02 転生者、出会う
1891(明治24)年6月末
ニコライが、ウラジオストクでシベリア鉄道着工を宣言を終えシベリア横断しての帰還の途にある頃、首都サンクトペテルブルクの宮殿で、ウイッテ大蔵大臣はアレクサンドル3世皇帝に謁見していた。
「皇帝陛下、お喜び下さい。ニコライ殿下の功績により、日本から有利な条件で借款(政府の長期融資)を引き出せたことで、(露仏同盟)交渉中のフランスから鉄道建設にかかる国債引き受けの内諾が得られました。この夏にもシベリア横断鉄道の建設を、東西から開始出来るようになります」
息子の手柄と聞き、父親のアレクサンドルは顔をほころばせる。
「つきましては、国家一大事業のシベリア横断鉄道建設を迅速かつ効率的に進めるために、資金の割当・支出、ルート選定、土地・木材等の収用、労働力の徴用等を管理し、全ての主要事項の決定権限を有する特別委員会を設置してはいかがでしょうか?」
「当然、その特別委員会──シベリア鉄道委員会──の議長には、今回の件で功績大なるニコライ皇太子以外はありえないと愚考致します」
ウイッテの献策に、アレクサンドルは息子にその任を果たせるかしばし悩む。
「……今回の旅で、ニコライも後継者としての自覚がそれなりに出来たと思える……よろしい──委員会の設置とニコライの議長任命を許可しよう」
その布告は直ちに公表され、ウイッテの精力的な根回しにより、シベリア鉄道委員会のメンバーには、政府の重要人物のほぼ総てが網羅される形で決まる。
そして、シベリア踏破中のニコライは、シベリア鉄道の西の出発地となるチャリャビンスクで、鉄道起工式に急遽臨席することになった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
8月半ば、首都に戻ったニコライは、様々な公務や軍部の支持を得ることに積極的に励み、史実と違って次期皇帝として必要な知識と経験を学びだすとともに、側近となる優秀な人材発掘に努めた。後に、このことが早過ぎるアレクサンドル3世皇帝の死去により、皇帝となる若いニコライを大いに助けることになる。
農民がほとんどを占めるロシアにおいて、農作物の出来不出来は非常に重要な問題であった。特に、前年が不作による穀物の不足している中、今年の春・夏に続いた旱魃の影響で、秋には穀倉地帯(中部ロシア、ヴォルガ川流域)で深刻な凶作に見舞われ、各地から飢饉が報告されるようになった。
そもそもロシアでは、気候的に作物の栽培できる期間が短く、施肥の実施も少ないので作物の生産性は低く──主食のライ麦や小麦は、1粒をまいて平均3~ 4粒を収穫する中世並の水準──、天候不順があれば飢餓に陥りやすい。
また、近年、農村の人口が急増(毎年100万人以上)しており、欧州部では農地不足が深刻な問題となっており、国がシベリアへの植民のためにも鉄道建設に踏み切った背景にある。
起こるべくして起こった飢餓に、国が先ず行なったことは、新聞が飢饉を報じることを禁止することであり、飢饉救済特別対策委員を設置して本格的に対策に乗り出したのは、飢餓が深刻化した11月になってからであった。
「ニコライ、お前を飢饉救済特別対策委員の委員長に任命する」
アレクサンドル3世皇帝の勅令に、ニコライ皇太子は就任を受諾する。
「パパ……今回の飢餓対策で、過去に準じて外貨獲得用の穀物輸出禁止と外国から穀物を輸入するけど、飢餓解消するだけの食糧を配給するのは無理だから、対象を制限したいんだけど、かまわないかな?」
「どんな制限をするつもりだ、ニコライ?」
「シベリア鉄道建設に参加する農民へ優先的に食糧を配給してはどうかと思うんだ……鉄道建設の労働力が不足しているから、体力のありそうな農民を使いたいんだよ……お腹のすいた農民達なら、目の前に食べ物をぶら下げられれば、大人しく建設地へ誘うことが出来るし」
「……成るほど……しかし、遠くまで連れて行かねばならぬぞ」
「体力のないのは途中で脱落するから、丁度良い口減らしにもなるよ……農民達も座して死ぬよりも、その身をシベリア鉄道という祖国の大儀に捧げてもらうべきだよ」
