105話「光の下_03」
グロリアスの領域に来てからの日々は、レガロにとって驚きの連続だった。
スペイド領の魔術師団で中隊長を務めていたときは、自身の人生に対する行き詰まりと職務の退屈さから、ひたすらに怠けていた記憶がある。怠慢に過ごしていても、日々は十分に過ごせていたからだ。
しかしここでは――退屈なんてものは、夜空の星より遠い場所だ。
あまりに遠すぎて手が届かない。
「それにしてもレガロ、あんたは人族のところでそれなりの地位ってやつを持ってたんだろ? よくもまあクラリスの手下になろうだなんて思ったわね」
作業の合間、作業員たちが組み上げる鉄筋を眺めていると、現場指揮官のビアンテがふとそんなことを言った。
ビアンテ・グロリアスは、クラリスに従っている魔人種――グロリアスと名乗っている――の中では、最も年長らしい。といっても外見は人族での二十代半ばといった程度で、槍使いのマイアがそうであるように、容姿はかなり整っている。
――グロリアス。
聞けばエスカード領への突撃を命じられ、その決死戦の中にたまたま現れたクラリスに唆され、逃げたい者だけがクラリスについて行ったという。あとはそのままクラリスと行動を共にするうち、楽しくなってしまった。
「まあ成り行きが大半ですがねぇ。人族の中での『そこそこの地位』ってやつが、俺にとっちゃ、さして大事でもなかっただけの話ですよ」
スペイド領の魔術師団、中隊長。レガロにとってその場所は、ただのどん詰まりでしかなかったのだ――と今になっては思う。
上にはいけ好かない貴族や上官、下には自分を嫌う貴族の団員や、自分と同じような叩き上げの魔術師たち、横には騎士団があって……おまけにレガロには家族もいなければ身内と呼べるだけの親しい者もいなかった。
「守るべきものなんて、自分の命と生活くらいのもんだ。流れに流されてあんな場所にいた。今になっちゃそう思いますし、ここにいるのだって流された結果だ。ビアンテさん、俺はあんたほどには高潔じゃない」
「高潔?」
「守るべきだと思ったんでしょう、死にたくなくて逃げ出した若い連中のことを。でなきゃ他の連中と一緒にエスカードで突撃してりゃよかった」
へらへらと笑って言ってみれば、不機嫌そうな渋面で睨まれる。
が、当たらずとも遠からずだろう。
今を楽しんでいないとは言えないはずだ。この現状はビアンテにとって、案外と楽しいものなのだろう。グロリアスの面々に、獣人たちに、あれこれ指示をして世話をしてやっている様子は、はっきり言って『活き活きしている』ものだ。
正直に言えば、レガロだって楽しい。
冗談みたいな早さで砦が建設されていくのだ。仮にレガロが所属していた魔術師団で同じ人数を使ったとして、四分の一も進んでいないはずだ。
馬鹿みたいな重量の建築資材を猪獣人たちが人力で運んで来る。彼らはそのまま特注のスコップとかいう道具で地面を掘り返し、基礎コンクリートを埋めるための穴をあっという間に作ってしまった。
しかもそれらの仕事にはまともな指示がどうしても必要で、ビアンテやレガロが適切に彼らを運用しなければ、オークやボア・オークの異常な労働力はあたら無駄に消費されてしまっていたに違いない。
さらに付け加えるなら猪獣人の代表であるゾンダ・パウガなどは、ビアンテやレガロの指示にきちんと従ってくれた。お互いの役割を理解し、把握し、尊重している。なんて気持ちのいい仕事環境だろう、とレガロは思う。
だがそれは、レガロやビアンテが有能だからではない。
ゾンダ・パウガや他の作業員たちが、ビアンテの指揮やレガロの指示に理解を示してくれるのは――クラリス・グローリアがそうしろと言ったからだ。
でなければ、こんなにも上手くいくはずがない。
クラリスという光に照らされて、誰もが前進している。前に進むことに気を取られている、とさえ言えるだろう。些細な諍い、無用な擦れ違い、不要な衝突に意識を向けるのが莫迦らしいのだ。
