132話「癒やしの聖女④_01」
目を覚まして知らない天井を眺めるのに、ミゼッタはもう慣れていた。
ミュラー伯爵家に見出されてエックハルトとの婚約が決まり、レオポルド・イルリウスの元へ送られ、名を売るためにロイス王国中の貴人を治癒して回った。真っ白な天井もあったし、馬車の屋根裏を眺めて眠ることもあった。わけの判らない装飾照明や、何故か絵画を貼り付けてある天井もあった。
今回は、木製の板張り。
ミゼッタが暮らしていた農村の実家も、似たような天井だった。ただ、それにしては真新しさを感じるので、たぶん建ててからあまり日が経っていない建物なのだろうな……と、そんなことを半覚醒の頭で考えていた。
ふと横を見れば、ミゼッタが身体を預けている寝台のすぐ隣に、信じられないほどの美少女が座っていた。
腰まで届く長い金髪。人形みたいに完璧な均衡の取れた相貌。少し乱暴に触ったら折れてしまいそうなほど華奢な肢体。まるで人生の中で最も美しい瞬間の中に閉じ込められて時が止まっているかのような、非現実感。
ミゼッタは彼女の顔なんて知らない。
ミゼッタが知っているのは、彼女の背中だ。
魔族が潜んでいる森へ向かって、エスカードの丘を下っていく背中。
月明かりを受け、長い金髪がきらきらと楽しそうに踊っていた。
「クラリス・グローリア……」
ぽつり、と。
口から彼女の名前がこぼれ出る。
頭の中は疑問符でいっぱいだ。無数の「どうして?」が浮かび続けるが、物事を考えるための土台すら覚束ない。なにがどうしてどうなってこうなっているのか、そのひとつとして明確じゃないのに。
でも、彼女がクラリス・グローリアであることは、確信できた。
「ふぅん? 私のことを知っているのか? 何処かで会ったか……いや、会った覚えがないな。遠目で見たことがあるのかな?」
儚く美しい容姿とは裏腹な、つっけんどんな口調でクラリスは言った。きょとんと首を傾げる仕草がまた可愛らしくて、ミゼッタは鼓動が速まるのを自覚する。
「その……エスカードの魔族戦で、ギレット姉弟が死んだ日の夜、丘を下りていく貴女の後ろ姿を……見ました」
どうしてだか嘘やごまかしを口にする気になれず、ミゼッタは寝台の上で身体を起こし、クラリスに正面から向き合って言った。
「ああ、おまえも戦場に来てたのか。まあそうだ。お察しの通り、私がクラリス・グローリアだ。おまえは『癒やしの聖女』だな?」
「ミゼッタと申します」
「エックハルト・ミュラーの婚約者で間違いないな?」
「……はい。クラリス様が婚約破棄されることになった原因が――私です」
そこは絶対にごまかしてはならない箇所だ。
自分のせいで、この可憐な少女が火刑に晒されることになった。
どんな罵詈雑言を浴びせられても仕方がない。殺されたって文句は言えないだろう。いや、あるいはそうして欲しいのかも知れないとすら思う。
どうか――どうか赦さないで。
ミゼッタにはどうしようもなかった運命だけれど、ミゼッタという運命がクラリス・グローリアを踏み潰したのは事実なのだ。
それなのに、
「ん? ああ、そんなもん、おまえのせいじゃないだろ。それより状況を確認したい。おまえの話を聞かせてくれ」
ミゼッタの中にあった固いしこりは、クラリスにとっては些事のようだ。けれども、どういうわけかそのことはミゼッタの心境を楽にしなかった。
恨みの欠片すら、抱いてくれなかった――そんな喪失感。
我ながらあまりにもあんまりな感慨に、うっかりすれば笑い出しそうだった。
頭のおかしい女だと思われたくないので我慢したけれど。
「状況……ですか?」
「ああ。ミュラー伯爵家に見出されて、エックハルトと婚約することになった。そこから先だ。私がミュラー伯爵を殺したから、たぶんエックハルトの兄が当主になったんだろうが、ごたごたしたせいで結婚までは話が進んでないはずだ。少なくとも一年は当主の喪に服すはずだしな」
それは、その通りだ。
クラリスは口調に熱を込めず、淡々と続ける。
「普通に考えたらミュラー家の中で箱に仕舞った宝石みたいに愛でられてるはずなのに、どういうわけか『癒やしの聖女』なんて呼ばれて、あちこちで治癒魔法を使っているとか? そのあたりの経緯を話せ」
「はい。えっと……結論から申しますと、レオポルド・イルリウス侯爵に利用される形で、私が貸し出されました。イルリウス卿の思惑に従って、各地の貴人に治癒魔法を使っていました。エスカードの魔族戦では『癒やしの聖女』を、いわば見せびらかすために、送り込まれたそうです」
というのは、後々レオポルドの甥であるヴィクター・イルリウスがぽろっとこぼした話だが。しかしたぶん間違っていないだろう。
ミゼッタは、確かに示した。
自慢のようになってしまうが、他の誰にも治癒ができなかった重症者を癒やしてみせたし、ジャック・フリゲートの腕の欠損だって治してみせた。
「レオポルドが、ね……」
何故かニヤリと笑みを洩らすクラリスだった。
もちろんミゼッタには意味が判らない。なので彼女が求めていた「これまでの経緯」に関して、思い出せる限り時系列を追って話すことにした。
意外にというか、クラリスはとても聞き上手で、ミゼッタの話に小気味よく相槌を打っては細かいところに「それはこういうことか?」と疑問点を上げてくれた。クラリスが話を聞いてくれるというだけで嬉しさのようなものを感じるのは、なんだか不思議だったけれど。
