2.喪心の森
喪心の森は、ヴェイン村にあった。城から出て、東に数刻進んだところである。馬を走らせても、ラウルが着いた頃には、日差しはずいぶんと弱くなっていた。
ラウルは、村の前で一度止まった。村を囲む柵には、先端を尖らせた太い棒が外を向いている。小さいながら堀もあった。荷車が通れるほどの跳ね橋は、下りたままになっている。
ラウルは馬を下り、手綱を持って歩き回った。堀を覗きこんだり、剣を鞘ごと抜いて、棒を下からつついたりする。
「ラウル様?」
跳ね橋を支えているやぐらの向こうから、顔が覗いた。丸い鼻が愛嬌のある若者だ。
「ラウル様じゃないですか」
「久しぶり」
ラウルは微笑みながら、剣を帯に戻した。
「みんな、元気かな」
「おかげさまで」
「備えも怠っていないようだね」
「バランシェ家からの厳しいお達しがありますから」
誇らしげに胸を張る若者に、ラウルは苦笑した。
この村は水が豊かで、土地も肥えている。収穫時、畑はもちろん村そのものも賊に狙われた。そのため、村人達は、時の領主とともに堀を造り、柵で囲って村を守った。その時の領主というのが、バランシェ家なのだ。
ラウルは馬を引いて、跳ね橋を渡る。
「新しい領主様とは、うまくやれているんだろうね?」
「ええと」
若者が、急にひるむ。
「村長が、それなりに……」
「分かった」
ラウルは、若者の前に立った。慌てて膝を折ろうとする若者を、手で押しとどめる。
「今日は、公爵閣下の命令できたんだ。昨日、いらっしゃっただろう?」
「あ、はい。俺は見てませんけど」
若者の視線が、急に落ち着きなく揺れる。
「最近、雨が降ったりやんだりしているんで、水の具合を見に……いらっしゃったって……」
「遠乗りしたい時、閣下は大体そう言う」
笑ったままラウルは言ったが、若者の目は泳いだままだ。
「その時、三人の騎士が従っていたと思うんだが。ジョルジュもいただろう? 今のご領主の息子さんだ」
「さあ、そこまでは……」
ラウルは、ふと真顔になり、若者に手綱を差し出した。
「馬を預かっておいて欲しい。喪心の森に行く」
「え」
若者が目を剥いた。
「あそこは、精霊の庭だ。馬が驚かされると危険だ」
「知ってます……人間も、普通は入れませんけど……」
手綱を受け取りながら、若者がもごもごと呟いている。
「今、あそこに誰か住んでいるのかい?」
何気ないラウルの問いに、若者が棒立ちになった。
「閣下が見かけたと言っていたけれど」
「いえ、その……」
「若い、というより幼い少年のようだから、親はどうしたのかと心配していた」
「それは、俺達も気にして……あ」
口を押さえた若者に、ラウルは柔らかく微笑した。
「聴かなかったことにするから」
「はい、あの……」
歩き出したラウルに従いながら、若者は小声で語り出した。
「ちょっと前でしたけど、森がいやに静かだって話になって」
「静か?」
ラウルは眉をひそめた。その頃には、他の村人達もラウルに気付き始めている。
「はい」
杖を突いて近づいてくる老人を気にしながら、若者は続ける。
「森の近くに行った奴らが、いつもならまじないをしないと耳鳴りがするのに、全然しなかったとか、夜には、よく変な叫び声がしていたのに、それもなくなっていたり。ムリエルのおばば様に窺おうかと思っていた矢先に、あいつが」
「バランシェ様」
老人がラウルの前に膝を突き、若者は口を噤んだ。
「お久しゅうございます」
「村長」
ラウルは、屈んで老人の手を取り、立ち上がらせた。
「元気そうで何よりだ。あいにくと、ゆっくりはしていられないが」
「森のことでございましょうか」
