12.名家達の黄昏
まとわりつくような視線の主が柊奈津美だと最初に気づいたのは、紗夜の方だった。
まだ彼女が『柊紗夜』と名乗っていた頃、時折感じたねっとりと絡みつくような不快な視線……その先にはいつも、隣家から遊びにきていた奈津美がいた。
紗夜と視線が合うとすぐにそれは逸らされてしまい、そして紗夜が他所を向くとまた自分を追いかけてくる。
その時の視線と全く同じなのだ、そう朔弥に告げると彼は「試してみましょうか」と悪戯っぽく微笑み、不意に紗夜の身体を自分の方へと引き寄せた。
ガンッ、と硬い何かを蹴ったのか殴ったのかしたような音、そして遠くからゴホゴホと咳き込む声。
何事かと周囲を歩く人々がそちらに視線を向けたのと、朔弥が紗夜の腕を引いてその場から離れたのがほぼ同じタイミングだった。
「…………あれ、奈津美さんだった、よね?」
「ええ。後を付回していたのも彼女でしょう。ただ……腑に落ちませんね」
「なにが?」
「千晴様に伺った限りでは……彼女、現在入院中のようなのですが。どうして毎日のように外出できているのでしょうか」
「入院?」
紗夜が思い出せるのは、いつも溌剌と柊家にやってきていた彼女の姿。
お手伝いしますと母を気遣い、大変ですねと父を労い、大丈夫ですよと兄を励まし、そして実の娘以上に『家族』になってしまった奈津美。
孝之と一緒にいる時の彼女はまた別の顔を見せていたのだろうが、それでも突然入院とは彼女に一体何があったというのだろうか。
首を傾げて問いかける紗夜に、朔弥は言いにくそうにしながら、だが隠すことなくこう答えた。
「……彼女は妄想癖があるようでして。私が彼女の元を訪れるのだと、信じて疑っていなかったそうです。連夜のように外に出て私を待ち続け、そして肺炎をこじらせてしまったと聞いてます」
「……バカか、その女」
「遥貴、さすがにバカはないだろう?彼女きっと、ゲームが好きすぎて現実との区別がついていない痛い子なんだよ。ほら、よくあるだろ?大好きなゲームの世界に自分を登場させるっていう、夢小説みたいなやつ」
「知らん」
「や、そりゃ一宮の当主に夢小説大好きですってカミングアウトされたら、さすがに引いちゃうけどさ」
「…………そろそろ話に戻らせていただけますか、お二方。紗夜がびっくりして固まっているじゃありませんか」
冷ややかな千晴の指摘に、新婚気分がまだ抜けない八雲の当主はすまんと素直に謝り、そんな彼と同い年である一宮の当主は、フンと鼻を鳴らして視線をそらしてしまった。
同席していた梧桐家次期当主の拓真、そして四条家ご令嬢の由梨絵は、『妹』のことになるとキレやすくなるこの友人に、労りと呆れを混ぜた視線を向けるしかできない。
元々この場は、紗夜が望んだからこそ実現したものだ。
紗夜は大概のことは朔弥に相談して決着をつけてしまうが、今回のことは朔弥や自分に寄ってくる有象無象の処理ではなく、元実家に関わる内容であるため彼女はまずそれを『兄』である千晴に相談した。
当然、『妹』に頼られた『兄』は喜び勇んで話を聞いたものの……そのあまりの不快感に顔をしかめ、ならば友人達も巻き込んでしまえと拓真や由梨絵に声をかけた。
と、そこまでは普段どおりの集まりだったのだ。
しかし、どうしてだかこの友人達とは10歳以上年の離れた一宮と八雲の当主が首を突っ込んできた。
理由を聞いてみると、紗夜が妙に気に入られたシャーロット・リエ・クローディアスという女性の実家、七瀬家は今はもう形すら残っていない『七』の家であった、というのだから驚きだ。
とはいえ、紗夜は『七瀬』と聞いた瞬間にもしかしたらと思い当たっていたし、驚いたのはその兄と友人達だけだったのだが。
