ある変わり者と物好きの喜劇
「恋愛の話で喜劇と呼ばれるものは」
翔子は顔をあげた。奏は、文化祭でクラスが演じる「真夏の夜の夢」の台本に目を落としたまま、続ける。
「はじめは相手を間違えるけど、最後には正しく恋人同士がくっついて終わるんだよね」
「じゃないと、喜劇にならないでしょ」
奏は席を移動し、翔子の隣の机に腰掛けた。
「登場人物みんなが幸せになる」
「そうよ」
チャイムが鳴る。廊下を走る音。幾人かの男子生徒が、大声で何かを叫びあっている。二人の間の空気は張り詰め、彼らの気配がなくなるまで、どちらも一言も喋らなかった。
「はじめから両想いだったら、平和でいいよね?」
翔子は小さくため息をついて、奏を睨みつけようとしたが、奏が既に台本を置いて翔子をまっすぐに見つめていたので、その表情は崩れてしまった。
「それじゃ、話にならない」
「いいじゃないか、主人公じゃなくても」
近い距離から発せられた奏の声に、翔子の心臓はリズムを乱される。夕日が翔子の顔を照らしていた。自分の顔の赤さを夕日のせいに出来ればいいが、と翔子は思った。
奏は翔子の肩に手を置いた。翔子は、はっと我に帰り、奏から逃げだした。
「君は相変わらずお話が好きだね」
奏は悲しそうな顔をした。逆光の影になったその顔を、翔子は今まで何度見て来ただろうか。
それでも奏に身を預けるわけにはいかなかった。ここまで来たら、引けなかった。
「あなたは相変わらず、物好きね」
翔子は立ち上がると、教室を出て行った。
「どうしたんですか?」
教室でぼーっとしている奏に声をかけたのは、校長だった。
「...僕、高1の時、好きになった女の子がいるんです」
へえ、と校長は相槌を打つ。外は暗くなり始め、部活の終わった生徒たちがぱらぱらと帰宅を始めていた。
「彼女も僕を好きだったんです。わかっているんです。だから、これまで何度も告白しているんですが、断られているんです」
「...それはまた、何故」
「彼女、文学小説が大好きなんです。シェイクスピアとか...すれ違ったり、行き違ったり。悩んだり、取り合ったり、失恋したり。そういう体験に憧れているんです。だから、両想いの僕が告白してしまっても、つまらないと」
「はあ、変わった人もいるもんですな」
「...そうだ!校長先生、協力してくれませんか!」
奏が校長の肩に掴みかかるほど必死だったので、校長は首を縦に振らざるを得なかった。
翔子は帰宅を始めていた。校庭を歩いていると、突然誰かが、叫んだ。
「山下翔子さーーーん!!」
昇降口で、校長が自分の名を呼んでいる。
「あなたが好きだーーー」
すると、ガラっと二階の窓が開き、奏が身を乗り出した。聞かれてしまった!奏に、校長に告白されたところを。
「翔子!!君は僕のものだ!!」
奏はそう叫ぶと、しばらく後に昇降口に姿を現し、校長と取っ組み合いの喧嘩を始めた。
ああ、どうしよう。2人が私の為に争っているなんて!...何を悩んでいるのかしら。私はずっと奏が好きなのに。でも校長の気持ちを無下にするわけには...
「なああれ、校長と佐藤先生、なんか揉めてんのかな」
校門でだべっていた生徒が、昇降口の騒ぎに気付いた。
「さっき何か叫んでたよな」
「英語のグランマ翔子もいるな」
「あ、劇の練習じゃないの?担任爺さんなのに大張り切りだなー(笑)」
ある夏の夜の出来事でした。