ラウルは眉を動かした。馬の隣で、若者が顔を引きつらせて直立している。
「あそこに住み着いた人物について、何か知っていることは?」
「まだ若い男子でございます。バランシェ様より、いくつか若いかと」
老人は、長い眉毛に埋もれそうな瞼を押し上げた。
「精霊と語り合うことが出来るようでございます」
「……そうか」
「しかし、世のことには疎いようでした」
老人の声が、神妙に低くなる。
「森で獲った兎と、麦や服を交換して欲しいと言ってきましたよ」
「森で狩りを?」
ラウルの声が大きくなり、後ろで若者が身震いした。
「あの森は、まだムリエル領だ。ムリエルの森や川で、許可なく狩りをすることは禁じられている」
「と、儂も常々言っておったのですが」
老人が、嘆息混じりに若者を睨みすえた。若者が、きゅっと身体を縮める。
「……いい毛皮だったんだよ……」
「儂の監督不行届でもあります。申し訳ありません」
「いや、私ではなくて、タルボット殿に言ってくれ」
老人が、勢いよく鼻息を噴き出した。
「ムリエル領での出来事なので、巫女様へお知らせいたしました」
「おばば様に……なるほど」
ラウルは、こめかみを掻く。
「閣下の遠乗りの理由は、それか。ムリエルのおばば様から、閣下にお知らせしたのだろう」
「そのようで」
「私に言って下されば……いや、ここはもう、タルボット殿の領地だしな。ご子息のジョルジュをお連れしたのも、タルボット殿に気を遣われたのだろう」
若者も老人も、物言いたげにラウルを見つめる。当のラウルは、口に手を当てて考え込んでいた。
やがて、ラウルは顔を上げた。
「ジョルジュと、他にふたりの騎士も閣下に従っていたはずなんだが、三人の姿を見た者は?」
「おうま」
いつの間にか、ラウルを中心に人の輪が出来ていた。その中から、母親に抱かれた子どもが声を上げた。
「おうまが、走ってたよ」
ラウルは、子どもに向けた目を細めた。幾分、声音を和らげる。
「どこで見たんだ?」
「森の方」
子どもが指さしたのは、ラウル達が入ってきた柵とは正反対の方角だった。家々の屋根の向こう側に、ちらほらとこずえが見える。
柵も堀も、村の後方で途切れていた。そこから先は喪心の森、精霊の領分だった。
さらにその向こうには、山が峰を連ねていた。コーンディル唯一の山岳地帯であるクリオ山脈は、隣国との国境でもあり、天然の防壁でもあった。淡い色の空よりもやや濃い青に彩られたいただきには、わずかだが雪が残っている。山を越えてやって来る山賊などもいたが、大抵が森で姿を消す。稀に生きていても、正気を失っていた。
「おしろの方へ、走っていった」
「誰も乗っていなかった?」
「ううん。おうまだけ」
一瞬、ラウルの目に、陰がよぎる。それを振り払うように、ぐいと顔を上げた。
「森へ入る。万が一、私が戻らなかったら、閣下に報せてくれ」
「今から、森に行きなさるので?」
老人が、賛成しかねるといったふうに首を捻る。
「じきに、日が暮れますぞ」
「精霊が静かなら、昼でも夜でもただの森だ」
ラウルは肩を竦めた。
森の中は明るかった。
陽光が足りないのか、コーンディルの森はたいてい、樹木が細い。代わりのように、下生えがうっそうとしている。忍び寄る夕暮れに少しずつ色を変えながら、風に揺れる草は若々しい緑に光っている。
ラウルは一度立ち止まり、耳をすませるような仕草をした。次いで、ゆっくりと辺りを見回す。首を回して左右を確認した後、手をかざしてこずえに目を向ける。軽い羽ばたきとともに、小鳥が飛んでいった。
ラウルは俯き、唇を噛みしめた。