『七瀬家の女傑には我々も教えを乞うたことがある。その女傑が気に入った娘なら、我々も力を貸そうと思ったまでだ。礼はいらん』
かくして、これまで一堂に顔を合わせることなど稀だった数字つきの名家の当主及びその子息令嬢は、こうして紗夜という少女を囲んで顔を突き合わせることになったというわけである。
「柊奈津美がバカで電波だというのは今更として……問題は、入院中のはずの彼女がどうして自由に外出できているのか、何故紗夜さんの行き帰りに時間を合わせて尾行できるのか、ということですね」
「それなんですが……よろしいでしょうか?」
拓真が代表して話を元に戻したところで、紗夜の肩を抱くようにして隣に寄り添っていた由梨絵が、おずおずと口を挟んだ。
「確証はございませんので、あくまで予想として聞いてくださいまし。……紗夜さんは大学1年生、しかも入学して間もないのですから今は一般教養期間ですわよね?」
「……はい」
「でしたら、行き帰りはほぼ毎日同じ時刻になりますわ。このことをご存知なのであれば、尾行するのは容易いですわね」
「肺炎で入院中の彼女が、毎日病院を抜け出して尾行していると?」
「いいえ。病院をどうやって出ているのかまではわかりませんが……ただ、尾行は不可能ではないと思いますの。だって、彼女の婚約者もまた大学1年生ですもの。違う大学だといっても、カリキュラムにそう違いはないはずですわ」
(あぁ……そういうこと、か。確かに、あの大学に向かう通り道としてなら……)
孝之の通う附属大学は、紗夜の通う名門大学よりも更に郊外にある。
孝之の家から大学までの道のりを考えると、どう頑張っても紗夜の通う大学へ向かう道は通らない。
だが奈津美の入院している病院が橘家と久遠家の途上にあったらどうだろう?
だとするなら紗夜の通う大学へと道のりを尾行し続けることは不可能ではない。
つまり由梨絵が言いたいのは、今は紗夜と同じ時間帯で動いているだろう孝之が、毎日奈津美を病院まで迎えに行き、そして車に乗せてあえて紗夜の大学に向かう道を通りながら、自分の大学まで連れて行っているということ。
そこで奈津美が一度病院に戻っているのか、それとも大学の医務室ででも休ませているのかまではわからない。
だがそう考えるなら、毎日同じ時間にあの視線を感じる理由の説明がつく。
と、それまで難しい顔をして黙り込んでいた八雲家当主、八雲 慶介が「ちょっと失礼」と言い置いて席を立ち、どこかに電話をかけ始めた。
その間、時間にして数十分。
待っている間に話を進めるのもダメだろうと言い出した千晴の提案で、場は紗夜の好きそうな映画の話題だったり、紗夜が興味を持ったという犯罪心理学の話題だったり、七瀬の女傑と言われたリエの思い出話だったり、とにかく紗夜を中心として大人達が彼女のご機嫌を取りたがるという奇妙な構図となってしまった。
紗夜本人は物珍しさ故だろうと切って捨てていたが、実際に見た目以上に気難しくて人間不信気味の名家の子供達が、こうまで誰かを気に入るというのは非常に珍しい。
そこには興味本位だったり庇護欲だったりそれ以上の感情であったり、十人十色の感情が渦巻いていたのだが、行き着く先はこの不遇な少女をどうにかして甘やかしてやりたい、これまで与えられなかった愛情を注いでやりたい、その一心である。
「その電波ちゃんの不可解な行動の理由がわかったよ。……って、人がせっかく調べものに精を出してるってのに、その間にお嬢ちゃんを取り囲んでなにやってんの?そういうのは俺も混ぜて欲しいんだけど」
「……わかった、後で時間を取る。だからその調べものの結果とやらを早く教えろ」
