162話「ティアント領との後始末_05」
砦の中に用意されたアーロゥ・グラーデの小屋には、既に棚いっぱいの木板が並べられており、その木板には日付けや数字などが刻まれている。
朝になれば女牛獣人の誰かが宿舎のアーロゥの部屋までやって来て、寝台の横に置かれている歩行補助器具を寝起きのアーロゥに構うことなくがちゃがちゃと装着してくれる。太股と脛に革帯で固定された歩行補助器具は、なんというべきか、足の代わりの骨、という代物だ。
アーロゥが歩けないと知ったクラリス・グローリアは、同情するでも喜ぶでもなく「じゃあ、なんか考えるか」と言って三日後には歩行補助器具を持ってきた。最初は固定具の造りが微妙で歩行の補助どころの騒ぎではなかったが、何度かの改良を重ねるうちに、どうにかゆっくり歩く真似事ができるようになって現状に落ち着いたが、これについては素直に驚かされた。
ゴルト武装商会においても重度の怪我人――四肢の欠損などは、確かにあった。そういう怪我人のほとんどはそのまま死んでいた。しかし運良く、あるいは運悪く生き残った者の未来が明るかったことなどない。
結局のところ、なにかの役に立たねば人は社会の中で存在し続けることは難しいのだ。そうでない社会があるとすれば、かなり豊かになった後だろう。
ともかく、クラリスはアーロゥに『脚』を与えた。
完全な代替とはならないが、それでもどうにか歩けるだけの『脚』を。
なんのために?
言うまでもない――働かせるために、だ。
◇◇◇
グロリアスの砦を巡るあれこれの片がついてから、二十日は経過しただろうか。どの日を『片付いた』と定義するかによっても多少ブレるが、そんなものだ。
アーロゥ・グラーデが砦の小屋に――大抵は誰かの補助を借りながら――出勤すれば、さして間もなく誰かが小屋へやって来て、金勘定の報告を置いていく。
この日はヴォルト・クラウスがわざわざやって来て、砦とティアント領を繋ぐ魔境の街道整備の書類を持ってきた。
情報を書き記し、残しておくこと――この大切さを知っている者はグロリアスの中では多くない。まあそんなことを言えばロイス王国民の一割だって理解していないだろう。肝心なのは、グロリアスの最高権力者であるクラリス・グローリアがそのことを理解している、ということだ。
「街道整備は順調のようですね。揉め事も起きていないのは意外ですが……ティアントの騎士団だけではなく、民間からも人足を使っているのですか」
「そちらはティアント側の騎士団と民間での会計になるから、こちらとの遣り取りには含まれない。大きな揉め事は起こっていないが、些細なものは日常茶飯事だ。請求の計算は済んでいるか?」
「こちらからの派遣は決まっていますからね。契約というには手探りですので、工事の進捗に合わせて適切と思われる請求をする形になります。昨日までの時点での計算がこちらです。十日区切りでの会計は、クラリス様の発案でしたか」
「ああ。俺は金勘定に関してはあまり知らんが、その判断は元ゴルト武装商会支店長のおまえから見ても適切なのだろう?」
「それはもう」
わざとらしく笑みを見せ、アーロゥは請求用の文字が刻まれた木板をヴォルトに渡してやった。元ティアント領騎士団副団長は、刻まれた文字を確認することなく受け取り、ではな、とだけ言って去って行った。
それから少しして、次にやって来たのは女牛獣人の……名前はなんといったか。彼女たちの代表みたいになっているメラルヴァの、取り巻きの一人だったと記憶している。彼女たちは割と一様に陽気なので、逆に特徴を覚え難い。
「おはよう、アーロゥ。脚の調子はどう?」
「おはようございます。調子は変わらずですね。補助器具の調子は悪くありませんよ。貴女たちの助けのおかげで、不自由もそれほど感じません」
「あっはっは! アンタ本当に胡散臭いわねぇ!」
楽しげに笑って、遠慮なくばしばしとアーロゥの肩を叩く女牛獣人。
こうして獣人と直接話すようになって判ったのは――種族的特徴など、地方による人々の性質の違い程度にしかないということだ。たとえば山沿いの村に住む者は木の実をよく食べるとか、雪の降る地方では冬に備えるための生活様式になるとか、そういった程度の違いでしかない。
誰もが生きていて、誰もが腹を空かし、誰もが死ぬ。
そこにはなんの違いもない。
「いえいえ、九尾の妖狐には劣りますよ。ところで本日の用件は?」