ひとしきり話しきったところで、ミゼッタは眼前の少女以外のことがようやく気になってきた。そもそもここは何処で、自分はどうして眠っていて、なんだってクラリス・グローリアが眠っている自分を見ていたのか。
「なんだ、別に状況を理解してるわけじゃなかったのか」
ひょいと眉を上げて、少し楽しげに唇を曲げる。
なんだかひどく恥ずかしくなって、ミゼッタは顔が赤らむのを自覚する。
そうだ、どうして自分の現状を把握しようとしなかったのか……なんて、理由は判りきっている。クラリス・グローリアが眼の前にいたからだ。
「ここは、おまえたちが認識している獣人たちの砦の中だ。おまえを拉致したのは私の仲間で、おまえの護衛はまだ生きてる。ジャック・フリゲートだったか。あの、めっちゃ強い金髪の少年剣士だ」
「ええと……」
確か、陣所に用意された小屋の中で待機していたはずだ。そこでなにか物音がして、ジャックが飛び出した。ほとんど間を置かずに爆発音が聞こえたような気がするが――そのあたりから、記憶は途切れている。
それにしたってジャック・フリゲートを掻い潜ってミゼッタを拉致するなんて、かなりの凄腕がいるのではないか。
戦いのことにはあまり詳しくないミゼッタだが、それでもジャックがエスカードでの魔族戦で魔族の将を討ち取ったのは知っている。そのときは腕一本と引き換えだったが、その後に「もう油断しない」だなんて言っていた。
今回、たぶんジャックは油断なんかしていなかった。
小屋の中にいるときも、出入口近くにいつも陣取っていたし、周囲への警戒も怠っている様子はなかった。
そんなジャックを、クラリスの仲間はどうにかしたということだ。
しかし――、
「あの……どうして私を拉致したのですか?」
と、ミゼッタは言った。
クラリスはとんでもない莫迦を見るような顔をして口を半開きにした。
◇◇◇
結局、クラリスはミゼッタにミゼッタを拉致した理由を語らなかった。よく考えればミゼッタに物事を教える利がないのだ。
親切にあれこれ教えてやる義理もなければ、教えたところで得をしない。何故ならミゼッタはクラリスにとって敵だから。
ただの敵、だ。
恨みもなければ憎しみもなく、執着だってありはしない。自分たちを害する側に存在している、ただの他人。
そう気付いてしまえば深く突っ込んで聞く気にもなれず、居心地の悪さを感じたミゼッタは、なんというかしょんぼりしてしまった。
「食事と睡眠の心配はしなくていいぞ。大切な人質だから、大切に扱ってやろう。なにか要求があれば善処してやるから、遠慮なく言え」
「人質……ですか?」
「おまえは自覚してないかも知れんが、『癒やしの聖女』なんて大駒を、こんなわけの判らない戦で失っていいわけがない。レオポルドが手間暇かけて名を売り、実績を示し、おそらくはロイス王国中のいろんな貴族が『癒やしの聖女』を認識している。どうしても治してほしいって連中はごまんといるだろうさ」
それは、まあそうだろう。
レオポルド侯爵が『客』を選別していたせいで、治してほしいのに断られた、という貴族だっていたはずだ。ようは政争に使われたということだが、どうせどうあってもミゼッタの人生は使われて流されるしかないのだから、そこに関してはなんの感慨もない。今更の話である。
「しかし『放蕩王子』にとっては、おまえは大事な駒じゃない。おそらくだが、レオポルドとは政争局面においての立ち位置が違うんだ」
言われてみれば、レオポルドの甥であるヴィクターは、第二王子ブリッツ殿下に対して畏まりはすれど敬意を抱いている様子はなかった。むしろ非常に鬱陶しそうにしていたし、できれば帰りたいとすら言っていた。
……じゃあ、どうして自分を人質として拉致したんだろう? ミゼッタは混乱をそのまま表情に出して思いっきり首を傾げてしまう。
だって、今回の戦を主導しているのはブリッツ・オルス・ロイス第二王子なのだ。そのブリッツはミゼッタをどうしても守りたいわけではない。ひょっとすると死んでもらった方が、後々の政争においては有益かも知れない。なら、ミゼッタが人質として機能しないではないか。
そんなミゼッタに、クラリスはにんまりと楽しそうな笑みを浮かべ、教えてやらないよ、とばかりに片目を瞑ってみせた。あまりにも愛らしい仕草で、ミゼッタの頭の中を漂っていた無数の疑問符が一斉に弾けて消える。
そうしてあらかた消え去った頭の中、ひとつだけ残っていたものを、ミゼッタは思考をろくに挟まず、口から吐き出した。
「……あの、要求なんですけど」
「ほう、要求。なるほど、顔が良い世話係でも付けて欲しいのか?」
「いえ、要りません」
「じゃあ、とびっきりの御馳走か。贅を凝らした食事を求め――」
「いえ、それも要りません」
「うーん……寝床ならそこにあるじゃないか。性欲、食欲、睡眠欲の他に、なんか欲しいものがあるのか? 言っておくが金はないぞ」
「あの、そうではなくて」
「ふむ?」
きょとんと首を傾げるクラリス・グローリアに、ミゼッタは二回分だけ呼吸をしてから、自分の要求を告げた。
「怪我をしてる人がいるなら、治療します。怪我人がいると考えると、落ち着きません。怪我人がいるなら、連れて来てくれませんか?」
それだけが自分の価値だ。
今までもそれを示してきた。そうしなければ自分を流していく運命の濁流に飲み込まれ、沈んで溺れて窒息していただろう。
ここでも、示してみせる。
そう思った。
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