「……静か、だな……」
ふ、と息を吐き、ラウルは再び歩き出した。足取りに迷いはない。
しばらく歩くと、少しひらけた場所に出た。偶然なのか、そこだけ丸く切り取られたかのように木が生えていない。代わりに、青や紫の小花が、寄り添うように固まって咲いている。花に惹かれたように、ラウルはそこへ足を踏み入れた。
青い花の前に跪いたラウルは、そっと指先で花弁に触れる。次の瞬間、痛みを堪えるようにきつく目を閉じた。
突然、一陣の風が、ラウルの髪を巻き上げる。
ラウルは髪を押さえ、風をやり過ごした。しばらく、周囲を窺うように蹲っていたが、ゆっくりと身を起こす。軽く、髪や服の埃を払い、前に目を向けた。
矢尻が、ラウルを見ていた。
ラウルは動かない。自らに向けられた矢と、それをつがえる人物に向けて、力むことなく立っている。
相手も動かない。年の頃はラウルと同じ、二十歳前後であろう少年だった。矢をつがえ、まっすぐラウルの眉間を狙ったまま、微動だにしない。
頬骨が高く、頬が少しこけているように見えた。大きな目が光っている。黒い髪は、埃をかぶり、艶も消えかかっていた。ヴェイン村の若者が身につけていたようなチュニックを着ていたが、大きさが合わないようだ。分厚く袖をまくり、丈は不自然に長い。
わずかな静寂の後、相手が矢を放った。
ずいぶんと左に逸れた矢は、一群の小花の中に突き立った。甲高い鳴き声とともに、兎が飛び上がる。
少年は前進を始めた。ラウルは目だけでその動きを追う。
少年は、まるでラウルがいないかのように通り抜けて、兎を持ち上げる。その間に身体ごと向きを変えたラウルは、兎をぶら下げた少年とまともに目があった。ラウルは微笑む。
「こんにちは」
少年は、びっくりしたように目を開いた。
「私は、アレキサンドル公爵が配下のラウル・バランシェという」
大きな目が、ぱちぱちと瞬く。少年が面食らっている隙に、ラウルは畳みかけた。
「人を捜しているんだが、知らないか? 騎士が三人、ここに来たはずなんだが」
「……さあ」
目を合わせない少年の声は、不自然に低い。
「彼らが付き従っていた、立派な身なりの男性が、腕に矢傷を負われた。君の仕業か?」
「昨日のことだろ?」
ラウルは、わずかに眉をひそめた。
幾ばくか言葉を交わす間に、少年は落ち着いてきたようだ。口元が、微妙に歪んでいる。笑っているのなら、ずいぶんと人を食った笑みだ。顔は心持ち俯き、自分の影を見ているようだった。
「俺、頭が悪いから、思い出すのに時間がかかるんだ」
おもむろに、少年は兎を持ち上げた。
「これ、一緒に食わねえ? 晩までには、思い出すかも」
「この森で、狩りは禁止されている」
「これは食ってもいいだろ?」
少年は意に介したふうもなく、兎を手放す様子もなかった。
「死んだものは仕方がない。食ってやった方が親切だ」
「死んだんじゃない。君が殺したんだ」
「どうせ、いつかは死ぬんだよ」
少年が笑った。
「俺も、あんたも、いつか死ぬ。何なら、今、死ぬか?」
大きな目に、殺意が煮えたぎっている。そう錯覚させるほど、物騒な笑い方だった。むき出した歯が、今にもラウルの喉笛に食らいつきそうだった。
ラウルの手が、柄にかかる。少年はそれを見て、フン、と鼻で笑った。その腰のあたりで、ガチャリと、金属が触れあう音がした。
ラウルは目を瞠る。少年は、剣を持っていたのだ。騎士以上の身分でなければ、剣を持つことは許されない。
「君──」
ラウルは、それ以上口が利けなくなった。
ギィと、景色そのものが歪んだように思われた。鼓膜を引き裂きそうな高音が、草の葉を震わせる。ラウルは歯を食いしばり、耳を押さえて耐えていたが、急に上体がかしぐ。
