7.カーテンコールは望まない
新緑が目に眩しい季節になり、どのテレビ局でもゴールデンウィーク中のレジャー施設の話題でもちきりな、そんな連休初日。
「…………遅いな」
定時をとっくに過ぎた深夜、久遠千晴はシンと静まり返った社内で一人待ちぼうけを食らわされていた。
待っているのは、最終日の護衛を終えて報告に戻ってくるはずの部下。
彼自らがスカウトした『ワケあり』の人材とあって、任務を伝えるのも報告を受けるのも社長である千晴が直接行っている。
朔弥もそのことはわかっているからか、任務が終わったら何時になろうと、どんなに疲れていようと、必ず報告に立ち寄るのが習慣になってしまっている。
今回の契約は、高校の新学期が始まった日からゴールデンウィーク初日まで。
最終日にあたる今日は橘家主催のガーデンパーティが催されており、そこで改めて柊家との婚約を仕切り直しするという発表がされているはずだ。
そうして公に発表してしまえば、柊奈津美は正式に橘家次代の婚約者として周囲に認められ、彼女の身に何か危険が迫ったとしても、橘家が『家』ぐるみで対処することができるようになる。
朔弥への警護依頼は、それまでの一時的な繋ぎということだ。
朔弥の役目は、奈津美をガーデンパーティの会場まで送って行き、何事もなく婚約発表が成されればそこで終了となる。
ガーデンパーティの開始時刻は午前11時、どんなに長引いてもあたりが薄暗くなる前にはお開きになるはずで、その前に婚約発表が成されているはずなのだ、が。
時計を見ると、午後11時。
パーティの開始時刻から、半日が経過しようとしている。
これはどう考えてもおかしい、と千晴が耐え切れずガタンと椅子を鳴らして立ち上がったその時
デスクの上に置いてチラチラと気にしていたスマホが、ブルブルと震えて着信を知らせた。
ディスプレイに表示されているのが待ち人の名前であることに彼はまずふぅっと小さく息を吐き、だがまだ安心できないからと気を引き締め直して通話ボタンを押した。
「……はい」
『…………桐生です』
ああ、本人だったか。とここでようやく千晴は安堵の息をつくことができた。
だが耳慣れないその掠れた声に、余程のことがあったのだろうと予測して、彼は「桐生」と社長の声音で呼びかけた。
「もう時間も遅い。報告なら家で聞く」
『社長、それは……』
「今から社を出る。家の方には連絡を入れておくから、先に着いたらエントランスで待っているように。それと、意義は認めないからそのつもりで」
言うだけ言って、相手の返事を待たずにさっさと通話を切り上げる。
そして、まだ起きて主の帰りを待っている執事の携帯に連絡を入れ、これから戻ること、朔弥が着いたらエントランスに通すこと、恐らくそのまま泊まることになるだろうからその準備をしておくことを伝え、今度こそしっかりと席を立った。
「おかえりなさいませ」
「ああ、ただいま」
千晴がエントランスに足を踏み入れると、いつも通り恭しげに一礼して出迎える執事の姿。
その斜め後ろに控えめに立って同じく一礼している朔弥の姿を認め、彼は口元だけで小さく笑みを形作った。
(ボロボロのよれよれじゃないか……これはあれか、律儀に電車で帰ってきたクチか)
この時間ならば、まだギリギリ電車は動いている。
残業帰りや酔っ払い、そういった者達を詰め込んだある意味カオスな空間に紛れ込んだ金髪碧眼の美形。
そちらの趣味のない男性陣には逆恨みで絡まれ、女性陣には擦り寄られ、ただでさえ疲れきっているところにダメ押しのようにダメージを受けてきた、そんな様子がありありと伺える。
タクシーで帰ってこいともし千晴が命じていたとしても、きっと彼は『贅沢は敵です』と言って聞かなかっただろう。