(……皇帝の資質として欠かせない冷徹な判断力──予想以上に、息子は成長しているようだ)
アレクサンドルは、内心の喜びを顔に出すことなく、ニコライの考えに賛成を示す。
1891年から翌年にかけて続いたロシアでの飢餓及びコレラの蔓延により、約3000万以上の人々──その多くは農民──が被害に遭い40万以上が死亡することになる。その大半は、僅かながらの食糧と引換えに、シベリア鉄道建設に命を捧げた者達であった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
話を日本に転じる。
大津事件という国中を騒がす出来事に続き、国内では10月28日に岐阜県で発生した濃尾地震により、7000人を超える死者と14万棟を超える家屋全壊等、非常に広い範囲で甚大な被害が生じた。
11月末に招集された第二回帝国議会では、濃尾地震被災の救済金(100万円強)の案件に加え、政府がロシアに約束したシベリア鉄道建設にかかる借款(本年・次年分の800万円)案件も審議にかけられることになった。
議会は、板垣退助率いる自由党と大隈重信率いる改進党が連合して、ロシア側に有利過ぎる借款を約束した藩閥松方内閣の責任を厳しく追求したため、予算審議は大いに紛糾することになった。
結局、借款問題が致命傷となって、松方内閣は責任を取って総辞職し衆議院解散選挙を行なうことになり、シベリア鉄道建設の借款案件は認められた。
その皺寄せとして、前年度予算案で国家予算の三割以上を占めていた軍事費は、少なくない予算削減を受けることになった。
この結果、特に影響の大きかった海軍では、軍艦建造計画は二隻が一隻へ減らされ、英国アームストロング社製12センチ速射砲への交換を見送ることになってしまう。当初、二隻の軍艦建造計画は先伸ばしすべしという意見が強かったが、夏に日本を親善訪問した清国海軍6隻の大艦隊(北洋艦隊)と、自国海軍の戦備差に危機感を抱いた議員の説得で何とか一隻分認められた。
陸軍では、フランスで発明されたばかりのりゅう散弾──散弾の破裂により人馬を殺傷するもの──の採用が見送られ、輜重(兵站)輸送用の運搬車予算が削られることになった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
1892(明治25)年5月
京都御所の南西にある下立売御門の内側、京極宮邸近くにある桜の大木は、青々として葉の陰を古びた蔵の白壁に落としていた。
「さっさと中へ入れ!」
背中を乱暴に突き飛ばされたナルヒコが、古い箱等が積み上げられた床に転がると、男の使用人が古びた蔵の扉をギッギギと音を立てながら閉め、鍵をかけてしまう。
「……クソガキが犯人なのに、こちらの言い分は全く聞かず……罰と称して蔵に子供を閉じ込めるなんて、前世の人権に煩い世なら、児童虐待で児童相談所へ通報ものだぞ──クソババめ!」
そう罵りながらナルヒコは、真っ暗な闇の中、床から起き上がり、閉じた扉に背を預け、膝を抱えた体育館座りの姿勢をとる。
「……ここに閉じ込められるのは何回目だろうか? 暗い所に閉じ込めて子供を怖がらせ反省させようなんて──前世の鉱山で穴蔵生活に馴れている僕には意味のないお仕置きだけど……」
春に岩倉村の里家から、京都市内にある実家の京極宮邸に帰って来たナルヒコであったが、暖かく迎えられる所か、ちょっとしたことで叱責され、度々罰として食事抜きや暗い蔵に閉じ込められた。
何故、ナルヒコがこのような目に遭っているのか。
ナルヒコを生んだ母親は、既に京極宮邸を追い出されており、この邸内でナルヒコを庇うものは誰もいないからである。
ナルヒコの父親である朝仁親王は、正妻を持たずに幾人もの女房(内縁の妻のようなもの)を抱えていたが、ナルヒコが生まれる頃は特に丸畑女房を寵愛していた。ナルヒコが一か月早く生まれたにも関わらず、後から丸畑女房が生んだ子供を兄にする程に……。
そんな朝仁親王も一年前にこの世を去り、病弱な長男にかわり家督を継いだ次男は、明治天皇の命令で東京邸へほとんどの親族と一緒に引っ越してしまっていた。
このため京都邸には、病弱故に部屋住みの長男の徳彦王、ナルヒコと同い年の”兄”である鷹彦王とその母親の丸畑女房しか親族は残っていなかった。
