010話「魔族①_02」
魔境とは、人間側がつけた勝手な名称である。
エスカード辺境領と魔族の領域を隔てる大森林を、便宜的に『魔境』と呼んでいるだけであり、別に森そのものが魑魅魍魎の伏魔殿というわけではない。
もちろん人の手が入っていない場所なので魔物は多いが、ただそれだけの、ごく普通の森だ。
日本の森と違うのは、平らな地面に延々と森が続いていることだろうか。山林でない森は、日本では比較的珍しかったように思う。
とっぷりと日も沈みきった夜の魔境を、私は鼻歌交じりで歩いていた。
息を潜めるとか、気配を殺すとか、そんなことはまるで考えない。
むしろ逆だ。
見つけてもらわねば困る。
森に入ってから、どのくらい経っただろうか。五分以上、二十分未満……たぶんそのくらいだろう。森はあまりに暗く、ほとんど視界も利かないせいで歩くことに集中していたからか、時間の感覚があまり判らなかったのだ。
全くの無警戒でのしのし歩いていたクラリス・グローリアの足首へ、不意に、なにかが絡みついた。
と思ったときには、天地が逆さまになって、宙吊りになった。
縄を使った、ひどく原始的な罠だ。
いまどき、こんな陳腐な罠に引っ掛かる間抜けなどいるはずもない。いるとしたら見てみたいものである。
「……おい、おまえ。何者だ?」
上下逆さまの世界でとびっきりの自虐ジョークを練り上げていた私に、暗がりの向こうから声を掛けてくる者がいた。
「見ての通り、かわいらしいお嬢さまだぞ、私は。そういうそちらは何者だ? 暗がりに紛れて姿も見せず、婦女子を逆さ宙吊りにして呑気に質問とは、良い趣味の持ち主だな。まったく、私の心が寛大でよかったと思えよ」
逆さ宙吊り状態で踏ん反り返って言ってみるが、なかなか気分がよかった。例の『死なない身体』のせいか、頭に血が上って気分が悪くなるといったこともなく、それがなんだか面白かったのだ。
「人族……だよな? どうしてこんなところに?」
訝りながら木の陰から出て来たのは、大柄な魔族だった。
いや、どうだろう、魔族のことを私はよく知らないので、おそらく身長百八十センチ近くのそいつが大柄なのか、魔族の中では小柄なのかは判断できない。
暗い森の中だったので判らなかったが、この魔族――ユーノス・ユーノフェリザは、薄紫色の肌と黒い髪の、魔人種と呼ばれる魔族だった。ちょうど首を絞められて鬱血している人間と似たような肌色をしており、これは確かに人族から見れば忌避もされるだろう。
彼らは魔力と身体能力に優れ、長寿であり、知性と頑強さを兼ね備える、さながら人族の上位互換のような種族だ。
一般に人族が『魔族』と口にするとき、この魔人種を指すことが多いらしい。
ユーノスに対する第一印象は、『好青年のような口調』である。
双子のギレットみたいなわざとらしい悪趣味さはなく、レオポルト・イルリウス侯爵のような冷たさも計算高さもない。強いて言えば、元婚約者のエックハルト・ミュラーが近いだろうか。
他者へ対する、他意のない接触。
「ヒトだからといって人族の味方というわけではない。むしろ人族の方が私を迫害してきたんだ。まあ、たぶんそっちも似たようなものだろう?」
言って、にっこりと微笑んでみせる。
クラリス・グローリアのとびっきりのスマイルを進呈である。
◇ ◇ ◇
魔族の中でつまはじきにされた連中が魔境を越えて人族の領域へ攻め込んで来る――というふうに聞かされていたのだが、ユーノスに確認してみれば、大筋としては間違っていなかった。
宙吊りから解放し、その縄を使って私の両手を拘束したユーノスは、森の奥へ進み彼らの陣地へと案内してくれた。
私を人質として使うつもりなのか――無論、人質として有用では全くないのだが――あるいは、判断を保留してとりあえず連行したのか。
ちなみに陣地といってもエスカードの本陣みたいに立派な陣を敷いているわけもなく、森の一角に身を寄せ合っているだけだった。
魔族の一団は、およそ三十人ほどか。
火を熾すことさえしておらず、疲れ切った顔で毛布に包まれ、寝息を立てている者もいた。たぶん昼間に戦場へ出た魔族だろう。
「族長に会わせる。その後、どうなるかは俺には判らない。覚悟はしておけ」
ユーノスは不本意そうにそんなことを言った。
まさか私の可愛いらしさに絆されたわけでもあるまい。
件の族長は、陣の中心で倒木に腰掛けて酒瓶をあおっていた。ユーノスと同じくらい長身で、ユーノスよりも一回りくらいガタイがいい。
筋肉ムキムキ、マッチョマンの魔族。
印象のみを語るなら、不敵に笑いながら漫画肉に齧りついてそうな男。
名を、ヤヌス・ユーノフェリザといった。
