっと怒った方がいいと思うんだ。でも、正直そこまで怒り狂ってもいないのが本音だな。でも――でもにでもを重ねて悪いが、こうしようと思った。私は受け入れたし、受け入れるしかなかった。あんたもそうしろ」
温度に欠けたそんな呟きが聞こえた。
次の瞬間、
――ぱんっ、
という破裂音がした。火に放り込んだ薪が弾けるのによく似た、けれど、もっとどうしようもない、致命的な音が。
エックハルトは多大な労力を払い、クラリスから視線を切った。そして彼女が話しかけていた父ミュラー伯爵を見て――やはり、なにが起きたのかは、理解できなかった。ただ、結果だけは理解できた。
父の頭が破裂していたのだ。
◇ ◇ ◇
その後、クラリス・グローリアはそのまま歩き去ってしまった。
誰も彼女を追うことはできず、エックハルトは彼女の姿が見えなくなるまで父の死体に駆け寄ることすらできなかった。