「そりゃあアンタ、カイラインに比べれば誰のおなかだって白く見えるわよ。セレナ様なんかもう、呆れを通り越してるって感じだもの……って、用件ね。えっと、給金の請求? のための、一覧? だか、そういうのを持ってきたのよ」
ほら、と手渡される木板。
そこに刻まれている細かい文字をざっと確認し、アーロゥは頷いた。
「承りました。後々メラルヴァさんを呼ぶかも知れませんが、おそらく問題ないでしょう。それで、前回の給金はなにに使いました?」
「コボルトにお願いして、服を作ってもらうことにしたの。これまでは個人的にお願いするのは気が引けてたけど、こういう仕組みがあれば、頼みやすいわね」
「それもまた金銭の役割のひとつですね」
「クラリス様がなにを考えているかはあたしたちには判んないけど、きっとクラリス様の示す道を歩いているうちに、とんでもない場所に辿り着くんでしょうね」
そう言って笑う牛獣人の、笑みの中には期待と不安が内在していた。
脳天気に盲信しているわけではなく――けれど、信じると決めている。クラリス・グローリアが示す道を歩くと、腹を括っているのだろう。
グロリアスに訪れた変革――クラリスがもたらした『金銭』という概念を、グロリアスの誰もが拒まず受け入れた。これはどんなに権力の強い王政であっても不可能な事例だろう。
まだこの集団がそこまで大きくなく、かつクラリスの求心力があまりにも強かったおかげで、彼女たちは自らの生活に訪れた変化を受け入れ、呑み込むことができたのだ。
「ええ、楽しみですねぇ」
と、アーロゥは笑った。
かなり胡散臭い微笑だったようで、女牛獣人はやや呆れたふうに苦笑を返してくれたが、まあ仕方がない。
◇◇◇
それから何度かの来客があり、誰もがアーロゥに木板を渡し、ただでさえ満載になっている棚が溢れんばかりとなった。
昼になれば先程とは別の女牛獣人がやって来て、昼食を届けてくれた。適当な世間話をして、飯を食い、渡された木板を整理して別の木板に文字を刻んでいく。
なんだかゴルト武装商会に入った当時を思い出す忙しさだ。
ある程度出世してからは、こうして帳簿をつけるような仕事からは解放され、計画や交渉が増えていった。人を動かすのは面白くもあり、出世していくのは生きがいだったが――こうして下っ端仕事に戻ってみれば、存外、悪くないものだ。
もちろん、いずれは誰かに仕事を教える必要が出てくるだろう。
何故ならグロリアスがこのままでいるわけがないからだ。
この集団は、おそらくもっともっと大きくなる。
クラリス・グローリアを見れば、そんなことは誰だって理解できるはずだ。
それから少しして、陰気な女魔人種カルローザがやって来た。
「どどど、どーも、アロロロゥさん……ふひひ!」
初見のときには、話に聞く恐るべき魔族の一人がこんなであることは、アーロゥに少なくない衝撃を与えたものだ。
魔族にもこのような人物がいるのか、というのがまずひとつ。
そして、ある程度の集団において、このような人物は大抵の場合、迫害されるものだ。気が強く、意志が強く、声の大きい者が集団においては有利で、その逆は不利になる。ゴルト武装商会でもそうだったし、それ以前に過ごしていた場所でも、その法則は不変だった。
が、ここでは事情が異なるようだ。
カルローザは目が隠れるぼさぼさの髪をそのまま、ふひひと陰気な笑みを浮かべてアーロゥに近づき、椅子に座っているアーロゥの脚を無遠慮に持ち上げた。
痛みはない。そもそも痛みを感じない。
「じゃ、じゃあ、今日も、魔法かけていきますよぅ……なにか感じたら、教えてくださいね……ふひひ!」
言って、意識を集中し、カルローザはアーロゥの動かない足に治癒魔法をかけていく。右足、左足、と順番に淡い光を浴びせていくが……少し熱を感じるような気がするだけで、やはり感覚はないままだ。
動かそうと思っても、ぴくりとも動かない。
こんなことになんの意味があるのか――と思ったが、カルローザにこれを行うよう指示したクラリス・グローリアは、不思議そうに首を傾げて答えた。
『なんの意味って、いろいろあるだろ。まず、カルローザがミゼッタから見て学んだ治癒魔法の練習になる。今のグロリアスはそんな怪我人で溢れてないから、おまえが練習台として有用だろ。次に、もしカルローザの治癒魔法がいい感じに成長できれば、おまえの足も治るかも知れない。放っておいても治らないんだから、カルローザの練習台になるくらい、いいだろ』
