蠅
「ただいま~」
いつもとは違い、誰もいない玄関。
鍵をかけた後、持っていた通学鞄を放り投げ、手を洗い、自室に向かう。
夜には眩しすぎる蛍光灯を灯し、彼は、さて今日はどんなことがあったかなと振り返る。
すると、
「ぷーん」
ヤツがいた。蠅だ。
こいつはいかん、と彼は持っていた教科書で蠅を叩こうとするが、見事に避ける。
また叩く、しかし避ける。
またまた叩く、しかしまたまた避ける。
10回ほど繰り返した挙げ句、教科書がへたれてしまったので、彼は諦めることにした。
それを良いことに、蠅は彼に嫌がらせを始めた。
やれ、勉強でもしようと筆箱を空けると耳を掠めて、ぷーん、と啼き、
いざ、ご飯を食べようと手を合わせると、ぷーんと目の前を通り、食欲を失せさせる。
彼にとって、その蠅は正に害悪以外の何物でもなかった。
「うざい!はよ死ねや!」
どこにいるか分からないが彼は何度もその蠅に叫ぶ。
無論、あの低脳では理解できないだろうし、彼も頭では理解できているんだが、どうも苛立ちが彼をそうさせるのだ。
しばらくすると、蠅が現れる。
そしてまた、彼の目の前を通り過ぎる。
「これならどうだ!ほら!死ねぇ!」
よくある、蝿たたきと言うやつを持って、彼は蠅を何度も叩く。
しかし、またまたまた蠅は避けてしまう。
「あー!クソが!」
またしばらくすると、蠅が現れる。
今度は彼がとある本を読んでいるときだった。
「あー、また来たのかよ、ちっ」
彼はさっきまで読んでいた本を閉じ、蠅に叩きつける。
また失敗する。
「もう、消えてくれよ全く。」
彼は本を読み始める。
すると、蠅が本の近くにやってくる。
「引っかかったな!」
彼はその本をバタンと閉じた。
しめしめ、と悪い笑顔を浮かべて、彼は閉じていたページを開く。
しかし、そこには蠅の後はなかった。
また、逃げられたのだ。
「蠅 殺す方法……っと」
あんまりに殺せないので、ついに彼は、携帯電話での検索機能を使うことにした。
すると、満を持してか何かか
「ぷーん」
またヤツが現れた。
丁度その時、wi-fiが繋がらず、検索結果が出てこないときに現れたので、苛立ちが頂点に達するのにそう時間は掛からなかった。
「あーもー!早く消えろよ!」
すると、どうだろうか、ヤツは彼の携帯画面の上にピタッ、と止まったまま動かないではないか。
「……なんだよ。」
その蠅はじっと彼を見つめる。
そのまま検索結果も出ず、蠅もずっと止まり、そして彼を見つめ続ける。
彼も動くに動けなかった。
何故かは分からない。
あの低脳が暗に、殺さないで、なんて都合の良いことを思ったのかは分からない。
無論、彼があの低脳に感情移入したわけでは無い。
しかし、その蠅が複眼で向ける汚い視線は、少なくとも彼から殺意を削り取ったのだろう。
「あー!ったく、喉渇いたわ、なんか買いに行こ。」
暫くの沈黙の後、白々しい声を発して、彼は携帯の電源を落とし、そっと机の上に置き直した。
蠅は机の上に乗った、その携帯の画面から彼と少々の間を置いて飛び立ち、彼が玄関を開けたその瞬間に
「ぷーん」
と、飛び立っていった。