当主なき京都邸では、朝仁親王の寵愛を受けていた丸畑女房が邸内の一切を取り仕切っており、使用人達は病弱な徳彦王ではなく、彼女を主と認識して従っていた。
鷹彦王を溺愛する丸畑女房にとって、息子よりも評価(ロシア皇太子を助けた英雄と賞賛)されているナルヒコは、目の上のたんこぶであり、理由・原因のいかんに関わらず彼を罰するのであった。 当然、そんな母親の態度を近くで見ている息子の鷹彦王は、ナルヒコに対して邪魔やいじめといった行動に出ることしばしばであった。また、それらを使用人が目撃しても、誰一人としてナルヒコを助けたり、庇いもしなかった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
闇に目が馴れたナルヒコは、蔵の中に明かりを得ようと、馴れた動作で積み重ねられた箱を登り、クソ重い窓を外に向って開け、外の景色をぼんやり眺めて過ごしていた。
グ~ッと腹の虫が鳴る。
「腹減ったなぁ……天むす(おにぎり)食いたい……」
箱の縁に腰掛けていたナルヒコは、胃の当たりを片手で押さえ、腹の虫を黙らせる。
「夕食抜きで、明日の朝まで蔵に閉じ込めつもりだろうか、あるクソババめ」
怒ると空腹感が増したので、ナルヒコは箱の上で仰向けに寝る。
「でも──同じ空腹でも、あのクソババアの罰で、こちらは一食も与えられず、他の兄弟らが美味しそうに食事を食べる様を見せつけられるよりはましだな……」
ゴキっと、どこかで異音が鳴る。
「うわ!」
ナルヒコが、寝ていた箱の山が崩れ出す。
ドッ! ドドド! ドーン!
「……いたたたた」
ナルヒコは、箱に身体をぶつけながら床まで転げ落ちたが、奇跡的に骨折などの大怪我を負うことはなく、多少の擦り傷・打撲で済んだ。
窓から射しこむ赤い光が、乱雑に転がる箱の間に、ぽっかり空いた床に扉らしき存在を照らし出した。
「床下収納庫の入り口か?」
ナルヒコは、お宝があるのではないかと思い、床の扉を開けてみることにした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「小さな石棺かな?」
ナルヒコは、床下の空間に安置されている三十cm程の石棺らしきものの蓋を開けると、中央に直径ピンポン玉程で銀色の丸い出っ張りがある、黒い三角板状のものが敷布の上に載っていた。
「何だこれは?」
疑問顔のナルヒコは、その三角板状──高さ約20cm程、底辺約8cm、厚さ約1cm──のものを手に取り、光に照らして観察したり、重さを量ったり、叩いたり捻ったり、蔵の中にある様々な物とこすりあわせたり等して、色々と検証してみた。
「……裂けたような断面痕跡から見て、人工物の可能性が高いけど……光沢と感触は金属みたいなのに、重さはプラスチック並に軽い……強い衝撃や捩じれを与えても、折れたり割れたりすることも罅も入ることもない……鉄のでっぱりでこすっても傷一つつかないぐらい硬い……」
「こんな材料が明治以前にあったなんて、前世知識全て引っくり返しても噂一つ聞いたこともないぞ……場違いな存在──オーパーツか?」
眉間に皺を寄せてムムムと悩むナルヒコは、オーパーツらしき三角板を手の中で弄んでいると、閃きが彼の脳裏を走る。
「!! ──この材料なら、究極の飛行船が出来るかもしれない! デブでノロマな飛行船というマイナスイメージを払拭し、飛行機と競争できる飛行船を作れるかもしれないぞ!」
飛行船好きなナルヒコは、三角板を両手で頭の上に掲げ、興奮の余り踊り出す。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
船が水に浮かぶのは、船体が排除した水の体積と等しい重量が浮力となる物理現象であり、飛行船も同じく、水の代りに空気を排除した体積と等しい重量が浮力となる。
空気を排除する、即ち飛行船の内部を真空状態に出来れば、理論的には最も効率的に浮力を得ることが可能で、危険な水素や高価なヘリウムもいらい究極の飛行船が誕生する。
