8.いとしのキティ
朔弥の口調を一部変更しました。
ストーリーに変わりはありません。
「おはよう、紗夜」
「おはようございます、千晴様。……随分とお疲れのようですね」
わかるかいと苦笑する千晴に、紗夜はわかりますと頷く。
柊紗夜が正式に久遠紗夜となってこの久遠家に引き取られてから、はや2ヶ月が経とうとしている。
本来なら中学1年生として学校に通わなければならない年齢である彼女はしかし、海外の教育施設にいる間に大卒の資格まで取得済みであり、今更日本の教育機関に通う必要性は全くなかった。
これまで通っていた全寮制の小学校は3月で卒業済みであるし、通う予定になっていたその附属中学校への進学予定は千晴が既に取り消し済みだ。
本人にも続けて通いたいという意思はみられず、ならばと千晴は彼女の好きにさせることにした。
『ただし、こちらの自己都合で申し訳ないけれど、久遠家の子女としての教育はつけさせてもらうよ』
名家の義務だと思ってくれ、とそう告げた千晴に対し、紗夜は何でもなさそうな顔でわかりましたと返しただけだった。
お世話になるのですからそれくらい構いません、と。
マナーは今更教えることもなく、処世術に関してはそれほど重要視はされていない。
ただ、久遠家とそれに連なる交友関係などを覚えることには苦戦しているらしく、聞くと対人関係において顔と名前を一致させるのが難しいのだと彼女はそう語った。
それ以外の事柄に関しては、一度教えればほぼ完璧に覚えてしまうという素晴らしい記憶力を誇っているため、専ら教える事柄は対人関係についてに絞られている。
そんな彼女は、久遠家の人間に対してまだ完全に打ち解けてくれてはいない。
当初『旦那様』『奥様』『次代様』と呼んでいたのを、『千尋様』『万葉様』『千晴様』と名で呼んでくれるようになったという程度だ。
それでも、些細な会話が増えた。
頑なだった表情を崩し、笑ってくれることが増えた。
今のように、気遣いの言葉をかけてくれるようになった。
まだ2ヶ月だ、今はそれで充分じゃないかと千晴は焦る己にそう言い聞かせていた。
ここの所忙しかったため久しぶりに一緒になった朝食の席、手をつける前に千晴はああそうだと己より何倍も疲れ切っているだろう部下のことを口に出した。
「そうだ、紗夜。昨日遅くに報告に来てくれた部下を客室に泊めたんだが、朝食の席に呼んでやっても構わないかな?」
「お仕事関係の方なら、席をはずしましょうか?」
「ああいや、今日は仕事が休みだから気を遣う必要はないよ。ただ、今後うちに来ることもあるだろうから、挨拶だけでもと思ってね。……ダメかな?」
要は、紗夜とその部下の顔合わせをしたいということのようだ。
そう理解した紗夜は、少し迷ってから構いませんと言葉を返した。
どうして千晴がそこまで気を遣うのかというと、物心ついてから今までに受けてきた主に身内からの辛い仕打ちの影響で、紗夜の心はたやすく人を信じられなくなってしまっている、そのことを知ったからだった。
それを知った上で、あえて会わせておきたい人物……それはきっと紗夜にとって有用である、と千晴が判断したからに他ならない。
客室まで使いに向かった使用人を待つ間、千晴はその部下が若いながらも非常に有能であること、留学期間を除いては生まれも育ちも日本であること、桐生朔弥という名を持つ彼の外見が少し特殊であることなどを告げ、自分は友人だと思っているんだと締めくくった。
そのタイミングで、コンコンとノックされる扉。
どうぞと許可を出すと、まだ昨日のことを引きずっているのか表情の冴えない朔弥が、千晴の用意した服を着て現れた。
「おはよう、桐生。少しは眠れたか?」
「おはようございます。お気遣いいただいて恐縮ですが……」
「寝られなかったか、まぁ無理もない。……とにかく座れ。まずは食事にしよう」
「はい。失礼し……………っ」
「桐生?」
椅子を引きかけた姿勢のまま、朔弥の視線は紗夜に釘付けになっている。
訝しんだ千晴の呼びかけにも反応せず、彼はただ食い入るように紗夜を見つめるばかり。
紗夜も、戸惑うように首を傾げて朔弥を見つめ返している。
声を発したのは、どちらが早かっただろうか。
「…………キティ?」
「…………カッツェ?」
どちらも『猫』を意味する単語で互いを呼び合い、二人は唖然とした表情のまましばし言葉を失った。
「……なんだ。それじゃ、二人はとっくに顔見知りだったってことか」
「はい。私は10歳の頃から6年間過ごしましたが、その2年目にキティ……紗夜様が入ってこられたのです」
戸惑う二人を促してどうにか食事を済ませた後、あまり公にしていい話でもないだろうと千晴は場所を書斎に移した。
昨夜報告を受けた時同様千晴はデスクの前の椅子に座り、紗夜はソファーに、そして朔弥をその向かいに座らせようとしたのだが、朔弥は紗夜と離れがたいとでも言うようにさっさとその隣に座ってしまった。
人間不信気味であるはずの紗夜も、特にそれを嫌がる素振りは見せない。
このことで二人が知り合いだということに察しはついていたのだが、話を聞いてみるとやはり二人は同じ施設の出身だった。
朔弥が10歳から16歳までの6年間、紗夜が2歳から9歳までの7年間を過ごしたその施設はアメリカにあり、世界中から集まった『周囲に馴染めない子供』や『問題行動を起こす子供』達一人ひとりに合わせた教育を行っている。
そこでは皆、俗世の名前を捨てて愛称で呼ばれているらしく、特に毛色の変わった二人はそれぞれ『子猫ちゃん』『猫』と呼ばれていた。