「なんか遥貴に仕切られるのも面白くないなぁ。ま、いいけど。その電波ちゃん、うちの系列のそのまた下にある個人病院に入院してたよ。最初は柊の目の届く総合病院だったらしいけど、急に転院させられたらしい。個人の病院だから入院施設は整ってないはずなんだけど、そこは橘の力を使ってねじ込んだらしいね」
八雲家は名の知れた総合病院の創立者一家として知られており、直系列以外にも病院関係に色々と顔が利く。
その伝手を使って、慶介は奈津美がどこに入院しているのか、どうして毎日のように外出できるのかを調べさせたのだ。
「橘の力と言ったところで、孝之はまだ大学生です。家の力を使うには当主の口ぞえが必要なはずですが、確か電波少女はまだ正式に家に認められたわけではなかったはず。……どうやって……」
「頭でものを考えるのはいいことだが、考えすぎるとドツボに嵌るよ千晴君。答えは簡単、孝之は橘の名前を使ってその病院長を脅しただけってこと。実際に橘家当主の許可がなくてもそれくらいはできるだろう?」
「……虎の威を借る狐、というわけですか?」
「そういうこと。……さて、大分見えてきたけどまだわからないところがあるかな?紗夜ちゃん」
視線を向けられた紗夜は、それまでに与えられた情報を纏めながら、ゆっくりと口を開いた。
「尾行をしていたのは奈津美さん本人。その彼女を病院から連れ出してわざわざ転院させてまで、孝之さんは彼女の思い通りにさせている。彼女を毎朝乗せて大学まで向かい、帰りにはまた同じようにして病院へと送っていく。だからたまたまカリキュラムの同じである私の行き帰りに時間が合う、ということまではわかりました。でも……孝之さんはどうしてそうまでして、奈津美さんの願いを叶えるのでしょうか?」
孝之は、家に押し付けられた婚約者であった紗夜よりも、自らが惚れ込んだ奈津美を選んだ。
そのことから、紗夜にはもう興味などないのだとわかる。
そんな惚れ込んだ相手を婚約者にまでしておいて、だがその婚約者がねちっこいほどの視線を向ける紗夜と朔弥……主に恋敵であろう朔弥に毎日会いに行きたいという奈津美を、どうして許したりしているのか。
いくら奈津美が朔弥の名前を出していなかったとしても、送り迎えする彼ならとっくにその視線の先にいる者に気づいているはずだ。
なのに、何故?
問いかけられた大人達は一瞬互いに顔を見合わせた。
紗夜と同じ女性である由梨絵は答えが見つからなかったのだろう、ゆるゆると首を横に振りわからないと示す。
残された男性陣のうち、惚れに惚れて積極的に嫁をゲットしたという八雲慶介は、うーんと腕を組んで唸りながら、ぽつりぽつりと自分の考えを口にした。
「参考にならないかもしれないけど…………男ってのは欲張りな半面とても臆病な生き物でね。愛した女の視線を独り占めしたい、閉じ込めてしまいたいと思う半面、彼女に嫌われたくないからご機嫌を取りたい、いつも笑っていて欲しいなんて思うんだ。孝之君も、もしかしたらそうなのかもしれないね。独り占めしたいから転院させて閉じ込めて、だけど彼女に嫌われたくないから君達をつけ回すなんて行動に手を貸している。その気持ちは、男としてわからなくもない。……だけどね」
それまでへらりと軟派な態度ばかり見せていた彼が、ふと表情を引き締めて心配そうに紗夜を見つめる。
と同時に、場の空気もピンと張り詰めた。
「紗夜ちゃん、そして千晴君にも忠告を。恋する男はバカ以下に成り下がるけれど……その気持ちが爆発したら、きっと惨事が起こる。ただつけてくるだけだから、そうやって放置しすぎたらとんでもない爆弾を落とされるかもしれないから、気をつけて」