9.『夢』について君と語ろう
『君の夢はなんだい?』
柔らかな口調でそう問われた紗夜は、すぐに答えることができなかった。
どれだけ難しい問題でも、正解かそれに限りなく近い答えを導き出すことができる彼女が、1時間近く悩んで考えても結局答えを見つけ出すことができなかった問いかけ。
それを投げかけた50代ほどの男性は、困ったように笑いながら「それじゃ宿題にしておこう」と浮かない表情の彼女を送り出してくれた。
(夢…………私の、夢……夢ってどうやったら見つけられるんだろう?)
「……もしかして、難しい宿題でも出されましたか?」
「…………え?」
くすり、と笑みを含んだ声で問いかけられた紗夜は、のろのろと顔を上げた。
極力目立たないようにと用意してもらったコンパクトカー、その後部座席にいる紗夜とルームミラー越しに視線を向けてくる朔弥の目が合う。
帰り際に言われたことをぐるぐると反芻しながら考え込んでいた彼女を見て、どうやら黙っていられなくなったらしい。
私もそうでした、と彼は静かな口調でそう切り出した。
「私が初めて旦那様に引き合わされた時は、『ヴィシソワーズとじゃがいもの冷製スープの違いは何だと思う?』という質問でした」
「え、なにそれ。言い方の違いじゃないの?」
「いえ。ヴィシソワーズは『ポロネギを使ったヴィシー風じゃがいもの冷製ポタージュスープ』のこと。でもじゃがいもの冷製スープと言った場合、そのレシピは多岐にわたります。……というようなことは調べればすぐにわかることです。ですから、そのものが答えではないと私は考えました」
まだ彼が千晴に『拾われた』ばかりの頃、顔合わせと称して旦那様……久遠家現当主である久遠千尋と会わされた時、挨拶もそこそこに問いかけられたのがそれだった。
知りたがりな子供の問いかけのようでいて、謎かけのような意地の悪い質問ともとれる。
その場ですぐに答えられなかった朔弥に、千尋は「それじゃ宿題だ」と意味ありげに微笑んで、わかったらまたおいでと声をかけて彼を帰した。
「……それで、朔弥はどう答えたの?」
「気になりますか?」
「それはまぁ……うん」
「参考にならないと思いますよ」
信号が青に変わったのを横目でちらりと確認して、元通り前を向いた朔弥。
しばらくそのまま黙って車を走らせていたが、後部座席の不機嫌度が上昇しているのを感じて、彼は小さく苦笑した。
「わかりません、と答えたんですよ」
千尋の問いかけが、そのものずばりを聞いているのではないことくらいすぐにわかった。
だが何を意図して聞かれたものなのか、なんと答えれば正解なのかが彼にはどうしてもわからず、結局『わかりません』と降参の意を示した。
千尋はそれに対して、これが正解という答えをくれなかったのだという。
ただ、『君は理詰めで考えるタイプなのだね』と笑っただけだったそうだ。
「きっと、決まった答えなんてなかったのだと思います。さっき紗夜が言ったように『言葉の違い』でもいいし、『相手に与える印象の違い』でもいいし、『全くの別物』でもいいんでしょうね。私がどう受け取り、どんな風に考えたか……それをお知りになりたかったのだと思いますよ」
「…………そう。でも、私の宿題はそれとは違うと思う。……夢はなんだ、って聞かれたから」
「……夢、ですか」
それは難しいですね、と困り顔になった朔弥の横顔を見ながら、紗夜はやっぱり参考にならなかったね、と遅ればせながら彼の言葉に同意を示した。
「夢、ですか。それは恐らく、久遠のおじ様なりの優しさなのだと思いますわ」
来月に予定されている、久遠家分家縁戚筋へのお披露目。
久遠家は数字つきの名家の中でも実力主義を掲げる家として有名であり、だからこそまず真っ先に分家筋の者達が確認に乗り出すのは、本家に養子入りした紗夜の『実力』と『覚悟』のほどだ。
これまでは柊家から隠すようにされていたため、過去を洗おうとしても返ってくる結果は限られている。
紗夜が本家に引き取られてから2ヶ月……学力の確認のためにつけられた家庭教師はあまりのレベルの高さに降参状態、ピアノを教えればたやすく弾きこなし、絵を描かせてみればプロをも唸らせ、パソコンを使わせればブラインドタッチは当たり前、プログラミング言語さえも数種類使いこなすというチートぶり。
当日、その実力の一端は当主である千尋によって明かされることになっているが、だとするなら彼らが紗夜に投げかける質問はこれしかない。
『将来的にその能力をどう役立てるつもりか?』
これが他家も含めた社交の場であるなら、紗夜の性別や年齢も考慮して婚約者を、と勧められるだろう。
そんな話も出ないとは言い切れないが、縁組を狙っているのならなおのこと、彼女の能力の使い道についてまず知っておかなければならないと彼らなら考えるに違いない。
「それが、久遠家の特徴なのです。……と、幼い頃に千晴さんに教えていただきましたの」
「千晴様に?」
「ええ。年齢が近くて今後付き合いが続きそうなのは、四条家と梧桐家、そして久遠家ですから。家同士の付き合いでは、分家の方達と交流する機会もありますし、質問攻めにされて困らないように、と」
「あぁ……」
そういうことか、と紗夜は由梨絵の言いたいことを理解した。
千晴が事前に由梨絵に予備知識を与えていたように、千尋も紗夜に『こんなことを聞かれるだろうから答えを用意しておくように』と忠告してくれたのだ。