彼が継いだ桐生家は、家柄自体はそれほど力もなくただ『ちょっとだけ古い血筋』というだけのものだった。
だが先々代、つまり朔弥の祖父にあたる男性はイギリスの名家であるシュナイダー家直系の三男であり、この桐生の一人娘に婿入りしたことから『桐生』は海外にもコネクションを持つようになった。
そしてその一人息子の嫁として娶ったのは、元々はシュナイダー家の本家筋にあたるというドイツのクリストハルト家と日本人の間に生まれたというご令嬢。
生まれた子供は、日本人の血を合わせて1/2、イギリスの名家の血とドイツの名家の血をそれぞれ1/4づつ受け継いだサラブレッドだった。
だが彼は完全に政略的な意味合いで結婚した愛のない、互いにプライドばかりが高い両親を見て育った所為か、身分を振りかざして偉ぶったり散財したりすることを極端に嫌っている。
彼が望むなら、働かずとも暮らしていけるほどの財があるのにも関わらず、だ。
千晴はひとまず書斎へと場所を移し、まだどこか落ち着かない様子の朔弥に椅子を勧めると、自分もその正面に椅子を移動させてきて座った。
「さて、まだかろうじて『今日』だな。明日に持ち越しても良かったんだが、気になって夢に見てしまいそうだからな。報告を聞こうか」
「はい。では報告します」
パーティ前に打ち合わせがあるからと、少し早めの時間を指定された朔弥はその時間ちょうどに迎えに出た。
角度によっては白にも見えるパールピンクのドレスを身に纏った奈津美は、珍しく車中でも大人しく黙って座っていた。
そして会場に到着した時、どうぞと扉を開けた朔弥の手を両手で包み、何か言いたそうにじっと視線を向けてきた。
朔弥がそれを拒絶するより早く、庭の向こう側から孝之の呼ぶ声が聞こえたことで、奈津美は名残惜しそうに握った手を離し、指先を絡めていたもう片方の手を宙に差し出すようにしながら一歩、二歩、とゆっくり後ずさっていった。
まるで、互いの手と手が見えない何かで引かれ合っているかのような仕草で。
「妙に芝居がかって見えました」と朔弥はばっさりと切り捨てる。
「ま、その辺は追求しないでおくとして。パーティ自体に何か問題は?」
「はい。始まってしばらくは挨拶回りをしているようで、和やかな声が洩れ聞こえましたが……それが落ち着いた頃、どういうことだと怒鳴るような声が聞こえてきました」
声を上げたのは、柊家の両親。
橘家側は柊家と横の繋がりを持つことを公表し、そして令息の婚約者として奈津美を紹介した。
そこまでは良かった。
その後で橘家当主は、先日の婚約破棄からそう時間が経っていないこと、奈津美がこれまで名家とは縁の薄い家で育ったことなどを挙げ、孝之の婚約者としては認めるものの『橘家の嫁候補』として正式に受け入れるのは先送りにし、家のしきたりや最低限習っておくべきこと、知っておかなければならないことなどについて教育することを告げたのだ。
話が違うと柊家側は激怒、だがそれまで婚約者だった紗夜もこの教育を受けあっさりとクリアしたのだと告げられると、それまで黙り込んでいた奈津美が急に『あたし、認めてもらえるように頑張るね!』と声を上げた。
そのまま、パーティはなし崩しに終了。
集まった客は三々五々、手土産を持たされて帰って行った。
「…………なるほど。君の役目は、婚約が成されるまでだったわけだから……そのままでは帰れないな。それで?」
「終わるまで待って、橘氏に判断を仰ぎました。約定は果たされませんでしたが、契約期間満了なのは事実ですから。彼には帰って構わないと言われたのですが、一人になりたいから家まで送って欲しいと奈津美嬢が言い出しまして。ご両親もまだ帰れないとのことでしたので、やむなく自宅へお送りすることになりました」
