おいでなさい迷い子さん
何やってるんだろう、わたし。どうしてここにいるんだろう。なんでこんなことになっちゃったんだろう。
涙が出てくる訳ではないけど、身体中がガサガサに乾いてひび割れてる気がした。
意味もなく何かから逃げるのに疲れて路地裏に座り込む。飽和していた笑い声も足音もぱったり止んで、息を殺しているから呼吸音すら聞こえなくて、ただひたすらに無音。
静寂がこんなに息苦しいものだなんて知らなかった。
――どうしてこうなったんだろう。
何度目かも分からない問がぐるぐるとわたしに巻きつき、不意にそういえば今日はハロウィンだったことを思い出した。
友達と遊んでいたんだ。
もうそろそろコスプレはキツくない? なんて笑い合って、近所を回って、お菓子を食べて。
それが、気が付いたら長い長い石橋の上に立っていた。
「……」
みんな、どうしてるかなあ。
わたしのこと探してるかな。それとも、いなくなったことすら気づかれていないんだろうか。
不意に涙が零れそうになった、その時。
全身を襲う冷たい奇妙な浮遊感。
――何?
とっさにそんな声が出そうになって、しかしそれはゴボッという変な音にかき消される。
……変な音? 違う。あれはわたしの吐いた息が気泡になって、水に潰された音だ。なんだろう。まるで水中にいるようなこの感覚、確かさっきも……。
「――っ、は……!」
急に空気が口内を満たし、水のような感覚は消える。
呆然としたまま首を押さえるが、生ぬるい肌の柔らかさが伝わるだけでなんにもならなかった。
「……何……?」
やっとのことでそれだけ呟く。なんだか薄気味悪い。早く帰りたいな。本当にあの門しか外への道はないのだろうか。
布の巻かれた手を眺めながら、あの子のことを考える。
黒い髪に黒い瞳、紫と黒のボーダーのマフラー、女の子みたいな可愛い顔。可愛くて優しくて、誰よりも恐い、あの子。
(……ジャックに任せてたら……ほんとに帰してもらえるのかな……?)
彼の言葉を思い出す。手のひらは裂け脚は焼かれ、つい零してしまった『帰りたい』という本音。それに対しジャックは、笑顔で協力させてくれと言った。
――約束するよ。絶対にアリスを家にかえ、っ、……。
(あれ?)
今さら気づいたが、そういえばジャックは最後までちゃんと『帰してあげる』とは言っていなかった。いや、言えなかった?
あの時ジャックは唐突に言葉を詰まらせ、首元を押さえて小さく後ずさって、苦しそうに咳き込んだ。
だけど、わたしが手を伸ばした時、彼は……。
「……」
深読みかもしれないと思いつつ心中は憶測で溢れていく。
病気? 発作? 何かに憑かれている?
演技かもしれない。わざと最後まで言わなかったのかもしれない。本当はわたしを追い出したいのかもしれないし、本当はわたしを帰す気なんかないのかもしれない。
あの子は信用できる? 頼って大丈夫?
ああ、考えたって答えなんかでるわけがない。
頭を抱えてうずくまっていると、なんだか背筋のあたりがぞわぞわした。なんだか気味が悪い……いや、居心地が悪い?
違う。これは人の視線だ。
そう思うと同時に、無意識に顔を上げる。そこには誰もいなかったが、確かに気配がある。
誰かいる。
「……誰……?」
――コツン。
返ってきた返事は言葉ではなく足音だった。
ちょうどなくしてしまったわたしのパンプスのような、ヒールが石畳を鳴らす音。
――ぺた。
――ザッ。
――かつん。
様々な足音と共に、蛍光色の足跡が現れる。
一定間隔で進んでいくそれはスニーカーで、ヒールで、裸足で、オレンジで緑でピンクで黄色で、わたしの目の前から一歩ずつまっすぐ大通りへと進んでいく。
ある程度まで遠ざかったところで、色も形も多種多様な足跡たちはざっと一斉に向きを変えた。こちらにかかとを向けて歩いていたのが、一瞬で全てこちらを向く。
「……ついて来いってこと?」
脱力したようにそう訊ねると、足跡はまた一斉に前を向いた。
身体に鉛が詰まったような気だるさももう何も分からないという諦念も振り解けないまま、わたしはふらふらと立ち上がる。
一足ごとに変わる靴音を響かせ歩いていくそれを、追うことにした。
◆
暫く歩いていくと、ある扉の前で足跡はめちゃくちゃに足踏みをした。色が重なり形が重なり、蛍光カラーが混ざり合って扉の前は真っ黒に汚れていく。
そして、狂ったように鳴り響いていた足音は不意にぱたりと消えた。恐る恐る扉に近づくと、そこには「関係者以外立ち入り禁止」と記されている。
躊躇ってからそっとドアノブに手をかけた。
……開かない。
(でも、確かに足跡はここに来て止まったし……)
そう思いつつ後ろを振り返って、はっとした。
今まで目に痛いほどに浮き上がってみえた蛍光色の足跡が、一つ残らずどす黒く染まっている。
訳が分からず放心していると、背後から消え入りそうな蝶番の悲鳴。
扉はゆっくりと開いて、そのままゆらゆらと手招きをするように揺れた。
――行きたくないなあ。
わたしは背筋の震えに気づかないふりをして、ぎゅっと手のひらを握りしめた。
いつまでもぼうっとなんてしていられない。わたしは家に帰りたいの。
そんな決意に縋りつきながら、わたしは導かれるままに足を踏み出す。
背後でクスッと誰かが笑った気がした。