残念ながら、真空の中空体を実現できる材料──潰れようとする真空の大きな力に負けない、軽くて強い素材──がないために、究極の飛行船は夢物語とナルヒコは思っていた。
それが叶うかもしれない材料に出会った、ナルヒコの爆発した喜びは計り知れないものであった。
<……思念波ヲ確認……起動ヲ開始……>
興奮覚めやらぬナルヒコが、キラキラした目で両手で頭の上に掲げた三角板を見つめていると、丸い出っ張りが雨垂れように変形し、銀色の滴が彼の右目に落ち──角膜をスルリと透過して行く。
「!!」
本来なら反射的に閉じられる瞼が、何故かピクリとも動かない。それ所か、身体も声もナルヒコの意に反して全く反応しなくなってしまった。
人間置物になったナルヒコの脳内を、何か冷たい存在が走り回り、続いて前世を含む記憶が刹那の速さでスライドショーされる時間が延々と続く。
<……解析完了……覚醒ヲ刺激……>
立った姿勢で、気絶していたナルヒコの意識が強制的に覚醒され、心地よい中性的な声が、彼の頭中に直接響く。
(こんにちわ、異星の少年……)
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
異星の知性体──ナノマシンの群体──K(ナルヒコが命名)との出会いから数日が過ぎた。
午後、ナルヒコは、御所の直ぐ北を流れる鴨川の川縁──一般人の通行が禁止区域──で、ハンマー片手に鉱石探しをしていた。
カーン!
「おっ! スパッと綺麗に割れた──流石はK謹製ロック・ハンマーだな」
(私が作ったのだから当然よ──問題があるとすれば、それは貴方のイメージ構造の甘さね)
Kからの念話にナルヒコは苦笑し、同じくK作のルーペで石の断面を観察する。
実家でハブられ道具を用意できないナルヒコは、趣味の鉱石採集が出来ずにいたが、彼の脳内にある鉱石採集道具のイメージを元に、Kが地面を透過して回収した元素から道具を作ってくれたのである。
「あ~残念、外れのマンガン鉱か……隣の丹波はマンガンの日本三大産地だからなぁ」
前世で鉱山探査技師であったナルヒコは、この地のありふれた鉱物に興味を失い、手にしていた石を傍らに投げ捨てる。
(ねえ、どうして、こんな非効率な鉱石採集なんてするの? 私が川の端から端まで一気に透過した方が、必要な資源回収なんて直ぐ終わるのに?)
「趣味だからね──それに、直ぐにお宝の有無が判ってしまったら楽しむ時間が短くなってしまうじゃないか」
(理解不能だわ──地球人は、活動限界が百年に満たないのに、時間を無駄にするのが楽しいって、おかしな存在ね)
ハル・クレメント著「20億の針」に登場する、人と共生するゼリー状の異星人と似たように、機械知性体に近いKも一時的にナルヒコの身体に宿って、この世界の情報を収集しているのである。
「まあ、人間は感情に支配された非効率の塊だからね」
そう言ってナルヒコが、足元から拾い上げた石を割ってみる。
「おっ! 白い石英の中に、やや褐色の独特な光沢を放っ八面体の結晶──灰重石(タングステン酸塩鉱物の一種)だ!」
ナルヒコは、5cm程もある塊状の石を手に持ち、久々の当たりに顔をほころばす。
「K、後で紫外線ライトを作ってくれないか。数年ぶりに、闇の中で青白く発光する綺麗な星が見たいんだ」
灰重石を眺めてうっとりしているナルヒコに、Kの警告が頭の中で響くと同時に彼は身体を横にずらすと、身体のあった所を小石が飛んで行き、バシャという音と共に川面に水飛沫を上げる。
ナルヒコが振り返ると、にやついた顔の同い年の異母兄、鷹彦王が立っており、手の中の石を軽く浮かせて見せつけ、再度投げる動作に入る。
舌打ちしたナルヒコは、川面から頭を出している岩や石を足場にして、ピョンピョンと逃げ出すも、鷹彦王は嬉々として、そんなナルヒコを狙って投石を繰り返す。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
邸の丸畑女房の部屋では、男の使用人二人が両方から、ナルヒコの肩と腕を背中で拘束して跪かせ、高級そうな着物の中年女(丸畑女房)の前に突き出されていた。その傍らには、濡れた洋服を着替えた息子の鷹彦王が、ザマーミロな顔をして立っていた。
パーン!