そう言われてしまえば確かに悪いことなどなかったが、この陰気な魔人種の女が毎日やって来るのは、未だに慣れない事象だ。
ちなみにというか、最初の数日はカルローザの方もアーロゥに怯えていたらしく、護衛として蜥蜴人の男を連れて来たり、何故か獅子姫ラプス・クルーガを連れて来たりしていた。ラプスは途中で飽きて何処かに行ってしまったが、カルローザは涙目になるだけで文句を言わなかった。
「んー……難しいですねぇ。なんとなく判ってきた気はするんですけど、ミゼッタさんみたいな力押しじゃない方がいいのかな? ていうか、あの人、たぶん力押しだけじゃないんですよね。魔力の質そのものが治癒に特化してるっていうか……」
ぶつぶつ呟きながら人の足を弄くり回すのはやめて欲しかったが、これに関しては文句を言える立場ではないので、どうにか諦めた。
そうこうしている間にも来客は訪れる。
次に現れたのは――黒い九本の尾を持つ妖狐、カイライン。
彼はアーロゥ以上に胡散臭い笑みを見せ、木板を持たず、治癒魔法を行使しているカルローザを一瞥してから、わずかだけ会釈を見せた。
「どうもどうも、商売繁盛でなによりですねぇ」
「……これは商売というよりは公務に近いので、繁盛したところで利益が生まれる類いのものではありませんが」
「おっとそうでしたか」
精一杯の反駁に、カイラインは気にした素振りも見せない。むしろニタニタと笑みを深めてアーロゥへ近づいてくる。
「ティアント領からゴルト武装商会が完全に撤退したようです。例の第二王子が連れて来ていた部下に関しては確証が持てませんが、商会の本体は撤退が確認されました。つまり、アーロゥ・グラーデは見捨てられたということになりますねぇ」
「でしょうねぇ。商会としては、私を救出する意義を見出せないはずです。生死でさえ不明でしょうし、人員を割くとも思えません」
「なるほど……随分と、吹っ切れたようですね」
ふぁさり、と黒い尻尾が動く。
アーロゥの意志とは関係なく全身が緊張で固まってしまう。魔境で見せられた極冷の魔法は、未だに肝を冷やし続けているということだ。
「カイライン殿も、グロリアスでの評判は私も聞き及びましたが、なかなか居心地よさそうに振る舞っているらしいですねぇ」
「うふふふ……なるほどなるほど! どうやら本当に吹っ切れているようだ。ゴルト武装商会のアーロゥ・グラーデに未練は?」
「ないと言ったら嘘になりますが、未練を残しても仕方がないでしょう。今の私はグロリアスの金庫番、アーロゥ・グラーデですよ」
「なにかご不満が?」
「それはもう。なにしろ足が動きませんのでね」
「ふひ……ふひひ! 不便ですよねぇ! 用足すのとか! ひひ! ま、まだ、私じゃ治せないから、アーロロさん、し、しばらく大変ですよぅ!」
何故かカルローザが笑ったが、アーロゥとカイラインは共に数秒の沈黙を挟むしかなかった。なんでこの状況で魔人種の女が便所の話で笑い出すのだ。
「ま、まあともかく」
カイラインが仕切り直す。この狐をやや動揺させるカルローザは、ちょっとすごいのかも知れない、とアーロゥは自分の足を無遠慮にいじくりまわす陰気な女魔人種を眺めて思った。
「これからのグロリアスに、アーロゥ・グラーデ――貴方は必要な人材となった。おそらくクラリス様は次は教育機関を必要とするでしょう。貴方だけでは大変でしょうから、部下をつけさせるよう進言しますが、希望はありますか?」
「希望――ですか」
「叶えてやるとは断言しませんが、グロリアスの多くの者が考えているより、貴方の役割は重いのです。いつまでも貴方一人に背負わせておくのは不安もありますし、実際問題、無理が出てくるでしょうから」
まあそうだろう。
いくらアーロゥの事務能力が高かろうが、物理的な限界は来る。そしてそれは、おそらくさほど遠くない将来のことだ。
この妖狐も、未来を見ている。
クラリス・グローリアが示す先を。
きっと、アーロゥがうっかり期待してしまったように。
◇◇◇
「ゴルト武装商会ってのは、文字通りに商会だろ。交渉に来たベルク・ゴルトってやつが『ゴルト』の名を冠してたから、たぶん親族経営だな。おまえ自身はゴルトじゃないから、就職したってことになる。辞めずに働き続けていたなら、理由はみっつのうちどれかだ。辞められない理由があった、辞める理由がなかった、働き続ける理由があった」