「やかましい精霊だな」
少年は、平然と立っていた。
「こんなにやかましいのは初めてだ。まあ、力関係を分からせてやれば、大人しくなる。分をわきまえない人間より、よほど素直だ」
膝をついたラウルを見下ろし、少年は、これ見よがしに腰の剣を叩いた。
「今、あんたを殺すのは簡単だが──」
突然、音が消えた。視覚が狂うほどの圧迫感も、霧散する。
ラウルの全身から、一気に緊張が解けた。膝だけでなく両手も、地面に着ける。荒い呼吸に合わせて、汗が落ちた。
「俺、獣をさばくの嫌いなんだよね。あんたがやってくれると、助かるんだが」
「ふざけ……ッ」
勢いよく顔を上げたラウルの鼻先で、兎の足が揺れていた。少年が覗きこんでいる。
「頼みを聞いてくれたら、あんたのお仲間に会わせてやってもいいぜ」
言葉を失ったラウルに、少年は場違いに明るく笑った。
「いい取引だと思うがな? 夕飯にありつけて、捜し物も見つかるわけだから」
「……君は──あなたは、何者だ」
絞り出すようなラウルの問いに、少年は首を傾けた。
「エリク。ただのエリクだ」
ラウルは、ただ、少年を凝視していた。愉悦に細められた、紺碧の双眸を。
森の最奥には、石造りの小屋があった。いつ作ったかも伝わっておらず、壁は苔むしている。
外敵が多かったヴェイン村では、特に行いの酷かった賊、または、報酬に釣られて裏切った村人などを、この小屋に閉じこめた。どれだけ図太い罪人でも、一晩で発狂したという。
「精霊は、夜の方が活発に動きますから……それに、ここで狂い死にした罪人の魂が悪霊としてさまよっているらしく、つまり、常人ならこんなところで泊まれないはずなのですが……」
「……あんたは、何でいきなり、改まってるんだ?」
エリクが、うろんそうに振り返った。彼は、ここで寝泊まりしているという。
「いえ、もし、万が一のことがあった場合、私は不敬罪で死を免れず……こんな糞ガキのために死ぬなんて、ごめんこうむる……」
「それ、独り言のつもりか」
小屋の前には、地面が黒く焦げた部分がある。そこに枯れ草を置き、エリクは火打ち石やらほくちやらを用意し始めた。ラウルには、小刀を放ってくる。
「そっちに泉があるから……」
エリクに皆まで言わせず、ラウルは兎を持って小屋から少し外れた、一段と草の丈が高い辺りに分け入った。
肉の塊となった兎と共にラウルが小屋に戻ってくる頃には、夕陽に照らされた木々が長い影を作っていた。エリクは火をおこし、肉を刺すためであろう串を削っていた。
「どうぞ」
「あんた、ここに来たことがあるのか?」
エリクは、受け取った肉塊を傍らの石に置いた。埃はぬぐってあるようだし、平べったく安定がいい。串を作っていた短剣が、肉をさらに細かく裂いていく。
「泉の位置、知っていただろ。馬に乗ってこなかったのも、精霊に怯えた馬が暴れるのを見越してじゃないのか」
「あなたに関係がありますか」
串を手に取り、肉を刺しながらラウルは答えた。エリクはむっと眉を寄せたが、それ以上何も言わなかった。
食べ終わる頃には、日はとっぷりと暮れていた。
エリクが旺盛な食欲を見せる中、ラウルは串を一、二本だけ食べた。時折、その目は左右の薄闇に向けられる。風もなく、草がそよぐ音もしない。
「あ、しまった」
エリクは、なおも名残惜しそうに指を嘗めていたが、はたと気がついたように動きを止めた。
「酒があるんだった」
ラウルは無言で、最後のひと切れを租借している。
「なあ、取ってきてくれないか。小屋の後ろに吊してあるんだが、そんなに大きくない革袋だから、ひとりで運べる」