「キティは施設の最年少で、でも誰よりも賢かった。周囲がどう扱ったものかと戸惑う中、私が世話役を買って出ました。同じ日本出身でしたし…………どこか、似ていると感じたもので」
当時11歳だった朔弥と、まだ物心つかない2歳の紗夜。
良く似た孤独を抱えていた二人は寄り添うように時を過ごし、二人にしかわからない絆を築き上げた。
「私が日本に呼び戻される前日、外に出てお揃いのストラップを買いました。それが……」
「ああ、あれのことか」
あの電波娘が何故か『死んだ人の思い出』と称したそのストラップは、アメリカを去る前に紗夜とお揃いで買ったものだった。
それを壊されたことで、朔弥は己の思い出まで踏みにじられた気持ちだったのかもしれない。
意気消沈していたのはその所為か、と千晴はようやく納得できた気持ちで寄り添う二人を見やった。
「キティ、すみません…………あのストラップは昨日……その、壊されてしまって」
「……カッツェ、実は私もなの。日本に戻ってすぐ、『兄』に取り上げられてしまって。その場で壊されて。だから、私こそごめんなさい」
「そうでしたか。なら今度また、お揃いで何か買いましょう。今度は、壊れにくいものがいいですね」
「うん」
会話しているのは、21歳の青年と12歳の少女だ。
外見的にも実年齢的にもかけ離れた二人が、『兄』であり『友人』である自分よりもはるかに親密な雰囲気で会話を交わしている。
(なんだ、この居心地の悪さは。まるで僕が邪魔者みたいじゃないか)
気を利かせて出て行った方がいいのか、それとも空気を読めないフリをして話題を戻せばいいのか。
この部屋の主であるはずの青年は、しばし居たたまれない気持ちでぼんやりと佇んでいた。
「……で、そろそろ話を戻しても構わないかな?」
5年間離れていた二人の再会劇がひと段落ついた頃を見計らって、千晴はやんわりとした声音で会話に割り込んだ。
全く違う境遇ながらも似たような孤独を共有してきた二人だ、本来ならもっとじっくりと話し込ませてやりたいのはやまやまなのだが、それではわざわざ時間をとった意味がなくなる。
朔弥の仕事は昨日で終わり、千晴も今日は会社が休みであるため時間はあるのだが、それでも次期当主としてやっておきたいことや視察に行きたいところなど、休みでないとできないことも多い。
二人にしかわからない会話は後でやってくれとばかりに話を戻した千晴に、朔弥と紗夜も視線を彼に戻してわかりましたと頷く。
「考えてみれば、桐生が紗夜と知り合いだったというのは好都合だ。今日は顔合わせだけ、と思っていたんだが話を進めても問題なさそうだしな。桐生、しばらく紗夜の護衛についてくれないか?」
『護衛』と聞いた瞬間、朔弥の表情が険しいものに変わる。
「護衛が必要な、何か問題でも?」
「現状ではまだ何も。ただ今後、何が起こるかわからないからね。特に君のあの報告を聞いた後だ、あちらさんが何を仕掛けてくるやら皆目検討がつかない。最悪、紗夜に危害が及んだとあっては『久遠』の者として黙っていられないからね」
「……黙っていなくても良いのでは?」
それはつまり、今のうちに潰してしまえばいいのにということだ。
わかりやすいな、と千晴は苦笑しながら「いいや」とそれを否定する。
「言いたいことはわかるが、そうもいかなくてね。養子に入る前ならできたことだが、今はいくら遠いと言っても四条の家の関係者だ。勝手に潰しては、由梨絵にまで迷惑がかかってしまう。やるなら徹底的に、四条が被害を受けない形で…………っと、すまないね紗夜。君の知り合いのことなのに」
『友人』と騙っていたのは奈津美だけで、紗夜は距離を置いていたことを千晴は知っている。
だからあえて知り合いと称したのだが、紗夜は意に介した様子もなく「いえ」と頭を振った。
「彼女の起こした迷惑行為に関しては、容認できる範囲とそうでない範囲があることは理解していますから。ただ、私自身彼女と同じ舞台に立って争うことが面倒だったので、あえて言われるがままにしていただけです。千晴様が潰していいと確証を得られたのなら、どうぞご随意に」
「辛辣だね。…………もしかして、彼女の言う通り『嫌い』だった?」
「そうですね、最初の頃は」
だがある程度『彼女』がどういう人間か見えてくるに従って、興味がなくなっていったのだと紗夜は淡々と語った。全くどちらが年上やら、と千晴は肩を竦めて笑う。
「それで、護衛の話なんだが。桐生にはしばらく会社を離れて、うちと専属契約を結ぶという形で紗夜の護衛についてもらいたい。これから外出する機会もあるだろう、基本的には運転手、そして付き添いという形で傍にいてもらうが、やむを得ず社交界に出る場合はパートナーとしてエスコートしてもらうこともあるだろう。父からも、そろそろ久遠家の娘として親戚筋に紹介したいと言われている。そういった場が、今後増えるだろうからね」
どうだろう?と形式上問いかけると、朔弥は一度紗夜を愛しげに見下ろしてから大きく頷いた。
紗夜も、千晴も初めて見る信頼感のこもった眼差しで朔弥を見上げ、嬉しげに表情を緩めている。
(だから、その二人だけの空気を出すのは後にしてもらえないかな……居たたまれないよ)
困ったものだとは思ったが、それでも彼はやめて欲しいとまでは思わなかった。
どういう経緯があり、二人の間にどういった絆があるのかはわからないが、身内に虐げられ周囲に裏切られ、傷ついた心を抱えた二人が嬉しそうにしているのを見るのは嫌じゃない、本心からそう思えたから。