4.子ども扱いお断り
目を開けて最初に視界に入ったのは、見知らぬ天井。
…………少なくとも、これまで紗夜が寝転がって見上げたことのある、そのどれとも合致しない柔らかな木目調の天井だった。
その姿勢のままこてんと首を横へ傾げてみると大きな窓があり、レースのカーテンがふわりと風をはらんで揺れている。
ゆっくりと上半身を起こし、改めて自分の身体を見下ろしてみると、いつ着替えたのかわからないが清潔そうなライトブルーのパジャマを着ており、そのパジャマにもやはり見覚えはなかった。
直近の記憶を思い出してみる。
自分を罵る6歳年上の婚約者、その隣で「いじめられた」と泣く自称友人、唾を飛ばして出て行けと罵倒する親。
そしてそれらのショックを一度に処理しきれず、意識を失ってその場に倒れてしまった自分自身。
(あー……うん、思い出した。あの時確か、誰かが支えてくれたような気がするんだけど)
ここは、どこなのか。
軽く見渡した部屋の感じからして病院でないことは確かだし、あんなことがあった以上実家や橘家、そして天羽家でもないことはほぼ間違いないだろう。
だとするなら、可能性はそれほど多くはない。
とあるひとつの可能性に行き着いたところで、コンコンと軽いノックの音が響いた。
「起きていらっしゃいますか?」
「あ、はい」
「失礼致します」
入ってきたのは、膝下丈のシンプルな紺のワンピースを身にまとった、30代半ばほどの女性。
彼女は素早く身を滑り込ませて扉を閉めると、その前で丁寧に一礼した。
「おはようございます。わたくし、当家……久遠家にて女性の使用人を取りまとめております日下部 菊乃と申します」
「……柊紗夜、です」
「紗夜様、目覚められたばかりで色々とお聞きになりたいことがおありでしょうが、先にお支度を整えさせていただいてもよろしゅうございますか?」
「お支度、ですか?…………え、と……はい。お願い、します」
紗夜は、戸惑いながらも瞬時に『この場合何が最良の選択か』を弾き出し、ぎこちなく頭を下げた。
(久遠家……ってことは、うちの本家にあたる四条家と同等の『数字つき』の家ってことだよね)
その久遠家に、なぜか自分は『保護』されている。
確かにあれこれと聞きたいことは山ほどあるが、それはパジャマを着替えて顔を洗ってからでも遅くはないはずだ。
問題があるとすれば、『お支度を』と着替えを手にしている菊乃だ。
これまで朝の支度を誰かに手伝ってもらった経験などまるでない紗夜は、反射的に「自分でできますから」と断りそうになって……だがそれでは使用人の仕事を奪うことになってしまうとすぐに気づき、抵抗はあるものの大人しく手伝ってもらおう、と立ち上がりかけたベッドに再び腰掛けなおした。
日本に戻ってからは基本的に外に出ることを禁じられていたため、髪は部屋付きの使用人によって定期的に切り揃えられていた……が、適当にやられていたことが丸わかりだった。
後ろ髪は伸ばしっぱなしで、前はガタガタ。
厚みのある無駄な髪も梳かずにそのまま、結果的に重苦しく陰気なイメージを与えていた。
おまけに着る服といえば分家の誰かのおさがりか、流行遅れの古着、もしくは兄である優の着古したものばかり。
かろうじて婚約者の家に出向く時やパーティなどではドレスをあてがわれるが、レンタルの既製服であるため『服に着られている』感が否めない。
であるからか、周囲は彼女の『素材の良さ』を知らない。
きちんと丁寧に梳けば艶々のサラサラになる黒髪も、気が強そうなつり目だと言われたその目が理想的なアーモンド形をしていることも、多少栄養不足なこともあって他の同年代と比べて華奢な体格も、めったに外に出ないからか透けるように白い肌も。