あのとき――初めて会ったクラリス・グローリアは、当たり前みたいにそんな話を始めた。明確に敵対していたアーロゥに対し、見下すでも蔑むでもなく、得意気になるでもなく、本当に、ごく普通に。
話すべきことがあって、話ができるようだから、話している。
きっと、それだけ。
目も眩みそうにきらきらと輝く美少女が、帳簿の数字を眺めるみたいに話をする異様さに、アーロゥはあっさりと呑み込まれた。
「たとえば借金がある。借金じゃないにしても、借りがある。これは辞められないな。あるいは辞める理由がないのは、文字通りだ。働いて、仕事ができて、金がもらえてるなら辞めなくてもいい。恥ずべきことでもなんでもない、普通のことだ。でもなんとなく、おまえはそうじゃない気がする」
こちらを見る碧眼は、まるで皮膚の内側を覗くよう。
アーロゥを見ているのではなく、アーロゥを通したナニカを視ているような。
「なにか成すべきことがある。もうちょっと言うなら、成すべきと思っていることがある――そう、目的があるってことだな」
その通りだ。その通りなのだが……どうしてそんなことが判るのか。
「うん? だって、なんか目的があるようなやつじゃなければ、あんな組織で上に登れないだろ。適当に仕事をして金がもらえればいいってんなら、適当なところで手を抜いてりゃいいんだからな。その方が楽だろ」
なんて雑な喋り方をする美少女なのか。
繊細なかたちをしている目も鼻も口も、喋り方と一緒で、さほど繊細には動かない。どちらかといえば武装商会の下っ端がするような表情の動かし方だが、造形が美しすぎて、ひどくちぐはぐだ。
そのちぐはぐな女が、あまりにも綺麗に微笑んで、アーロゥに問う。
「おまえはなにがしたい? どんな目的があった? 聞かせろ、アーロゥ・グラーデ。その目的次第では、おまえを使ってやろうじゃないか。私たちの内側でおまえの力を発揮して、おまえが力を発揮することで、おまえの目的を達成すればいい」
恥ずべきことなどなにもない、と。
これまでの経緯など知ったことか、と。
クラリス・グローリアは、微笑んで言った。
確かに――ゴルト武装商会はクラリス・グローリアが憎くて行動していたわけではない。同様に、クラリス・グローリア率いる『グロリアス』とて、ゴルト武装商会を仇敵としていたわけでもないのだ。
単に立場が異なっており、敵対していただけ。
個人的な怒りも憎しみも憤りもない。
それは本当に、その通りだ。
両足を壊されたアーロゥですら、妖狐カイラインに激しい憎しみなど抱いていないのだ。結局のところ、組織間での戦いなどそういうものだ。長引けば恨み辛みも発生しただろうが、そのはるか手前で戦いは終わってしまった。
だから、だろうか。
ベルク・ゴルト以外に吐露したことのない本音を吐き出してしまったのは。
「私は――貴族の横暴が通じない力が欲しかったのです」
口にしてしまえば莫迦らしい本音。
ロイス王国に生まれ育ち、貴族たちが創った社会の中で生きていた者が、一体なにをそのような世迷い言を――そう思われて仕方のない本音だ。
けれども、本音なのだ。
力ある者が力なき者を好きにしていいというのなら。
力を欲しがって、なにが悪い?
ベルク・ゴルトは、そんなアーロゥを笑わなかった。
クラリス・グローリアは――むしろ、にんまりと笑ってみせた。
「だったらおまえの力を貸せ、アーロゥ・グラーデ。おまえの力を使って、私たちは大きくなる。どうせこの流れだと大きくならざるを得ないからな。せっかくだ、おまえの居場所をくれてやる。ちょうど何日か前に第二王子をクソほど小馬鹿にしてやったところだしな。あんな連中に、いいようにはさせてやらない」
なあ、そうだろう?
言って差し伸べられた手を、取らないという選択肢はなかった。
◇◇◇
そうして、クラリス・グローリアの生み出した『流れ』が、アーロゥ・グラーデを呑み込んで、また大きくなっていく。
そう――『栄光』が、輝きを増していく。
クラリス・グローリアがそれを望んでいるかは、アーロゥには判らなかったが。
感想いただけると嬉しいです。
書籍版『悪徳令嬢クラリス・グローリアの永久没落』一巻、好評発売中です。
気になった方はタイトルで検索したり、いずみノベルズのホームページをご覧下さいな。