丸畑女房は、般若のように怒った顔をして、ナルヒコの左頬を鋭く平手打ちする。
「私の大切な鷹彦王を危険な川に連れ出した上に、川に突き落とすなんて──何て恐ろしい子なの!」
(勝手に後をストーキングして来たのはお前の息子──川に落ちたのは、どんくさいお前の息子の自爆だろ)
左頬が赤いナルヒコは、口を真一文字に閉じ、こちらの言い分を聞かぬ相手に内心で反論する。
「末席とは言え、仮にも高貴なる皇族に連なる者が、下々の民のように川で石拾いとは──警備の者から話を聞いて、この邸を預かる私は恥ずかしさで卒倒してしまいました!」
(ハハハハ、してやったりだな!)
ナルヒコは、内心の喜びから口の端を無意識に上げ、それに気づき馬鹿にされたと感じた丸畑女房は再び手を振り上げる。
次の行動を察したナルヒコは、身体を動かして避けようとするも、後ろでがっちり拘束している使用人達に阻止されてしまう。
バシーン! バシーン!
「たまたまロシアの皇太子を助け、下々の民から持て栄されて図に乗っているようですね……」
バシーン! バシーン!
「これは、京極宮家の者に相応しくなるようにと、矯正するために必要な躾けですわ」
目に嗜虐な色を浮かべた丸畑女房が、おためごかしを言って更に往復ビンタを重ねる。
両頬を赤く腫れ上がらせたナルヒコを見て、溜飲を下げた丸畑女房は落ち着きを取り戻す。
「所詮は、卑しき薬屋の血筋だからでしょうね……あの人(朝仁親王)が生きておられたら、このような愚か者など、直ぐに宮家から家門跡寺院へ追い出したものを……」
「私の可愛い鷹彦王が溺れたかもしれない──そう思うと、この胸の張り裂けそうな痛いを鎮めるには、蔵に押し込める罰などでは駄目ね……貴方達、どうしたら良いと思います?」
丸畑女房は、ナルヒコを拘束している男の使用人二人に訊ねる。
「……長持(長方形で大きな箱)の中に押し込めるのはいかがでしょうか? 身動きができない苦痛をたっぷりと味わえば、反省して大人しくなるのではないでしょうか?」
「まあー、それはいいですわね」
髭を生やした男の使用人の言葉に、丸畑女房は両手を合わせて喜ぶ。
「長持の中で騒いで煩くなるのも困りますから、その者の部屋で反省させなさい」
男の使用人二人は、主にうやうやしく頭を下げ、ナルヒコを引きずって部屋を出て行った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……鍵までかけられているから、自力で脱出は不可能……頼みの綱であるKが、目覚めるまで耐えるしかないか……」
ナルヒコにとって、暗いのは前世の仕事柄平気であったが、時計もなく正確な時間が不明である以上、頭の中で数のカウントを繰り返してKの目覚めの時を待つ。
「……K、目覚めたか? ……駄目か……」
落胆したナルヒコは、額ににじむ汗を拭く。
「不味いな……狭いから身体から出た熱が籠もり始めたぞ……坑道なら数日閉じ込められても平気だけど、温度があがると体力消耗が加速するからヤバイぞ……長持の中で死ぬなんて最悪だ」
ナルヒコの心に焦燥感がじわりと生まれる。
「……スウー……ハアー……」
熱で意識が朦朧になって来たナルヒコは、既に時間感覚を失っていた。服は汗でびっしょりにした彼は、長持の蓋の隙間に口を近づけて、ゆっくりと深い呼吸を繰り返していた。
「……」
ナルヒコは、ほとんど呼吸をしなくなり、身動きもしなくなっており、既に仮死状態の彼は、Kの助けが間に合わなければ、真の死に至ることになる。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
蝋燭の灯一つもない暗い場所で、少年が床に横たわっていた。
「……あの世か? 死んでも(背中が)痛いなんて、嫌な所だな」
(いいえ、痛いのは貴方が生きている証拠よ──頬をはじめ生体の損傷箇所は既に”修理”済みよ)
「K?! ありがとう助かったよ」
(どういたしまして──と言いたい所ですが、残念ながら貴方の脳神経細胞損傷前に助けられず、記憶に欠損が生じています。なお、前世記憶の方は世界記憶次元との接続切断は回避されました)
「……不幸中の幸いか……今は何時?」
(3時30分です)
「夜中か……所で、背中が痛いのだけど?」
(床で寝ていたからですわ)
「出来れば床に毛布を作って欲しかった」
(前世では地面の上で寝るなん平気でしたし、鍛える良い機会だと判断しました)
「ううう……子供のうちからベットで寝れない生活なんか嫌だ」
(貴方の前世記憶に素敵な言葉があるわ──贅沢は敵よ!)