「……」
「見つからなかったろ、お仲間」
ラウルの口の動きが止まった。エリクは、ずるそうな笑みを浮かべている。
「切り口は鮮やかなわりに、帰ってくるのが遅かったな。どうせ、そんなことだろうと思ったよ」
ラウルの手の中で、串が真っ二つに折れた。
「残るは小屋の中か裏、とか思ってんだろ。ついでに見て来いよ」
ラウルは、唇をひん曲げて立ち上がった。
小屋の裏は、ほとんど闇に近かった。あと数日で満ちる月のおかげで、かろうじて物の形が判別できる。
片手で壁を探りながら歩いていたラウルは、ふと、立ち止まった。壁を、拳で軽く叩く。石壁にしては、気の抜けた音が返ってきた。
「……窓、だな?」
ラウルは眉根を寄せて、手を置いた部分を見据えていた。──急に、身を翻す。すばやく剣を抜いたラウルの視界に、人影が入ってきた。
三人いる。いずれも、ラウルより背が高く、剣をや弓を構えていた。汚れ、よれているが、騎士に好まれる、丈の短い上着を身に着けている。ラウルは目をすがめた。
「ジョルジュ……ルイ、ロラン……」
公爵に手傷を負わせた下手人を追っていたはずの、ラウルの同僚達だった。
ラウルの呟きに、三人からの応答はない。騎士らしからぬのろくさとした動作で、ラウルに向かってくる。目は濁り、生気がない。
「その騎士を殺せ」
若い、というより幼い声だった。ラウルは、目だけを動かす。
先ほどの窓が開いていた。焚き火から火種を持ち込んだらしく、小屋の中がかろうじて識別できる。窓際に立っているのはエリクだ。彼は、ひとりの幼女を抱えていた。大人用のスモッグをまとい、まっすぐな黒髪を胸の辺りまで垂らしている。その瞳は、不気味な紫に光っていた。
ラウルの背後から、大上段に白刃が振り下ろされる。紙一重で避けた先に、矢じりがあった。ルイが、弾弓を構えている。
「感動のご対面だな」
エリクの嘲笑が、夜の森に響いた。
「斬っても無駄だぞ。坊主か聖水でもない限り、そいつらは動き続ける。大人しくしてりゃ、ダナのしもべにしてやるよ」
語尾に、玉を転がすような笑い声が続く。幼女だった。
「お父様のためなら、ダナは、たくさんしもべを作るわ」
「エリク」
かつて仲間だった生ける屍と対峙すべく、ラウルは窓に背を向けた。
「これは、どういうことです」
「そのまんまだが?」
ラウルの背に語りかけるエリクの声は、憤怒に満ちていた。
「公爵も、その部下も、全員化け物にしてやるよ。永遠に、太陽を見られない身体になって嘆き続けろ」
ロランが、剣を振りかぶる。無意味に開いた大口からうめき声を漏らした。ロランの剣をさばきながら、ラウルは呼吸を整えた。
「私をやたらと引き留めたがったのは、このためですか」
「最後の晩餐まで振る舞ってやったんだ。感謝されてもいいくらいだ」
「森の精霊を黙らせたのも、我々騎士をおびき寄せる目的ですか」
「うるさかったんだよ、寝られやしねえ」
平然と、エリクは言い放った。
「俺とダナが揃えば、たいていのことはできちまう。この小屋にいた死霊も、面倒なんで消えてもらった」
ラウルが飛び退り、屍達から距離を置く。じりじりと包囲網を狭める彼らを見ながら、エリクは唇を歪めた。
「ここに住み着くつもりはないが、公爵の犬もおびき寄せられるし、悪くないな」
「エリク、ひとつ言っておきます」
「遺言なら届けないぞ」
「我が君を甘く見るな。精霊の庭で忠実な部下が行方をくらませて、何の対処もしないとお思いか」
ラウルの剣は、切っ先が地に触れんばかりだった。それが、唐突に跳ね上がる。