だって、楽しい。
こんなにも俺たちは前に進んでいる。
「……あの小娘は、なにをしたいんだかね」
溜息なのか嘆息なのか、よく判らない吐息を洩らしてビアンテは言う。
そのわずかな不安を秘めた横顔に、レガロは奇妙な温かさが胸の内側に生まれるのを感じる。魔人種の薄紫色の肌はまるで首を絞められて鬱血しているかのような不吉さだ。魔人種の膂力は拳ひとつで人族の顔面を潰せるほどの脅威だ。
判っている。
彼女たちは自分とは違う。
だが――共感できる。
確かに共感できてしまうのだ。
俺たちを照らす栄光が、俺たちを何処に導こうとしているのか、
それをどうして教えてくれないのか。
決まっている。
そんなもん、クラリス・グローリアにだって判らないからだ。
冷静に考えれば、とんでもないことだ――とレガロは思う。
人族に魔人種に獣人を混在させたわけの判らない集団が、意図も目的も不明のまま、異様な速度で戦力を蓄えている。
それが、こんなにも楽しいのだ。
ろくなもんじゃない。
「あの娘がなにをしたいのかなんてのは、俺にだって判りませんがね。退屈でもないし、不本意でもないし、たぶん邪悪でもないでしょうよ」
へっ、と美的でない息を吐き、笑みを口元に貼りつけて言う。
そんなレガロに、ビアンテは小さく肩をすくめて返した。
「だからタチが悪いんじゃあないか。そのうち、あの小娘のために喜んで命を差し出しちまいそうな気がするよ。『なにかのために死ね』ってことから、あたしらは逃げ出したってのにさ」
まったくその通りだ、と思った。
レガロ自身、命令に従って死ねという状況から逃げ出した。そんなもん、逃げて当然だろう。何故なら死を賭してまで守るべきものなどレガロにはなかった。
今だってそれはない。
そのはずなのに。
「もしそうなったら、あんま悪い気がしねぇってのが……最悪ですねぇ」
そう言って、レガロは笑った。
笑ってしまえるのが、本当にタチの悪いところだった。
◇◇◇
懸念というにも曖昧すぎるその予感は、もちろん仕事の進捗には影響しない。レガロやビアンテは指揮をする側にいるので、やるべきことが多かった。
搬入された建築資材や食料を把握し、人員を輸送に回すか建築作業に回すかを考えて割り振り、砦の建設工事自体の作業指示も必要で、なによりクラリスに厳命されているのは、人員を十分に休憩させ、十分に食わせることだ。
作業員たちも仕事を楽しんでいるせいで、放っておくといつまでも仕事をし続けてしまう。作業の進捗を把握して、適切な頃合いに休憩を取らせるのもレガロの仕事のひとつだった。
太陽が頭の真上に来たのを見計らい、そこらの中空に『爆圧』の魔術を放つことで、大きな音を出す。二連続が休憩の合図だ。
「キリのいいとこまでいったら飯にしてくれよなぁ!」
とりあえず大声を出しておくが、砦の外壁を担当している作業員にまでは届かないだろう。しかし、作業員の誰かが『爆圧』の音とレガロの存在に気付けばそれでいい。彼らもまた、クラリスの厳命を受けているからだ。
一通りぐるりと現場を見て回り、手を離せない仕事を受け持っているやつ以外が休憩に入ったのを確認してから、レガロも砦の内側へ足を運ぶ。
「あ、レガロさん。今日もお疲れ様ねぇ。誰も彼もがビアンテ様とレガロさんに従ってるんだから、もう本当にすごいわぁ」
からからと屈託のない笑い方をするのは、メラルヴァという牛獣人の女だ。いつの間にか調理場のまとめ役になっていて、そのことを誰も不満に思っていないようだ。レガロもだ、不満などない。
スペイド領にいた頃は、商売女が相手であってすらここまで愛想よくされたことがないので、レガロはメラルヴァと顔を合わせるたびに若干の戸惑いを覚える。