そこそこ整った顔立ちの優と、パーツパーツは似ているものの配置のバランスが絶妙であったお陰で、可愛いよりも綺麗という表現が似合う顔立ちであることも。
手を加えないもっさり感に騙された周囲の人々、そして元から彼女を真っ直ぐ見ようともしない『家族』達は、自分達がどれだけもったいないことをしていたのかまだ知らない。
「さ、できましたわ」
トン、と軽く肩に手を置かれた感触に顔を上げると、唖然としたように口を半開きにしながら見つめ返してくる……黒髪の美少女がいた。
その顔立ちは、パッと人目を惹く絶世の美少女というわけではないものの、ぽかんと間抜けな表情をしていても『綺麗な』という表現の範囲内に余裕で入れるほどだ。
紗夜は片手を肩の高さに掲げ、次いで首を傾げ、ぺし、と軽く頬を叩いたところで、その美少女が自分自身だとようやく納得するに至った。
「どうなさいました?」
「…………『キレイは作れる』ってキャッチフレーズ、本当だったんですね」
「お言葉を返すようですが、紗夜様は今の状態が普通なのですわ。お望みなら、傾国の美少女レベルの『キレイ』をお作りすることもできますが」
いかがなさいます?と真顔で問いかけられた紗夜は、慌てて首を左右に振って鏡越しに否定の意思を伝えた。
先導されて、連れてこられたのは大きな扉の前。
中からいい匂いが漂ってくることから、食堂かな?と紗夜はこっそりあたりをつけてみる。
何故か菊乃の背後にかばわれ、彼女が扉を開けたその瞬間
「ああ、菊乃さん!あの子の様子はどうだい?ほら、ここ3日も眠りっぱなしじゃないか。いくらあの馬鹿どもの所為でショックが大きかったとはいえ、そろそろ医者に見せるべきじゃないかな?それともやっぱり、あの大馬鹿者達を纏めて潰してこようか?それを手土産にすれば、紗夜も目を覚ましてくれるんじゃないだろうか。いやいや、そういう浅慮はダメだな。ここはあの子の『兄』として威厳たっぷりにじわじわと追い詰めて、自分達が何をしでかしたのかわからせてやらないと。以前は他人だったから手を出すきっかけがなかったが、これからは『妹』を護るという大義名分があるんだからね。這い上がれないほどのどん底に突き落としてやろう。特にあの、柊と養子縁組したっていう調子に乗った小娘、あれには最高の屈辱を与えてやらなきゃ気がすまない。さあどうしようか?……僕が直々に誘惑して捨ててやってもいいんだけど、そうなると紗夜に嫌われそうだしな……ああそうだ、紗夜!まずはあの子の目が覚めてからだ。これまでが夢だったと思えるくらいに、可愛がって可愛がって大事に大事にしてあげないとね。……ん?なに変な顔をしてるんだい?スカート?スカートに一体何が…………っ、さ、紗夜!?」
怒涛の勢いでぺらぺらと喋りだした男性の顔に、紗夜は見覚えがあった。
あの婚約破棄をされたパーティの場で、明るい茶髪の男性と一緒に壁にもたれて退屈そうにしていた……会場の一部の女性達の注目をあびていた男性だ。
あの時オールバックにしていた髪は今はゆるりとおろされていて、20代半ばほどに見えていた外見は10代後半と言っても通じるほどに幼く見える。
髪は黒、瞳は鳶色、と日本人ならありがちな色彩。
顔立ちはあの場の女性達が見蕩れるほどには整っているが、その残念すぎるマシンガントークがすべてを台無しにしている。
「…………残念なイケメン……」
「ざっ、残念!?」
「……だそうですわ、お坊ちゃま」
無意識にぽつりと呟いてしまった紗夜の一言に、目の前の『お坊ちゃま』と菊乃に呼ばれた男性はがっくりとその場に膝をつき、顔文字などでよくある四つんばいのポーズで項垂れてしまった。
