2.密談はパーティの後で
「ああ、おかしい。見たかい、あの時のあいつらの顔。ぽかんと目と口を見開いて、まるで埴輪……と言ったら埴輪が気を悪くするかな、うん。間抜け極まりない顔だった」
くすくす、くすくす。
抑えようとしてそれでも抑えきれない笑い声が、とある黒塗りの高級車の中に響く。
男はパーティのためにと撫で付けた髪をくしゃりと乱し、ついでにネクタイも緩めて「あーあ」と寛いだように後部座席にもたれ掛かる。
そして思い出したように、膝の上に頭を乗せている少女の髪を何度か撫で、少女が動かないのをいいことにその手を頬にまで滑らせたりしたところで、斜め前方から「千晴」と咎めるような声がかかった。
「いくら気絶しているからって、セクハラはそのくらいにしておけ。その子はまだ『うちの子』じゃないんだぞ」
「ああ……だったらさっさと真崎先生に言って、うちに養子縁組してしまわないと。父さんの許可はもうもらってあるし、娘が欲しかったっていう母さんなんかノリノリだしね」
「そうか。可哀想に、俺にはこの子がお前ら親子に構い倒されて苦労する未来が見えるようだよ」
「酷いなぁ。少なくとも、あんなネグレクトな両親やら、ビッチであざとい自称友人やらがいる環境よりは、数倍マシだと思うけどね」
そうだな、と応じる声は冗談交じりだった先ほどとは違って苦々しげだ。
『彼ら』は、紗夜のおかれた状況をかなり前から知っていた。
元々は、あの両親が溺愛してやまない紗夜の年の離れた兄と、柊家の遠く離れた本家にあたる四条家のご令嬢が同級生だったことから、話は始まる。
紗夜の兄である柊 優は、幼い頃から愛想がよくて賢しい子供であり、周囲の特に大人達には「よくできた子供」「躾のいいお坊ちゃん」だと人気が高かった。
彼自身どうすれば褒めてもらえるのか、どうしたら庇ってもらえるのかをよくわかっていたようで、そこそこの学力を示してエスカレーター式の学校に入学してからも、周囲の反感を買わないように『力のある者』を味方につけるように立ち回っていた。
そんな彼が生まれて初めて抱いた危機感、それが年の離れた妹の誕生である。
紗夜、と名づけられたその赤子は優の時のように夜泣きもせず、周囲の手を煩わせることもなく、大人しく、好き嫌いもしない手のかからない子供として、使用人たちには好意的に見られていた。
両親も、我侭放題だった優に比べて手のかからない紗夜を好ましく見ているフシがあり、それが優には自分の地位を脅かす存在と映ってしまったようだ。
彼は、妹を敵とみなした。
そしてある日、勉強する兄の真似をして本を読み始めた幼い赤子を突き飛ばし、彼は何事かと駆けつけた両親に向かって、アレはなんだ、気持ち悪い、赤ん坊のすることじゃない、と涙ながらに訴えた。
最初こそ「お兄ちゃんの真似をする可愛い妹」なんだと息子をなだめた両親だったが、本を与えておけば一日上機嫌だとか、最近ではニュース番組を見ながら首を傾げているだとか、そういった微笑ましい報告を聞くたびに、どういうわけだか息子の涙の訴えが頭をよぎるようになり、ついには『うちの二番目の子はどこかおかしいのかも』という疑念に取り付かれるようになってしまった。
そこからは、息子の思い通りである。
周囲になじめない子供、どうしても同年の子供の間で浮いてしまう子供、そういった子供達を集めて教育しているという世界的に有名な研究施設、その噂を聞きつけた両親はまだ物心つかない娘をその施設に放り込んでしまった。
娘に好意的だった使用人も辞めさせ、残った者達には硬く口止めをして。
ただ一人、黙っていられなかった者がいる。それが、妹を追い出した当人の優だ。
彼は、さも罪悪感にかられているという風を装って、同級生であった四条 由梨絵に対して『自分には妹がいる』『幼い自分の小さな告げ口から、妹は海外にやられてしまった』と嘆いてみせた。
「妹は、兄である僕が言うのも変な話だが……ちょっと変わった子でね。まだ1歳にもなっていないというのに、冷めた目で僕や両親を見ているし、子供番組よりも教育番組を見たがったりして。僕は……怖かったんだ、そこにいるのは妹のはずなのに何だか……別の生き物になってしまったみたいで」
さあ、同情してくれ。僕は可哀想だろう?
