大切な
「どうしてこんなところにいるの? 立ち入り禁止って扉に書いてあったの、読めなかったのかな?」
「ひ……っ」
喉の奥からひきつった声が漏れる。思わず後ろ手に両手をついて後ずさったが、そんなことは何の意味も成さない。彼にとって、ジャックにとって何の牽制にもならない。
「ねえアリス、君は帰りたいんだよね?僕にそう言ったよね? 僕協力するって言ったよね? 忘れちゃった?そ れとも何? 嘘だったの? どういうつもり? 何がしたいの? ねえアリス」
淡々と紡がれる非難の声。それはわたしが勝手に歩き回っていることよりも、この部屋に入ったことに対する怒りのように感じた。
どうしよう。
凍りついた脳で必死に考えているとき、不意に膝から何かが落ちた。意識が滑ってそれを追う。
本。ベッキーの本。
レベッカ=アッカーソンの本。
彼女の、一生の――――
皮肉にも開かれたページには、よく知っている二人の少女が見覚えのある景色の中で楽しそうに笑っている絵が描かれていた。
瞬間、身体の内が爆発したように熱くなった。感情が燃え上がるなんてものではなく一瞬で全てを駆け巡って蹂躙してぐちゃぐちゃにして、だってこんなもの大事にしまって鍵をかけて誰にも見せないように隠してお前こそ何のつもりだよ何がしたいんだよふざけるなふざけるなふざけるなふざけんなふざけんな!!
気付くと本を掴んでジャックに投げつけていた。予想外の行動だったのか彼は一瞬怯む。
その隙に部屋を、たくさんの『本』が詰まった立入禁止の書庫を飛び出した。
「アリス!!」
ジャックの叫ぶ声が聞こえる。
ドアの前の三段くらいしかない階段を飛び降りて走りだそうとしたその時、鮮やかなオレンジ色が目に飛び込んできた。
「あっ見つけたー! アリスさっきはごめんね、怒らせちゃっ――」
邪魔なカボチャ頭の横を通り過ぎ走る。早く、早く早く早くあの子に捕まらないように。
カボチャが何か言っていた気がしたけど、どうでもよかった。
◆
「レベッカ!アリスは!?」
噛みつくように叫ぶジャックの声に、レベッカは瞳を揺らして振り返る。正確には、カボチャの面の空洞の奥の目玉、を。
「ジャック……あたしそんなに悪いことしちゃったかな……?」
みんなで、楽しいことしたかっただけなのに。
そう言ってレベッカは俯いたが、ジャックはそれどころではなかった。
また逃げられた。また逃げられた。また逃げられた!!
苛立ちに任せて手のひらに爪を立てる。原因はわかっている。"街"だ。"街"がアリスに味方している。ジャックの邪魔をしている。彼女を助け匿う。彼を翻弄し遊ぶ。皮膚が切れて血が滲むほど唇を強く噛み締め、そして耐えかねたように叫んだ。
「――ッ、なんでっ!!」
怒りに身を委ねたままだあんっと地面を蹴る。
瞬間、"街"は崩壊した。
ジャックを中心に石畳の地面はえぐれ家々はひび割れ窓は弾け、咆哮にも似た感情の塊が螺旋状の刃となって黒い枯れ木を薙ぎ噴水を散らし全てを切り裂いていく。
全ては崩壊した。
少年の癇癪で、"街"は廃墟と化した。
◆
ゴポッと独特の音を立てて気泡が潰れる。あ、まただ。また水の中だ。身体が軽くてふわふわして、それでも沈んでいくのは分かって。
嫌だな。このまま沈んでいけたら楽なのに、いつかは水底についてしまう。
そうしたら身体は重くなって、動けなくなって、水の重さに潰されてしまうだけなんだ。
そんな事を考えていたら、いつの間にかわたしは路地に座り込んでいて、そして"街"が、"街"の建物や道や全てが地震でも起きたかのように崩れ壊れていた。
ゆっくり首を回してあたりをうかがってみる。下を向くと大きく割れて亀裂の入った石畳の地面があり、その下には土ではなくひたすらにどす黒い闇が広がっていた。
元々家だったのか石畳だったのか知らないけれど、適当な石をひとつ拾って闇の中へ投げ入れてみる。石は何にもぶつかることなく、無音のまま落ちていった。人が入れるだけの亀裂はみあたらないけれど、もし、落ちたらどうなるのだろうか。きっとただではすまないだろう。
――あはは、ざまあみろ。
崩壊した街並みを見て管理人のあの子を思い浮かべて、そんな呟きが漏れたかどうかはわからないけど、確かにそう思った。
だって、笑えるじゃん。大事な大事な"街"がこんなんになっちゃって、きっとあの子は困ってる。あははは。いい気味だ。
今までで一番楽しい気持ちで膝を立ててその上に肘をついて、竜巻の大群が押し寄せた後みたいな街を眺めていると、不意に邪魔なものが視界に入った。
暗い世界に不釣り合いなオレンジ。
目障りな、その色。
「あ、アリス、大丈夫だった? びっくりしたね。ジャックがね、よくわかんないんだけど怒っちゃって……」
「何?」
「えっ」
「何しに来たの?」
睨んだわけではない。ただ、面倒くさそうな顔をして彼女を見上げたら、彼女はすごく哀しそうな顔をした。
哀しそうな顔?
