さいかい
「あっ……く、ぅ」
幼い少年は耐えきれずに苦悶の声を洩らす。
蝋燭のように白く細い首には頑丈な枷。
それに繋がる鎖を、見えない何かが引っ張っていた。
――ジャック、ジャック、約束が違うじゃない?
「っ……」
地を踏めない足は宙をもがき、首吊り状態の少年はその黒い瞳に涙を滲ませた。
瞬間、鎖を引いていた何かの力が消え、少年は地に倒れ伏す。
「ぅ、えほっ、かはっ……っ、ぁ……!」
肺に雪崩れ込んだ酸素に咽返ったのも束の間、今度は後ろに鎖を引かれる。壁に打ちつけた頭を庇うことすら出来ない、背中を浮かす事も出来ない程の、強い強い力。
少年を殺さんと首を絞めつける枷に爪を立てるが、それは硬い首輪よりも細い首筋に食い込み傷をつけた。
――ジャック、ジャック、なんのつもりなの?
――またジャック・×・××××に戻りたいの?
「ちが、っ……く……ぅ、あ、ぁっ……!」
ぼろぼろと涙を零しながら喘ぐ少年の首を、見えぬ力はようやく解放する。再び押し寄せる空気に背を丸めて咳き込み、少年は激しく肩を上下させた。
「は、っ、あ……は……っ、はぁ…………っ……」
自らの首を抑え、息を整える。
壁に手をつきふらふらと立ち上がると、視界を掠める瞳と同じ黒色の髪を押さえた。
目の端に残っていた涙を腕で拭い、深呼吸をする。
まだ少し、苦しい。
瞳を閉じ、街に飽和しているそれとは違う自分だけの闇の中で、彼はもう一度深く息を吸った。
「……」
やがて、少年は歩き出す。
まだ安定しない足取りのまま、真黒の双眸には確かな意志を宿して。
◆
「もーアリスったら、ひどいよね! あたしはすぐ『あ! アリスだ!』って分かったのにさっ、全然分かってくんないんだもん! あたしそんなに顔変わった?」
「カボチャかぶってるから顔見えないんじゃないかって事を考えず話しかけてくるあたり流石ベッキーだよ全然変わってない」
「かぼちゃ? ……あ! そうだった! なんだぁ~だから分かんなかったのかぁ~」
「それ視界に入ってないの?!」
くだらないやり取りを繰り広げるうち、さっき鏡の中の『オレンジの光』に自分が抱いた印象に納得した。
暖かさ。
懐かしさ。
ああ、まんまベッキーじゃないか。
相変わらず不自然な程に大きな月の下、今度はわたしが彼女に文句を言う。
「来るなら来るって連絡してよね」
こんな所とはいえたまたま会えたからいいものの、遊びに来てくれたのに予定が入ってて会えなかったなんてことになったら悔しくて眠れない。
ロンドンに来る、もしくは来てるなら事前に電話一本くらい欲しかった。
まあ会えたからいいけど。
「……? 来るって、ここに? そんなのムリだよ、あたし気づいたらここにいたんだもん」
「……? 寝てる間に来たとか?」
「……? そうかもしれないけど、あたし家から出てないし分かんない」
「……? ベッキー何言ってるの?」
「……? どういうこと?」
…………。
まーかみ合わねーかみ合わねー。
何の話してたんだっけってレベルで話がかみ合わねー。同じ国の言葉のはずなのに、ある意味奇跡だね。これはもう。
どう言えば伝わるだろうと真剣に考えていると、ベッキーが首を傾げ不思議そうな声でこう言った。
「ねぇアリス……ここはたぶん、ロンドンじゃないと思うよ?」
「え?」
「だってあたしホントにさっきまで家にいたんだよ。ロンドンになんて来れないよ」
「そ、そんな訳ないよ! わたし――」
言いかけて、口をつぐんだ。
わたしだってさっきまで近所の街道を歩いていたはず。だからわたしがベッキーのもとに行ったなんて、そんなことは絶対に有り得ない。だけど彼女の主張はわたしと同じだ。
それって一体、どういうこと……?
「もしかしたら、異世界に落ちてきちゃったのかもねっ」
「出たメルヘン思考!」
「だってそうとしか考えられないじゃん、あたしもアリスもじぶん家にいたんだからさー」
「……」
確かに、そうだけど。
だからって異世界はない。有り得ない。
「そんな非現実的なことある訳ないじゃん」
かぶりを振りピシッと言い放つ。
十二歳はおとぎの国を信じていて許される年齢じゃないのだ。
とは思うものの、少し言い方がきつかっただろうか、ベッキーは押し黙ってしまった。
しかし、少しの間ののち気付く。
ふるふると微かに揺れる彼女の肩。
つり上がったカボチャの口角――は元々か。
……え、コレ笑ってね?
わたし笑われてね?
「……アリスも相変わらずだねぇ……! ふふ、ふふふふー」
「わっ、笑わないでよっ! てか分かりづらいな表情が!」
「あはは、ごまかしてるー」
かあっと頬が熱くなる。
やっぱ笑われてたうあああー!!
「でもねー、あたしここ来れて良かったよっ」
恥ずかしさに顔を覆いたくなるような心境のわたしをよそに、きゃっきゃっと嬉しそうにベッキーは言う。足取りもたんたんと踊るように軽い。
白いブラウスに黒いリボン、黒いワンピースに黒いタイツ。顔をカボチャが覆っていることもあり、肌はブラウスの上のわずかに見える首もとだけだ。
やたら黒ずくめ姿の彼女は、やっぱり黒いスカートをひらりと舞わせ楽しそうにこう言った。
「だってアリスに会えて嬉しいもん!」
ねっ! と首を傾げる彼女にわたしも微笑む。
「……それもそうだね」
そう言った、瞬間。
(――――っ……?)
違和感。
とっさに口元を押さえる。
「アリス? どうしたの?」
「……なんでもないよ」
「そお?」
あれー何の話してたんだっけー、とベッキー。
何の話をしていた?
いや、問題はそこではない。
わたしが彼女の話に相槌をうった時、一瞬で、一瞬だけ、わたしを取り巻いた奇妙な浮遊感。それから何か、気泡が弾けるような、鈍く響いた音。
そう、そうだ、まるで、水の中で息を吐いたような、そんな感覚――
(……)
思い出すとなんとなく薄気味悪い気分になり、ぶるっと身を震わせる。
――気のせい、勘違いだろう。
そう思い込もうとすることに夢中で、わたしは少しも気づかなかった。
さっきまで街中に飽和していた歓声たちがそろって声を潜め、わたしたちを見てひそひそと内緒話をしていることを。