第拾壱話
ふと気がつくと藪の中に仰向けに寝てる。樹々の隙間から満月の明かりが降りてくる。辺りに満ちる虫の音が宵闇をいっそう深くする。しまった! ライト消してウロウロしてるうちに崖から落ちたんだ。慌ててスマホを探す。脇に落ちてたソレは当然のように圏外&LowBattで電源断……。ライト! ライトどこ? っていうか、
「コレどうやって帰ればいいの??」
登山道から巨石に至る道のりは控えめに言っても激藪。昼でも薄暗い山腹の樹林帯をこんな夜遅くに月明かりだけで突破するなんて無理ゲー。これって地味に詰んでいるのではなかろうか。こんな観光地の山の中でまさかの「遭難」ですか? いや、朝まで待てばきっと活路が開けるハズ、っていうかだいたいからして私迂闊過ぎてるヤツじゃんコレ……
「……どっから来んしゃった?」
暗闇から突然過ぎるヒトの声。え? ナンなの一体? とか思う間もなく足元の藪から作務衣姿の老人がのっそりと現れる。月明かりに彫り込まれた皺だらけの唇がふたたび動く。
「……ずいぶんと怪体な格好よのう」
……まぁ安全第一ってシールがデカデカと貼ってあるヘルメットに正藍冷染の手拭い、寅壱のレディース作業服にキャンベルのトレッキングシューズ4年落ちとかいう組み合わせに対しては至極真っ当なご意見よね。
「……奥州の、多賀城から来ました」
「ほー、それはまた随分と遠いところから……」
「えぇ……お爺さんこそ、どこからいらしたんですか?」
「ほれ、すぐ下の、あの社からじゃ」
お爺さんの指差す遥か彼方にぽつねんと明かりが見える。あんなトコにお社あったんだ。ぜんぜん気が付かなかった。
「……龍について聞いて回っているちゅうのはアンタか?」
あらあら、私も有名になったものね。確かにこの4年間、畿内のいろんなお社巡ってお話伺って来たけれど、先方からお出迎えいただくなんて初めてのパターンだわ。
「……なら、ついてきんしゃい」
「はい……」
崖下の藪の先には踏み分けが続いていた。下草が丁寧に刈りこまれた坂道を月明かりを頼りに20分ほど降りていくと拝殿の裏手らしきところへ出る。するとあの巨石が御神体ってコトなのかしら? 生駒山の神社も随分と回ったけれど、ぜんぜん知らなかったわこんなトコ。
「……アンタ、なしてあんなトコ入り込んだね?」
「……道に迷ってしまいまして」
なんて真っ赤過ぎる嘘で誤魔化す。
「……ま、そういうことにしておこうかの」
バレてますね。ええ。
社務所らしきこじんまりとした木造平屋建て。傘付きの裸電球に照らされた玄関の引き戸を開けるとお爺さんと同い年くらいのお婆さんが待っていた。
「ほれ、こんな娘が迷い込んでおったわい……」
「どうりで山が騒がしいわけですねぇ……」
「こんばんは。夜分遅くに申し訳ありません……」
「いえいえ、気になさらんと」
「こんな身なりじゃどんならん。着替えを出してやらにゃ」
「お風呂にもはいっていただきましょうねぇ」
「……ありがとう、ございます……」
社務所の奥の脱衣所で身につけたものを全部脱いで脇の籐の籠に仕舞う。重たい木の引き戸を開けてお風呂場へ入る。蛇口は青錆びがかった真鍮。壁は一面のタイル張り。湿気の染み通った板張りの天井。それらをぼんやりと照らす裸電球が鴨居に一つ。少しだけ開けられたガラス格子窓から夜の冷気がするりと入り込み、入れ替わりの湯気が暢気に立ち上ってゆく。汗と土と葉っぱを洗い流し、ヒト一人分の大きさの丸い湯船に浸かりながらゆっくり考える。コレはまた随分と遠いトコまで“落ち”ちゃったわね……。
お風呂からあがると浴衣が用意してあった。脱いだものは籐の籠ごと消えていた。なんだかとっても申し訳ない気持ちでいっぱいになる。板敷きの軋む廊下を歩いていくと襖が開いてお婆さんが顔を覗かせる。
「あ、服すみません!」
「気になさらんとぉ、こっち来んしゃい」
「はい……」
襖の向こうは居間になっていて畳敷きの上に置かれた丸いちゃぶ台には当たり前のようにご飯が並んでいる。
「……なんか、ホントに何から何まで」
「さ、おあがりやす」
「アラ見違うたわ、こりゃ別嬪さんだぁな」
「これアンタ……!」
せっかくなのでいただきまーす。The日本の晩ごはんって感じ(すみません育ちが悪くて語彙少なめなんですごめんなさい)の一汁三菜。こういうお食事久しぶり。普段女としていろいろとマズい食生活を展開しがちなので味覚の悦びっぷりが半端ない。
「ごちそうさまでした!!」
「はい、お草々さまでした」
当たり前のように食器を片付け始めたお婆さん。お爺さんは居間の隅の箪笥をゴソゴソし、やがて一枚の古びた文書を取り出して見せてくれる。
「アンタの探しとるもんはコレな?」
「コレは……」
「龍について書かれとる、そうじゃ。古すぎて儂にはようけわからんが……」
確かに古い。今まで見たこともないほど。でも読めないワケじゃない。文字を追いかけていけば書いたヒトの思考が流れ込んできてほぼ本能的に内容が立ち上がる。日本語ってホント素敵よね。……コレ私にとっては別に大したことではないのだけれど、考古学研究室の教授に言わせればとんでもない能力なのだそう。以上説明終わり。
「いろいろな龍について書かれていますね。海に棲む龍、山に棲む龍、そして……水を呑む龍?」
「水を呑む龍は稀にしか来んのだそうじゃ……先代が話しとったでようけ覚えちょる」
「海の龍は津波を、山の龍は蛇崩れを連れてくる、と。……で、この水を呑む龍さんは?」
「なんでも、ぎょうさん呑みよるらしい」
「ナニを呑むんですか?」
「淡海乃海の水を、呑むんじゃと」
一陣の風が吹き抜ける。
え? 今いいトコなのにもうおしまいなの??
「よろしゅうなぁ、多賀城の方……」
ちゃぶ台を挟んで座るお爺さんが遠くなる。台所でお皿を拭くお婆さんの背中も。容赦のない風が何もかも吹いて飛ばしてしまう。居間を照らしていた電灯の明かりまでもが吹き散らされる瞬間、私は絶叫していた。
「承りましたぁ!!」