そう言いたげな告白に、だが由梨絵は心を動かされなかった。
代わりに動かされたのは、『別の生き物』だと実の兄に認定されてしまったらしい妹に対する憐憫の情。
由梨絵には、兄とも友とも呼べる存在がいた。
同年代で生まれた『数字つき』の家の子供達は定期的に顔を合わせる機会があるのだが、由梨絵の代での同年代は『梧桐』と『久遠』の二家のみ。
『一宮』の後継は彼らよりも10歳以上年上で、『二』『三』『六』『七』の家はここにくるまで既に名ばかりの名家になってしまい血は途切れている。
『八』の家である『八雲』の後継は先日挙式をあげたばかりでまだ子はおらず、結局集まるのはいつも四条家のご令嬢である由梨絵、『梧桐』の嫡男である梧桐 拓真、そして『九』の家である『久遠』家の嫡男である久遠 千晴の三人だけだった。
妹のように可愛がっていた由梨絵から相談された彼らは、早速柊家について調べ始めた。
そして知ったのだ。
柊紗夜という名の、当人はなにも関係のないところで周囲にただただ翻弄されるしかできない、幼子のことを。
「……しっかしあの橘の馬鹿息子はものの見事にビッチに転んだな。それも計算のうちとか言うなよ?」
「まさか」
ふ、と千晴は口元に意地の悪い笑みを刻みながらも、拓真の言葉を否定する。
まだ幼い子供をあっさりと手放し、海外の研究施設へと丸投げしてしまった柊の両親。
それで済んでいればまだ良かったものを、家同士のつながりを欲した彼らはちょうど家格がつりあう橘家の息子の嫁にと、ようやく『家族』のいない生活に慣れてきた『娘』を無理やり呼び戻し、政略の上での婚約という関係を結ばせた。
申し出る方もどうかしているが、それを受ける方もどうかしている。
こうして家同士の繋がりという細い糸で結ばれた婚約関係は、結果的に橘家の馬鹿息子こと孝之の婚約破棄宣言によって、切り離されてしまったのだが。
「思春期の若者なんて、発情期の犬とそう変わらない。その檻の中に同じく発情期のメスを放り込んだらどうなるか?……答えはわかりきったことだろう?婚約者にはどうあっても手が出せないんだ、手の届く位置にいる尻尾を振ったメス犬に靡くのもごくごく自然な成り行きだったってことさ」
「メス犬の方は他のオスも狙ってたようだったが?」
「ああ。だからあの馬鹿息子も言ってただろ?『彼女は人気者だから』って。要するに他の男に取られまいと早々に飛びついて腰を振って……っとと、これ以上はセクハラかな?」
「今更だろ」
天羽奈津美は、実にあざとく巧妙に紗夜の周囲に取り入っていった。
まず最初に篭絡したのは他ならぬ、紗夜にコンプレックスを持っている兄の優。
その優を通じて柊家の両親に取り入り、そして帰国した紗夜に接触しわざと我侭放題に振舞ってみせた。
そして生真面目な紗夜が「そういうのはいけないと思うけど」とやんわり苦言を呈するのを聞き、大げさに嘆いてみせる。
そうして周囲の同情を買い、半面で紗夜の評判をどんどんと落としていくのだ。
そんな彼女が孝之に近づいたのは、紗夜のことがあったからなのか他に理由があったのかはわからない。
だが彼女はあっという間に孝之に取り入り、孝之が会長として取りまとめる生徒会のメンバー達にも気に入られ、常に周囲を囲まれるまでになった。
その姿に反感を抱く者ややんわりと忠告する者もいたらしいが、彼ら・彼女達は生徒会メンバーによって断罪され、学園から姿を消したというから驚きだ。
まるで乙女ゲームみたい、と呟いたのは誰だったか。
それを言うなら二次創作の方だな、と千晴と拓真も苦笑しながら同意したものだ。
ピリリリリ、と今時珍しいデフォルト音を奏でる携帯電話をつまみ上げ、千晴は一言二言うんうんと相槌を打ってからそれを元通りポケットへと落とす。
「真崎先生からだ。養子縁組の書類が準備できたから、明日にでも先方の家へ出向いてサインを貰ってくる、と」
「さすが、久遠家の顧問弁護士は仕事が速いな。だが相手が『久遠』だと知って、先方の馬鹿親がごねたりしないか?」
「それも計算のうちさ。真崎先生の前職を忘れたのか?うちのお祖父様に憧れてネゴシエーターの資格を取った、っていうベテランの交渉人だぜ」
「そうだった。愚問だな」
「そういうこと。この子が『うちの子』になるのも、まぁ時間の問題ってとこだな」
そう言うと、千晴は未だ気絶から回復しない華奢な少女の身体がシートからずり落ちないようにと支え直し、ぽんぽんと軽くその頭を叩いてやった。
久遠家は数字つきの名家のひとつだが、『九』の字を『久』に擬態していることからもわかるように、表舞台に華々しく登場するような家ではなかった。それは『五』の家である『梧桐』も同様だ。
一時は他の『二』や『三』のように名ばかりの名家として没落寸前まで行ったものの、何代目かの当主が警察官僚であったこともあり、そこから警察官僚一家として徐々に力を取り戻していき、今では政財界、官僚社会に顔のきく家としてその筋では有名な一族だと恐れられるまでになっている。
梧桐の家も一時期はかなり力を失っていたが、これも何代目かの当主が四条の当主と交流を持つようになって以降、家族ぐるみの付き合いが続いており、当代の由梨絵と拓真は婚約者同士という間柄である。
それはさておき、そんな久遠家に娘が引き取られるのだとあの両親が知ったらどうなるだろうか?
きっと、あれだけ醜態をさらしておきながら『自分たちの娘だから』という理由だけで、久遠家との繋がりを求めるに違いない。
そんなことはわかった上で、だからこそ有能な交渉スキルを持つ弁護士の真崎に手続きを一任した、というわけだ。
「生まれて早々に親に見捨てられ、かと思えば政略の道具に使われ、その相手には裏切られ……挙句に公の場で縁切り宣言され……この子が何をしたって言うんだろうな。まだ、こんなに小さいのに」
「……この子が賢すぎたんだろ。いわゆる天才児ってやつらしいからな。あちらの施設で年上達に混じって教育を受けた影響か、年のわりに妙に大人びてるし。本当ならまだ…………」
「ああ」
さらさらと手触りのいい髪は混じりけのない黒。
長いまつげが縁取る双眸は、今はまぶたの下に隠れてはいるが綺麗な琥珀色をしている。
同年代の子から見ても細く、長い手足。
ドレスを身にまとったその華奢な身体に目立った凹凸はまだなく、彼女が足を投げ出して横になっていても車のシートにはまだ若干の余裕がある。
柊紗夜、12歳。
世間ではまだ『ランドセル』を背負って小学校に通っている年齢であり、婚約者であった橘孝之とは6歳違いという幼い少女は、まだ意識を夢の中にさまよわせたまま。