そしてその意図は紗夜から話を聞いた千晴にも即座に伝わっていて、だからこそ彼は自分でヒントを出すのではなく、あえて由梨絵に繋ぎをとるという方法で間接的に教えようとしてくれたのだろう。
(優しいけど、厳しい……けどやっぱり甘い人、ってことなんだろうな……)
「『夢』と言うと漠然としすぎていて難しそうですが、例えば尊敬する人とかはどうですか?こういった人になりたい、という気持ちでも構いませんわ。そこから何か糸口が掴めてくるかもしれませんもの」
「尊敬、ですか。…………そういった強い感情はないんですが、真崎先生の手腕は正直すごいと感じました」
一晩にして必要書類を纏め上げ、あの悪夢のような柊家との離縁を実現させてくれた敏腕弁護士。
その能力がどれほどのものかは、実力主義と名高い久遠本家に雇われていることからもわかる。
あっという間に、相手が疑問を持つ間もなく交渉を纏め上げてしまう、そんな話を聞いた紗夜は密かに真崎を凄い人だと位置づけていた。
「まあ、まあ、真崎先生ですの?確かに凄い方だと伺っておりますわ。なんでも、千晴さんのお祖父様が素晴らしいネゴシエイターだったとかで、そのお祖父様に憧れて海外でネゴシエイターの勉強をなさったそうですわね」
ネゴシエイターとは、警察組織において人質救出などのために犯人側と交渉する役割を持った警察官のことだ。
当然、それを任されるようになるには特殊なスキルを身につけなければならず、学ぶ内容も心理学から行動科学までと幅広い。
基本的に現場において交渉にあたることが多いため、怪我を負ったり命の危険にさらされたりと中々にリスキーな職種でもあるらしい。
「では、紗夜さんの目標はネゴシエイターですの?」
「いえ、まだそこまでは」
(正直、女性のネゴシエイターだとリスクは半端ないだろうし……警察社会は特に厳しいから)
警察が男性社会であることくらい、紗夜も知っている。
女性のキャリアもいるにはいるが、その殆どが広告塔として使われたり出世を阻まれたりで、出世できたとしても周囲にいい顔はされないと聞く。
そんな苦労を強いられる職場を目指すよりも、女性でも能力があれば上にいける職場を探す方がいいに決まっている。
何かが見えそうで見えない、そんな顔で考え込んでしまった紗夜を見つめながら、由梨絵はあらあらと小さく笑みを浮かべた。
紗夜が久遠家の養女になって以降、挨拶程度しか交流のなかった彼女の相談に乗ってやって欲しいと、そう千晴から言われた時は正直戸惑う気持ちの方が強かった。
彼女が元々生まれ育った柊家は四条家の分家の分家、末席に位置する家だ。
殆ど交流らしきものを持った覚えなどなかったが、それでも本家の娘という立場にありながら何もできなかった自分……そんな自分が相談に乗ってもいいのだろうか、と。
だが、話してみれば紗夜はとても真っ直ぐな性格で、優秀すぎるほど優秀であるばかりに『夢』を定められなくて迷っている、そんな年相応の子供に見えた。
そんな迷う彼女の力になってあげられれば、そう考えた由梨絵は「これはここだけの話にしてくださいね」と前置きしてから自分の置かれた境遇について語り始めた。
「四条の家は……その、言い方は悪いのですが男性上位の考え方が根強いのです。女性を卑下しているわけでもないのですが、やはり女性は他家に嫁いで縁を作れと教えられますわ。ただ、先々代……でしたかしら。なんでも、横暴な性格のお父上を見て育ったらしいその方は、四条の男性上位の考え方はもう古いと訴えられ、会社の方でも積極的に能力のある女性の登用をされたようですわ。お陰でわたくしにも、会社の役員をというお話をいただきましたし、着任する以上はお飾りの役員なんて御免ですもの。先々代の遺志を継いで、しっかり改革を進めるつもりでおります。ですから紗夜さんも、女性だからと己の可能性を縮めてしまう前に、何をやりたいのか……それをまず考えてみられたらいかがかしら?」
『夢』を語る由梨絵は生き生きとしていて、それまでのおっとりとした雰囲気の彼女とはまた別の美しさがあった。
眩しそうにそれを見つめる紗夜は、2,3度瞬いて言われたことを反芻してみる。
(女性だからと、可能性を縮めてしまわないで……か)
教科書で学べることは既に頭に入っている。
勉学という意味合いでの知識は充分、ならばそれ以外で学びたいことはないだろうか?
そう考えたとき、真っ先に彼女の脳裏に浮かんだのは鬼の形相で怒鳴り散らす柊家の両親の顔。
そしてやや遅れて、哀れを誘う泣き顔の中にも隠しきれない優越感を浮かべた奈津美の顔。
柊家の両親が紗夜に対してやったことは、育児放棄と児童虐待だ。
そして婚約者のいる男性に近づいて寝取る行為、これは不貞にあたる。
どちらも民事的意味合いでは、充分に訴えられる要素のある犯罪行為だと言ってもいい。
彼ら、彼女がどんな意図を持ってそれを成したのか、どういう心境だったのか、客観的に知りたいと紗夜は考えた。
ネゴシエイターは心理学や行動科学、犯罪学などを幅広く学ぶのだという。
将来的にどんな仕事につくかはまだわからないが、それらを学ぶことで役立つ仕事はきっと多い。
よし、と彼女は顔を上げる。
決まったようですわね、と由梨絵も嬉しそうに微笑んだ。