それから30分後、
家族用のプライベートダイニング、そのテーブルを挟んで向かい合う男性と紗夜の姿があった。
どうして30分もかかったのかというと、早い話が『朝食』を先に摂ったというだけだ。
その間男性は話をしたそうにチラチラと紗夜に視線を向けていたが、食事中に談笑するという習慣のなかった紗夜にさらりと無視されていた、というのは全くの余談である。
「えー……改めまして。久遠家現当主、久遠千尋の一人息子にして次期当主候補の久遠千晴、26歳です」
「柊、紗夜……12歳です」
「紗夜、と呼ばせてもらうけど構わないかな?」
「はい」
「では紗夜、君の置かれた状況についてはさっきの……あー……僕の自爆で大体わかっただろうと思う。その上で、聞きたいことや言いたいことがあれば先に聞くよ」
どうぞ、と促されて紗夜は脳内の情報を整理してみた。
あの時倒れた紗夜を支えてここまで連れてきたのは、目の前にいる久遠千晴。
ここは『数字つき』の家である久遠家、久遠千晴はその次期当主候補。
紗夜はあのパーティの場で婚約破棄と同時に家族にも縁を切られ、そんな彼女を久遠家はこの千晴の妹として養子縁組してくれた。
そして、橘家と縁を切らないようにと、柊家は天羽奈津美を養女として迎えた、ということらしい。
(誰も彼も、勝手過ぎる。私の意志なんて…………あぁ、日本じゃ未成年の子供に意思決定権はなかったっけ)
ないことはないが、保護者の同意が必ず必要になる。
そういう点では、欧米の方がまだマシだったな、と紗夜はそっとため息をついて顔を上げた。
「建前や愛想は結構です。私を養子縁組してくださった理由について、お聞かせ願えますか」
可愛げがない、年相応に見えない、とはよく言われた。
確かにそうなんだろう、と彼女自身そう思う。
同年代ですらないが、まだ奈津美の方が余程可愛げがあり子供らしい顔ができる。
血の繋がった家族たちも、そして一時期だけ婚約者だった孝之も、奈津美のそんな愛らしさに惹かれ、紗夜の妙に大人びた顔を嫌ったのだろう。
紗夜のことを嫌いだったからこそ、奈津美が訴えた『殴られた』だの『階段から突き落とされた』だのといった事実無根な罪状に対し、紗夜がやったに違いないと決め付けていたのだ。
そんな自分だから、久遠家があっさりと養子縁組を決めたことに対しても、何かあるに違いないと紗夜は確信している。
久遠家は数字つきの家の中でも官僚一族と名高く、血縁者であっても無能者は容赦なくたたき出すという実力主義を掲げていることは有名だ。
だとしたら、紗夜の中の何かが利用できると踏んで縁組したと考える方が、『捨てられて可哀想だから』という理由よりは余程しっくりくる。
千晴はそんな紗夜の諦めを含んだ視線を痛ましく感じながら、それでも彼女の心に沿うべく重い口を開いた。
「君を引き取った理由は大きく分けてふたつ。そのひとつはね、君の考えている通りだよ。我々は……いや、僕は君の持つ能力に可能性を感じてる。もっと明け透けに言えば、僕が当主となるのに利用価値が高いとも思っている」
「やっぱりそうでしたか」
「…………だけどね。信じてもらえなくても構わない、もうひとつの理由は本当に君の事を気に入ったからなんだ。同情もあったし、友人からの助けを求める声もあった、だけど僕自身が、そしてうちの両親が君を気に入った、そういう理由もあるんだってことは忘れないで欲しい。僕はね、君の『兄』になりたいんだよ」
「………………」
『兄』なら間に合ってます、とは紗夜も言えなかった。
随分と早い頃から、血の繋がった兄を『兄』だとは認識していなかったのだと、この時初めて紗夜はそのことに気づかされて愕然としてしまった。