ルイの両腕が弾弓ごと切断された。返す刀はジョルジュの頚骨を絶ち、ロランの顔を縦一文字に裂く。逡巡も恐怖もない、凄絶な手並みだった。慣れた、どこか物憂げで事務的な所作で、ラウルは剣を払う。
「斬っても無駄だと──」
エリクは、皆まで言えなかった。腕の中の幼女が、小さな悲鳴を上げたのだ。
かつて、ラウルの同僚であった屍達も、喉から勢いよく風を噴き出す。叫びを上げる機能は、失われていたようだ。
「神よ。今、御許に、あなたのしもべが参ります」
ラウルは瞑目する。その肩に伸ばされたジョルジュの指が、ふいに崩れて消えうせた。
「願わくば、死して囚われた邪悪な魔力より、この哀れなる者達を解き放ちください。勇敢にして敬虔なる信徒である我が友に、安らかな眠りをお与え下さい」
ラウルは、上着のかくしから小瓶を取り出す。蓋を外し、さっと中身を空中に振り撒いた。一見するとただの液体だが、屍達のただれた肌が乾いて砂と化していく。
「おやすみなさい。ジョルジュ、ルイ、ロラン」
呟いたラウルは、視線を転ずる。窓にはエリクや幼女の姿はなかった。
ラウルは、戸口に向かう。立て付けの悪い扉は、たやすく開いた。
頭上から襲い来る斬撃を、ラウルは真っ向から受け止める。有利な位置から振り下ろしているにもかかわらず、額に汗を滲ませているのは、エリクだ。
ラウルは半身を後ろへ移動させ、剣を下げる。エリクがたたらを踏んで、姿勢を崩す。素早く背後に周り、無防備な後頭部に柄がしらを振り上げた。──その、左腕がとられた。
非常な力で、後ろ向きに振り飛ばされる。ラウルの身体は、狭いであろう小屋の端まで飛び、背中から倒れた。呼吸が止まったラウルに飛びかかってきたのは、エリクではない。ラウルが、渾身の力で剣を横なぎにすると、相手は天井近くまで跳躍して後退する。黒髪が顔を覆って、表情を不明にしていた。尋常でない怪力を振るったのは、エリクが抱いていたダナとかいう幼女だ。
ラウルは起き上がりかけ、背を丸めて咳き込んだ。ラウルの苦悶を見て取ると、幼女は間髪を入れずに飛び上がる。首を押さえつけられ、ラウルの喉が鳴った。
ラウルの喉元を飾る白い布には、単なる洒落っ気以上の意味があったが、幼女は頓着しない。笑いながら、布を引き裂く。小さな口の中で、何かが光った。──歯だ。真っ白な犬歯は太く、鋭く尖り、牙そのものだった。
「──!」
剣を握ったラウルの右手には、幼女が足を乗せている。それだけで、ラウルは動けなくなった。必死にもがくその首筋に、嘲笑と冷たい息がかかる。
ぎゃん!
獣じみた叫びは、幼女だった。跳ね上がった小さな身体は壁に激突し、落ちる。ラウルも、後頭部をしたたかに床に打ち付けた。
静まりかえった屋内で、へたり込んでいたエリクが、ふいに立ち上がる。大股に小屋を横切り、ぐったりしている幼女を抱き上げた。
「ダナ、ダナ!」
彼の背後では、ラウルが上体を起こしたところだった。衝撃がまだ残っているのか、頭がふらふらと前後に揺れている。その手が、自分の胸元を探る。こもった音がした。
ラウルが取り出したのは、木製の数珠だった。ひとつひとつに聖句を彫り、聖水で磨いてある。直線の交差で、翼ある矢を表したロウリヤの護符が下がっていた。効果を発したのは、恐らくこれだろう。
ラウルは、左手で護符を握り、震える足を踏みしめて立ち上がった。
エリクが気付いた。ラウルに向けて、憤然と何かを叫びかけ──がくん、とその顎が下がった。
「お前、……」
ラウルは護符を放し、両手で剣を握り直している。護符が揺れた。上着を裂かれたラウルの、まろい隆起を描く胸元で。
「女……?」