勘違いか。
だって、顔、見えないのに。
「あの、ごめんねアリス。怒ってるんでしょ? あたしたちがアリスの楽しくない遊びばっかしてるから。ごめんね」
申し訳なさそうに――というよりはむしろ怯えたように寄ってくるカボチャ。
まるで、私に許してもらえないことを恐れているような。
「みんなのところ戻ろうよ。今度はアリスのしたいことしよう? 街もこんなだしさ、みんなで、一緒にいようよ」
媚びるような声が鼓膜にはりつく。気持ち悪い。
動かないカボチャの面が近づいてくる。気持ち悪い。
気持ち悪い。
ああ苛々する――
「アリス、あの」
「触んな化け物」
差しだされた黒い手袋に覆われた手を払う。あ、触っちゃった。最悪。そんなことを呟きながら立ち上がる。
彼女はびくりと肩を震わせた。
「ねぇ『ベッキー』。なんでカボチャなんか被ってるの?」
「えっ? こ、これ?」
慌てたようにカボチャの頬を両手で包む。
デカい頭が僅かに下に傾いて、それから、つり上がった口の形の空洞から上擦った声が漏れた。
「か、可愛いでしょ………?」
きっと上目遣いでわたしの様子をうかがう彼女。それを見てわたしは、心底共感したように優しく微笑んでみせた。
彼女の緊張の糸がたるみほっと息をついた、その時。
わたしの右手に握られていた硬いパイプが思いっきりカボチャの頭を殴った。めきょ、と変な音。倒れる黒ずくめの女の子。
いつからこんなもの持ってたのって? さあ。拾ったんじゃない? ……知らないよ、気がついたら持ってたんだもん。
でも、ちょうどいい。ちょうど、こんなものが、欲しかったんだ。
「ふざ、けん、なッ!!」
起き上がろうとする頭にもう一度パイプを振り下ろす。重くて持ち上げるのが大変だけど、その分振り下ろすのは簡単だ。
パイプを握る手に血が滲む。右の手のひらに巻かれたパステルカラーの布を見て、そういえばわたし右手がズタズタに裂けてるんだったと思い出した。それでも不思議と痛みは感じない。痛くないんなら、手がぐちゃぐちゃになっても別に構わない。
叩きつけたパイプがカボチャを抉る音が不愉快だけど、なんかもうどうでもよかった。
「いつまでベッキーのふりしてんだよこの偽物が!
しつこいんだよ!
うざいんだよ!
何が『会えて嬉しい』だよわたしが会いたかったのはお前じゃねえんだよいらねえよお前なんか!
返せよ化物!
ねえ!
ベッキーを返せ!
――わたしの親友を、返せッ!!」
そう叫んでパイプを振り下ろして、そうしたらついにカボチャが割れた。
倒れた黒服少女の頭にあたる部分。中身はぐちゃぐちゃで、見れたもんじゃなかった。
「い た い よ ぉ」
カボチャの中のぐちゃぐちゃが言う。
「あ り す …… ど お し て ぇ …… ?」
わたしは肩で息をしながら、パイプを両手で握りしめた。
まだだ。こいつ、まだ生きてる。
しぶといな、めんどくさいな。
手がヒリヒリするし、腕も疲れた。だけど、まだなんだ。
「はやく死ね」
そう呟いてパイプを振り下ろすと、ぎちゃっと汚い音がして、ぐちゃぐちゃは喋らなくなった。
ガランガランと音を立て壊れた街の石畳にパイプが落ちる。
「ふ………あはは……やったぁ」
わたしは口元を押さえた。
足がもつれて石畳の上に座り込む。身体が震える。
そして、溢れる歓喜に耐えきれず空を仰いで叫んだ。
「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!!! ざあぁまああああぁぁぁみろおおおぉぉおおぉ!!!!!!!」
笑いが止まらない。あの醜い姿。あははは。ベッキーになりすまそうとするからあんなことになるんだ、ばあああああああか!
死んでない。ベッキーは死んでなんかないんだ。あんなの見せたってわたしは信じないよ。だって、だってベッキーは。
「ふ、ふははあははは……早く帰りたいなあ……ふふ、そぉだ、帰ったらベッキーのところに遊びに行こう……だって、おとなりだもん……何して遊ぼうかなあ……ふふふ、あははは……あははははははは……」
座り込んだ足を覆う靴下に何か生ぬるいものが染み込んでくる。
けど、それが何かだなんてわたしにとってはどうでもいいことだった。
頬に濡れた感触があったのも、きっと、気のせいだろう。
◆
壊れた"街"の片隅に、幼い男の子と女の子がひとりずつ。
仲良く手をつないだ双子の二人は、瓦礫をよけ亀裂を飛び越えながら歩いていた。
「エードウィーン、ジャーックぅぅー、どこー」
「……いないね」
「ねー。ていうかさー、アリスさがしてたのにさー、なんで街こわれたのかなー? みんな大丈夫かなー」
「ね……」
言いながら、双子の片割れの女の子――エティは、兄であるアイザックの手をぎゅっと強く握った。
アイザックはエティを見、こわいの、そう尋ねようとしてやめた。代わりに握り返した手をぶんぶん振る。
アイザックが笑いかけると、エティも口もとを緩ませて笑った。
――シャルロット、レベッカ、アリス。
友達の名前を呼びながら街をさまよう二人は、ある扉の前で立ち止まった。
始めて見る扉。
正確には、開いているのを始めて見る扉。
「かん、けーしゃ……い……がい、たち……」
「よめる?」
「よめなーい。でもここ、ジャックが入っちゃダメっていってたとこだよね?」
「うん……」
ギイィ、と軋んで誘うように揺れる扉。その両脇から中を覗き込んだ双子は、顔を見合わせた。
「本がいっぱい、おちてるね」
「おちてる。たなにも本がいっぱい」
「いっぱいだね」
「入ってみる?」
「……いいのかな」
「でも、あいてたよ」
「そうだね……」
「入る?」
「……入ろうか」
「そう、しようか」
「だれか、いるかもしれないしね」