氏族というからには、おそらく大半がユーノフェリザなのだろう。
「人族のガキだと? それも女のガキが、こんなところにどうしてやって来た?」
いかにも野蛮人という口調に私はやや落胆したが、よく考えればこんなところで白馬に乗った王子様と出会えるはずもない。まだ言葉の通じる相手でよかったと考えるべきだ。
「私はクラリス・グローリアという。人族の集団から弾き出された、憐れな美少女だ。魔境からやって来るとかいう魔族の事情を知りたくて、こうして会いに来た」
「両手に縄を掛けられて、か?」
「別に、首だろうが腰だろうが両足だろうが構わないぞ。喋る分には支障ない」
こちらを蔑むような眼差しに、私はまたクラリスマイルをプレゼント。
しかしヤヌスはあまりの可愛らしさに失神するでもなく、ちょっと驚いたふうに眉を上げ、ややあってから上機嫌な笑みを見せた。
「面白いガキじゃねぇか。おい、ユーノス。縄を解いてなにか飲物でもくれてやれ。こういうガキは、俺は好きだ」
蛮族の頭領みたいなおっさん魔族に好かれても私としてはちょっぴり困るのだが、特に貞操の危機は感じなかったのでいいとしよう。
ともあれ、である。
対話が成立したのは万々歳だ。
もちろん気持ちが通じるとは思わないし、心が通じるとはもっと思わない。会話なんてものはすれ違いの温床だ。そこに情報さえあればそれでいい。
さておき、である。
そんなわけで、魔族――ユーノフェリザ氏族の事情について。
彼らは魔族の国で、いわば政争に敗れたのだという。
魔族の国とは、魔王を中心とした寡頭制の原始的な国家だそうだ。
ちなみに寡頭制とは、少人数の権力者による国家運営のことである。ヤヌスやユーノスはそのあたりを詳しく説明しなかったが、きっと魔王とその四天王なんかがいて、そいつらに権力が集中しているのだろう。
そもそも、長寿であり強力である魔人種は、人間のような国家を必要としていない。社会とは少数では弱すぎるヒトが他の全てに対抗するために創り出したシステムなのだ。ライオンは群をつくるが国はつくらない。そういうこと。
ではどうして『魔族の国』が生まれたのかといえば、魔族の領域には魔人種以外の魔族もまた暮らしていたからだ。
魔人種に近い強力な種族もいれば、そうでない貧弱な種族もいた。手先が器用な種族、口先が回る種族、特定の魔法に特化した種族……そういう連中が『魔王』を欲し、魔王がこれに応えた。
魔王とは、君臨すれども、統治せず。(クラリス川柳)
国家の黎明期、数人の権力者はかなり頑張ってシステム造りに奔走した。カバもライオンもウサギもネズミも一緒くたにした場所で社会など成り立つはずもないのに、無理矢理に成り立たせてしまった。
彼らには共通言語があったからだ。
どんなバカにでも伝わるリンガ・フランカ(共通言語)は、暴力である。
ようは、強い魔族を中心とした『氏族』をつくらせたのだ。
こうすることによって半ば無理矢理に社会のようなモノを生み出し、この集団を治めることができるようになった――らしい。
で、魔族の政治体系というのが、なかなか面白い。
地球でいうところの原始宗教のように、魔族の国では生贄を要求した。
ことあるごとに生贄を要求する政治。
いかにも魔族の国である。
もちろん生贄といっても、軽重はある。
例えば氏族の中の一名を別の氏族に奴隷として差し出すとか。
あるいは数年に一度、その氏族ごと人間の領域に突っ込ませて死んで来いとか。
一体ユーノフェリザ氏族はなにをしたというのか。
聞いて驚くなかれ、特になにもしていない。
単純に、魔族の首脳会議でつまはじきにされた――そう、ロイス王国の方で聞かされたのと全く同じ回答である。
他の氏族からの、恨み辛み妬みを買った。
ただそれだけの理由で、国から迫害され、人族の領域に突貫させられる。
「まっ、仕方ねぇさ。そういうもんだ。それが嫌なら魔王様を討ち倒すしかねぇ。それができないから、俺たちはこんなところにいる」
文字通り、仕方なさそうにヤヌスは言う。
そこにあるのは諦念だ。
大雨が降る、地震に遭う、日照りが続く――そういうことと同じように、身に訪れた不幸を受け流している。
それはクラリス・グローリアにとって、認めがたい諦めだ。
私は言う。
「はっ、がっかりだなヤヌス・ユーノフェリザ。おまえの氏族もおまえみたいな族長に付き合わされて、おまえなんぞのくそのような諦めに巻き込まれて、さぞや虚しいことだろう。いいさ、おまえたちが死んだ後、私が墓をつくって墓標に刻んでやろう。『負け犬のユーノフェリザ氏族、ここで無様に眠る』とな」