「いや、すごいのは俺の指示を聞くように命じたクラリスの嬢ちゃんで……俺ぁ言われたことをやってるだけなんで」
「それって謙遜ってやつかしら? 誰にでもできることじゃないのは確かでしょ。ほら、たくさん食べて、あなたもちゃーんと休んでくださいな」
食事を盛られた器を押し付けられ、食堂というべきか、食事場というべきか、その場の端へ移動する。
そこには表情の読めない蜥蜴獣人のアストラ・イーグニアと、グロリアスの魔術師であるカルローザ・グロリアスがいた。
二人は特に会話することなく、黙々と食事を口に運んでおり、しかし別に気まずそうというわけでもない。
「よう。調子はどうだい?」
なんとなく、というくらいの気分で声をかけ、近くに腰を下ろす。アストラは無言で首を僅かに動かし、カルローザは「ひょっ」とよく判らない声を漏らしてから、ふひひと陰気な笑みを浮かべた。
「レ、レ、レ……レガロさんじゃないですか。どうしたんですかぁ? ふひひ……もしかして、水とか足りなくなってますかぁ?」
どうやら愛想笑いをしているつもりのようだが、卑屈にへつらっているようにしか見えない。もしスペイド領の魔術師団にいたなら、彼女を待つのは悲惨な運命のみだろう。が、この場所では許される。
もしかしたらカルローザの人格を嫌う者がいたりするのかも知れないが、この場所で誰かを迫害するような真似を、ひどく不快に思う人物がいるのだ。
クラリス・グローリアに嫌われるということは、ここでの居場所を失うという意味だ。別にクラリスは嫌っただけでそいつを追放したりしないだろうが、例えばクラリスに心酔しているカタリナあたりがどう動くかなど、想像に難くない。
「いや、今のところは大丈夫だ。足りなければメラルヴァが頼みにくるだろうさ。なんとなく調子を訊ねただけだよ」
「ふひひ……あ、あの……調子は、良い……のかな? いっぱい魔法を使ってるから、ちょっと疲れますけど、魔法の調子が良いんです……ふひひ!」
グロリアスの面々は直接戦闘技能の高い者が多いが、カルローザはそんな彼らの中において明確に直接戦闘を不得手としていた。
その代わりというべきか、人族の中では『四属性魔術』と呼ばれる魔術を、実に四種全て使用できる。
この砦の地下水脈を探し当てたのはカルローザの水属性魔術だったし、かまどに火を着けて回るのも彼女の火属性魔術で、地下水をわざわざ汲まずとも、大鍋に水属性魔術で飲料水を補充するのも彼女の仕事だ。
「そりゃあよかった。ゾンダ・パウガの例もあるし、魔力ってのは使えば使うほどこなれていくからな。案外、今の環境はあんたにとって良いのかも知れんな」
「か、かも、知れないですぅ……ふひっ。だってあたし、魔法とか全然使ってこなかったし……そんな大した魔法とか使えないし……」
でも――とカルローザは、本当にわずかだけ、陰気でない笑みを見せた。
「ここでは、やれること、あるみたいです」
なるほど、とレガロは肉と野菜のスープを胃に落としながら思う。
きっと日陰を居場所にしていたであろうカルローザみたいな人物であっても、光の下をおっかなびっくり歩いている。そのことを、カルローザ自身は嫌がっていない。ビアンテと共有した懸念も、やはり現実味がありそうな気がしてくる。
しかし、どうだろう?
クラリス・グローリアのために喜んで死ねる人生が、悪いものなのかと問われれば……レガロには回答の持ち合わせがなかった。
まあいいさと内心の懸念を振り払い、なんとなくカルローザに魔術についての話を披露ながら飯を口に運んでいると、
食事場に、誰かが駆け込んできて大声を出した。
「おぅい! 大変だ! 獅子獣人の娘っ子が来た! ランドール様の娘だって言ってる! 誰か、対応できるやつがいねぇか!」
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