第十三話
まだお風呂に浸かっている温もり。背中をくすぐるチクチクするような感触は、冬の寒い夜に湯船に迎えられた肌の感じるそれ。前髪から頬を伝い肩へと降りる滴が、鎖骨のくぼみに辿り着いて広がる。まだ出たくないお風呂。誰だろう? 大声で邪魔をするのは……。
「かすみっ!!」
そんな大きな声出さなくても聞こえてるわよ。目を開けると心配そうにのぞき込む稔くん。既に高みへとのぼりつつある朝日が、申し訳程度に広がる森の空き地にまだら模様を落とし込んでいる。その空き地の片隅には点々と置かれた礎石。昨晩はココにお邪魔していたらしい。たぶん幾年も昔に棄てられた名もなきお社。すっかりお世話になっちゃったわね……って、
「なんでこんな格好なのよっ!?」
「……いろいろと大丈夫か? お前」
朝露が土の香りとともにむわりと立ち上がる下草から身を起こした私は何故か浴衣。しかも右手にはしっかりと握らされた古文書つき。ホントこんなの初めてだわ。
「ぜんぜん連絡つかないから探しに来たよ、まったく……」
「……ありがとうございました」
先輩曰く、電話が私の悲鳴とともに途切れた直後、奈良県生駒市を震源とするM5.7の直下型地震が発生。震度5強を観測した生駒山では生駒ケーブルが路盤崩壊で全線不通。山体直下を貫く旧・新生駒ならびに阪奈トンネルでは内壁に横ずれが生じ、近鉄けいはんな・奈良線が不通、第二阪奈有料道路は通行止め。生駒山上へ繋がる信貴生駒スカイラインも数カ所でがけ崩れが生じ全面通行止め、なのだそう。
「って、どうやって帰るのよ??」
「まぁ歩いて下りるしかないんじゃないか?」
「って言ってもこんな格好なのよ!? 裸足だし」
「……そもそもなんでそんな格好なんだよ」
結局先輩におんぶされて帰ることに。大昔は参道だったに違いない獣道を妙齢の浴衣の女(←私のコトです)を背負って下る先輩の背中は大きくてたくましくて汗まみれだった。急な傾斜の踏み分けをおりてゆく足元は時折ふらつき、ギュッとしてないと落ちそうになるからギュッとしてると薄い浴衣の向こうから汗がじわりと染み渡ってくる。
「……なんかいろいろと気持ち悪いよ〜」
「じゃ、歩くか? 歩くんだな? その格好で」
「ごめんなさい……」
30分ほど下るとようやく信貴生駒スカイライン入り口の駐車場に辿り着く。にしてもこんな道もロクにない山の中をどうやって探しに来たんだろう?
「ただの勘だよ。どうせ地図にも載ってないような里道から山入ってうろうろしてんだろって思ってさ」
「先輩ってスゴいのね」
「何年の付き合いだよ……」
エンジンかけてエアコン全開なジムニーの助手席に座った私を絶対に見ようとしない稔くんの顔は真っ赤。どうした? 先輩。
「……その格好はいろいろとヤバ過ぎる」
そうか。
「にしても無事でよかったな」
「心配してくれてたんだ」
「まぁ、一応」
「一応とはナニよ」
とりあえず宇治へ帰ることに。生駒山を越える手段を失った車で大渋滞の国道168号線をノロノロと北へ進むジムニー。汗もおおかた引いてきたので頂きモノの古文書を見てみる。スゴい。さまざまな龍が暴れる順番のようなものが記されている。太陰太陽暦に基づく朔望月を一周期として、かなり大きなスパンで構成された独自の暦のようなものも。たぶん太陽暦に換算すればとてつもなく長い年数を表すことができるのだろうけれど……
「……水を呑む龍だけはわからないのかぁ」
「なんだって?」
「淡海乃海、の水を呑む龍のコト」
「あふみのうみ?」
「今で言う琵琶湖のコト、ね」
「奈良からは随分離れた場所の話だなぁ……水を呑む、ってのはなんなんだ?」
「それは……書いてない」
「またかよ。そもそもなんでそんな細切れなんだ? その手合いの文書は」
「全体を知る立場のヒトが隠しておきたかったんじゃない?」
「どうして?」
どうしてなんだろう? どうしてそこまで隠しておきたかったんだろう? いろいろな神社に伝わる龍の伝承はどれもこれも断片的。繋ぎ合わせようとしてもどこかで何かが足りなくなる。1300年に及ぶ時間の経過もあるけれど、それだけでは説明がつかないような気がして……
「稔くん、宇治に帰る前に烏丸に寄ってもらってもいい?」
「いいけどその格好でうろつくのか? 烏丸を」
「あ゛」
西日本を代表する金融街、京都府四条烏丸は都市銀行の支店が立ち並び、証券会社や商社が軒を連ねるビジネスの中心地。裸足の浴衣女が歩けば奇異の目で見られること請け合い……って、この格好じゃドコ歩いても一緒よね。
「だいたいなんで烏丸なんだよ?」
「別宅があるのよ、烏丸に」
「べったく??」
にしてもとにかく一旦アパートに帰ってマトモな服に着替えなければ動きがとれないし、そもそもそのアパートのお部屋の鍵とかお財布とか身分証とか保険証とかキャッシュカードとかクレジットカードとかスーパーのポイントカードとかスマホとかぜーんぶまとめて籐の籠に入って何処かへ消え去ってしまったワケで、今後のコトいろいろと考えるとホントになんだか……
「ぁああ゛めんどくさいっ!!」
「……お前ほんとに大丈夫?」