「そんな~っ」
情けない声を上げるナルヒコであった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
(さて、これからどうしますか? 後20分で私は眠りますわよ)
「……今回助かったのは、奇跡としかいいようがない。このまま実家にいたら、再びいじめと虐待の末に殺されるだろうね」
「子供の僕では、あのクソババア共の虐待を訴えても、口裏合わせた大人達の証言の方が信用されてしまう……東京邸の親族も信用できない以上、今は出来るだけ早く実家と距離をとるために家出するのが最良だね」
「今から実行するとしても、門の警備にみとがれずに外に出るのは無理だから、塀を乗り越える階段をKに作ってもらうか」
「問題は、家出が成功しても、子供一人では警官の家出人探しで発見され、実家に連れ戻されかねない……」
少し考え込んだナルヒコは、面白いアイデアを思いつく。
「K、こういうのを作れないかな?」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……ふむ。威厳を出すため髭があった方が良かったかな?」
蝋燭の灯を置いた洗面台の前で、男が腰をかがめて鏡に映る己の顔を覗き込み、顎を撫でながら感想を漏らす。
男が鏡から顔を離して背筋を伸ばす。この時代の平均的な日本人の背丈の彼であったが、その頭は身体に似合わぬ小ささで、ナルヒコそっくりの顔をしていた。
「実現したKの異星技術も素晴らしいけど──ケ●ロ軍曹の変身スーツで大人に化けて脱出(家出)とは、我ながら実に冴えたアイデアだな」
「家出人探しの警官らは子供に注視しているから、大人の姿になった僕に気がつくはずがない──正に完璧な家出計画だな」
自画自賛なナルヒコ(大人)が、カラカラと声を出さずに笑う。
「そう言えば、時間は大丈夫か?」
ナルヒコ(大人)は、仕立ての良い黒い背広の上着ポケットから黒い懐中時計──蔵より持ち出した三角板状のオーパーツでKが作り替えたもの──を取り出して、時間を確認する。
「残り時間は後30秒弱──K、ミスったか?」
(失礼ね! 私がミスする訳ないでしょ!)
天井から垂れ下がった銀色の糸が、ナルヒコ(大人)の頬をツンツンして、スーッと頬を透過して消える。
(お願いされた通りに処置しておいたわよ──じゃ、おやすみ)
「ありがとう、K──おやすみ」
優しく声をかけたナルヒコ(大人)であったが、柔和な表情は直ぐに霧散し、厳しい横顔で部屋の端まで歩き、窓を開けて部屋の外へ出て行く。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
星明りしかない闇の中、御所の高い築地塀の屋根瓦の上で、ナルヒコ(大人)が身体をかがめていた。
(五mを超える塀を簡単に乗り越えることが出来る性能といい──この変身スーツのパワーアシスト性能は、目を見張るものがあるな)
ナルヒコ(大人)は、星明りでうっすらと浮かび上がる京極宮邸に顔を向ける。
(クソババ共、目を覚ましたら驚くだろうな……Kが毛母細胞を消去したので、頭の髪がごっそり抜ける体験をするんだから。フッフフフフ)
(今回、Kがいなければ僕を死んでいた。あの部屋にいた四人には己の命で償わせたいけど、僕が犯人だと宣伝するようなもの。だから今回は命を取らないものの、罰として濁った両目──Kに水晶体を混濁させ白内障発症──で一生、己の不幸を呪うがいい)
悪人顔したナルヒコは、一頻り声のない哄笑を上げた後、塀から烏丸通りの道に飛び下りた。