百花の王の物語
初代百花の王誕生秘話。
城下では、あちこちから煮炊きの煙が細く上がり始めていた。
影が長く伸び始める時刻である。もうすぐ夕刻の鐘がなるだろう。
「陛下ぁ、見かけないと思ったらこんなところにいらしたんですか」
息切れした少年の声に、城で一番高い鐘楼のてっぺんで、城下町を見下ろしていた王がにこにこと振り返った。
「ああ。ジョンか。良く私がここだとわかったね」
「もう、あちこち探し回りましたよぅ!」
「すまんすまん、カレンティナの城ではここが一番見晴らしがいいんだ。運動不足解消にもなるしな」
「陛下はいっつも動いてばかりじゃないですか」
小姓のジョンはきょとんと首をかしげた。
実際、王は忙しい。会議や執務で座りっぱなしの事も多々あるが、そうでなければ城の中を、あるいは国中をあちこち動き回っている方が多い。勤勉な王なのだ。
「そうなんだが…腹のでっぱりが減らんでなあ」
王の声に僅かな哀愁が染みる。出た腹で動きにくいのを気にしているらしい。
「それ、本当に不思議ですよね」
ぽよよん、と突き出た腹を撫でる王に、しみじみとジョンは大きくかぶりを振る。
「それよりこんなところで何をなさってるんですか? もうすぐ夕餉の時刻ですが…」
「ああ、探させてしまってすまんな。国を見ていた」
王は眼下に広がるカレンティナの城下町を見下ろす。もちろん見えるのはその町からまた広がる平原や森、海くらいで、国土全てを見渡せるわけではない。しかし王はカレンティナ中を見通すような遠い視線を巡らせる。
王は高みから、平安の保たれたカレンティナを一望するのが好きだった。
彼はしみじみとしわがれつつある声で語り出す。
「儂はな、ここ数十年、父から手渡されたこの国を何とか治めてきた。頭上に掲げた、雑多に料理の盛られた大皿を、必死で落とさぬように踏ん張ってな。少なくとも民が食うに困らぬようには努めてきたつもりじゃ」
「おっしゃる通り、陛下は善き王にございます。この国が平和なのは陛下のご尽力の賜物ですから」
決しておべっかではなく、ジョンは強く相槌を打つ。しかし王の目は遠く城下に向いたままだった
「--しかし最近思うのだ。それだけでよいのか、とな」
それは独り言にも近かったかもしれない。しかし生真面目な小姓の少年は困惑する顔になる。
「仰る意味がよく分かりません」
王は再びにこにことほほ笑む。
「ジョン、お前はもし選べるとしたらどんな国に住みたい?」
「え? そんな事考えた事ありませんよぅ。だって、普通にこの国に生まれて…他の国なんか知りませんし」
毎日仕事はたくさんあるが、体を動かすのは好きだから苦ではない。城に勤めていれば飯は充分にもらえるし、小さいが寝床もちゃんとある。今の日常に特に不満はない。
「そうだよなあ」
王は鷹揚に声をあげて笑う。ジョンは仕方なくそんな王を見て口を噤んだ。王は時々、こんな風に不思議なことを呟き出す。今、彼は何か大事なことを考えているのだ。
「理想がな、あってもいいかと思えたのだ。儂が望む、儂らしい国とは一体何か、とな」
「はあ…」
ジョンにはやはりよくわからなかった。
王は城下から自分の爪に視線を落とす。太く短い指に張り付いた爪の先には、土が入り込んでこびりついていた。
カレンティナの八代目の王、ファディルの趣味は庭仕事と園芸だ。元々あった奥庭の小さな薬草園に子供の頃から入り浸っては女衆に小言を言われ、それでも空いた小さな場所に種を撒いては花を咲かせた。以来、土いじりが何よりの楽しみで、丹精した末に美しく花が咲きほころぶと無性に嬉しくなる。
国政に悩む時、思い通りにいかずじっと耐えねばならない時、彼は土を弄り、花を咲かせた。大事な者を失くした時も、何かを育てていれば何とか耐えることが出来た。芽を出し、葉を広げ、蕾をつけて花が開くのを見て、自分はまだ大丈夫だと信じられた。
もちろん、その生き方は彼個人のもので、他のすべての者が当てはまらぬとは重々承知している。
しかし――
「例えば…誰にも言えぬ想いがある時、それが哀しみであれ悔しさであれ…歓びであれ、溢れ出して止まらぬその想いを、託せる何かが傍にあればいいとは思わんか?」
少年はますます困惑顔になる。
「…仰ってる意味がよく分かりません」
ジョンは一言一句違えず同じ言葉を繰り返す。小姓の少年はまだ若い。まだあまり難しいことを考えたこともなかった。王のあとを追って走っていれば一日が終わる。
そんな少年の気持ちを読み取って 王はふんふんと人の良さそうな顔を縦に振った。
「お前はな、まだそれでよい」
その笑顔はちょっとしたいたずらを思いついた、子供のそれに代わる。
「だから……これは儂のちょっとした夢、……と言うより為政者としてのいたずらじゃな」
幸福な夢を、見たくなったのだ。
「何がですか?」
王の背後に広がる城下には、落ちかかった夕日が全てを赤く染めている。今日に終わりを告げる色だ。ジョンは何となくそう思った。王の顔が、逆光になって見えない。
それでも、彼はいつものように穏やかに微笑んでいる気がした。
「陛下…?」
まだ幼いともいえる小姓の、問うような声に、ファディルは遠い未来に思いを馳せる。
「ジョン、あとで部屋に戻ったら執務長を呼びなさい。大事な話があるから、と」
「は、はい。畏まりました!」
王の目には、生涯を治世に捧げた者が持つ強い光が宿っていた。
仕事の話を振られて、ジョンの口調が改まる。
ファディルは目尻に皺を刻んで言った。。
「お前にも言っておこう。私のささやかないたずらを手伝ってもらうためにな」
更にジョンの背がピンと伸びる。
いつか、ずっと未来にこの想いを継ぐ者がいるだろうか。同じ夢を見る者がいるだろうか。
いなくてもいい。でもいればもっといい。
――皆が、幸福であるように。
軽く息を吸い込むと、王はまるで天啓を告げるような厳かな声で宣下した。
「――国中に、花を」
【終】
もしお気に召して頂けましたら、本編と合わせてお楽しみ頂ければ幸いです。