「……段々表現に遠慮がなくなってきた気がするが。まぁいい、続けて」
車の中で、奈津美はぽつりぽつりと「どうして」や「頑張ってるのに」と愚痴をこぼし、それが完全な涙声に変わったころ車は柊家へと到着した。
どうぞといつものように扉を開けてやっても、奈津美は俯いた姿勢のまま動こうとしない。
仕方なく朔弥が車内を覗き込もうと身を乗り出したタイミングで、首に抱きつかれるようにして後部座席に引っ張り込まれてしまった。
『今日一日はまだあたしの護衛なんでしょ?だったら傍にいて。あたしを守って。お願い』
馬鹿力でぎゅうぎゅうと抱きしめられ、引き剥がすのに苦労しながらも彼は『今回の契約はパーティでの婚約発表までであること』や『橘氏より正式に契約終了の許可は貰ってあること』を告げる。
そして突き放すように身体を離すと、奈津美はいやいやと首を横に振ってなおも縋り付こうとしてきた。
『……好き。貴方が好きなの、朔弥』
許されないことくらいわかってる、言うべきじゃないこともわかってる、だけど気持ちは止められない。
孝之に悪いと思う気持ちはあるが、これで会えなくなるかと思うとどうしても言わずにいられなかったのだと、奈津美は泣きながらそう訴えた。
でもこれはいけないことだから、忘れるように、諦めるように努力をするから、だからせめてこの儚い恋の思い出が欲しい。
キスして、とそっと瞳を閉じた奈津美に、朔弥は黙って背を向けた。
橘孝之の婚約者として、これから『頑張るね』とあれだけの人数の前で宣言しておきながら、たった1ヶ月護衛についた警備要員に対してキスを強請る彼女が、彼には理解不能の生き物に思えて気持ち悪かった。
これまで送迎に使っていた車は柊家からの借り物だ、ならばこのまま帰ってもいいだろうと彼はそっと足音を忍ばせながらその場を立ち去ろうとして、
『待って!』
勢い良く駆け寄ってきて体当たり……もとい、抱きついてこられた衝撃で体勢を崩し、胸元に入れていたプライベート用の携帯電話がするりとポケットから滑り落ちてしまった。
カシャン、と何かが割れるような音がする。
幸い、携帯自体は壊れもせず無事だった。
だが無骨な二つ折りのそれに唯一の飾りとしてついていたガラス細工のストラップが、見るも無残に粉々となっている。
慌ててそれを拾おうとした奈津美、その肩を押し退けるようにして朔弥は膝をつき、大事そうに欠片を拾い集め始めた。
が、彼の手の行く先をエナメルピンクのパンプスが邪魔をする。
ヒールで欠片を踏みにじり、とどめとばかりに地面をザリッと擦って離れていくそれの動きを目で追って、朔弥はのろのろと視線を上げる。
そこには、怒りに顔を歪めた奈津美の姿があった。
『確かにそれは、大事な思い出かもしれない。でも、死んだ人は戻ってこない!もう、いないの!そんなものより、ここにいるあたしを見てよ!あたしはここにいる!朔弥の目の前にいるから!!』
そこで言葉を切って黙り込んでしまった朔弥。
やれやれと肩を竦めてそんな彼を静かに見つめる千晴。
沈黙を破ったのは、千晴だった。
「…………以前、そのストラップの話を聞いたことがあったな。留学している時に知り合った、大事な友人から貰ったんだろう?」
「……はい」
「その人は、今は?」
「わかりません。あの施設では皆、愛称で呼ばれていましたし……かろうじて日本人だということくらいしか。私の方が先に帰国してしまいましたので」
「そう、か」
だとしても、と千晴は続ける。
「彼女はどうして、『死んだ人』からの贈り物だと思ったんだろうな?」
「…………」
わかりません、ともう一度答えてから、朔弥は小さくぽつりと
『彼女は私の何をどこまで知っているんでしょうか』
と呟いた。
次こそ主人公が出る、はずです。