管理人 が なかま に なった !
「ごめんね、もう大丈夫だよ。へいき?」
「……死ね……」
「えっ……ご、ごめん……」
幼い少年に最高(最低?)ランクの暴言を吐きながら、わたしはよろよろと起き上がった。
手のひらがズタズタになった時とは違って焼かれた脚に痛みはもうない。痕すらなかった。
でも許さん。絶対に許さんこの野郎。本当に本当に辛かった。
痛いとか苦しいとかそういうの以前に、頭がおかしくなって暴れずにはいられないような、それなのに全身を押さえつけられて指一本動かせないような、喉すらも震わすことができないような、そんな辛さだった。
まじ許すまじこのクソガキめ。かわいいとか思って損したわ、この第一印象詐欺師が。
「痛かったよね……ごめんね。それはほんとに心から謝るけど……その、ホントにね、ホントにああしないと死んじゃってたんだよ……」
「……」
ついさっきまでの気迫はどこへやら、左右に目を泳がせながらおどおどと謝ってくるあの子をわたしは睨む。しかし、黒い髪を揺らし申し訳なさそうに目を伏せられると、ちょっとだけ可哀想な気がしてきた。
――ていうか、これじゃわたしが意地悪してるみたいじゃん。
しばらく苦々しい顔で思考を巡らせ、それから深い深いため息をついて、仕方なくあの子に向き合った。
「……もういいよ。あんたジャックでしょ?」
「えっ、うん……知ってたの?」
「最初は解んなかったけど、よく考えたら消去法で。エドウィンが探しに行ったんじゃなかったの?」
「ちゃんと会ったよ。でもアリス一人じゃみんなの所まで戻れないと思って、結局探しにきたんだ」
「そう……」
どうやら向こうもこっちを知っていたらしい。
改めて考えてみると、この子――ジャックがいなければ、わたしは今頃あの光のない奈落に真っ逆さまだったのだ。
もしあの底なしの闇から本当に手のようなものが伸びてきてわたしの足を掴んでいたとして、その中に落ちてしまったら、わたしは一体どうなっていたのだろう?
……ああ、ちょっと怒りすぎたかもしれない。
とは言え今から謝るのもなんとなく悔しい。
黙ってジャックを見つめていたら、不意に彼は「そうだ」と呟いた。
「アリス、靴は大丈夫? 落としちゃったの?」
「え? ……ああ、ほんとだ。多分そうだね」
下げられたハイソックス以外に何も履いていない左足を見て言う。
もうなんか靴無くしたくらい痛くも痒くもないわ。物理的にも精神的にも。
「後でかわりになりそうなもの探してくるよ。とりあえず今は皆の所に戻らない? その……手も、まだ応急手当て……だから……」
錆びていくかのように歯切れが悪くなるジャックの言葉。
最初は真っすぐわたしのほうを向いていた黒い瞳も引きずられるように俯いてしまった。ついさっき植え付けられたトラウマのせいでわたしが反射的に彼から右手をかばうような仕草をしてしまったのが原因なのだろう。
いやそのことに関して謝るつもりはないけど(あれで動じるなと言うほうが無理だ)、やっぱり少し可哀想に思う。くそ、かわいいって得だな。
このままだとジャックが不憫だから、わたしは話題をそらすことにした。
「あの、さ」
小さくジャックの肩を叩く――なんてことは出来ず、一定の距離を保ったままわたしは言う。
「みんなの所に帰るんだよね? その……わたし、みんなの所もそうなんだけどね。なんていうか……、家? にね。……帰りたいんだ、け、ど……」
……あ。
しまった。
ものすごい軽率で本命な発言をしてしまった。
あああばか怒らせちゃったらどうすんだばかー!!
「帰りたい……んだ?」
案の定ゆっくりとジャックがわたしの言葉を反芻する。
目はぽかんとしてるのに微かに口角が上がってるのが超怖いですジャックさん。
逃げ出した方がいいのか否かをかつてないほど頭フル回転させて考えていると、不意に負傷してない左手を両手で掴まれた。やっぱり肩が跳ねる。
「だからアリスはあの門を越えようとしたんだね。手伝うよ。ううん、僕に協力させて!」
……えっ。
黒い髪を揺らして女の子みたいなかわいい顔に笑みを浮かべて、ジャックはわたしに言った。
『早く帰りたい』と言ったわたしに。この街の管理人である彼が。
予想外の展開にも驚いたが、それ以上にそれがあまりにあっさりしていたことに驚いた。
「帰……れるの?」
家に帰りたい。それは変わらない。
けど、けれど、そんな簡単に帰れちゃうわけ?
てっきり『帰れないよ』とか『駄目だよ』とか言われるかと思ってたのに。
歓喜と疑惑が溶け合った瞳でジャックを見つめる。
――本当に?
「……前例はないけど。でも、絶対どこかに帰る方法はあるはずだよ」
ちょっと勢いをなくした口調でそう告げるジャック。
正直な感想を述べよう。前例ないんかーい。
でも、管理人であるジャックが手伝ってくれるというのはとても心強い。
わたし一人でふらふら街中を探索するより手っ取り早いに決まってる。
「いいの?」
最後の確認の為に、もう一度だけ聞き返す。
眼前の少年はこくりと頷いた。
さっき見つめられた時とは違う、射竦めるような冷たい無表情とは違う、確かに人の意志が宿ったまっすぐな瞳で。
「約束するよ。絶対にアリスを家にかえ、っ、……」
「……え? じ、ジャック?」
突如として途切れたジャックの言葉。
途切れたというより詰まったと形容した方が正しいかもしれない。
ジャックはマフラーの上から首もとを押さえ、一歩だけ小さく後ずさった。
「だ、大丈夫? どうしたの?」
何かの発作でも起こったかのような仕草にわたしは少し慌てた。
押さえているのが心臓だったら間違いなくそうなのだろうけど、原因は首らしいから何がどうしたのか分からない。
反射的に手を伸ばし、彼に触れようとしたまさにその瞬間。
うつむき気味になっていた顔がばっと上がり視線がわたしを捉えた。
――触らないで。
そう怒鳴られたような気がして、伸ばした手が縮こまる。
ジャックは小さくけほっと咳き込むと、「大丈夫、なんでもない」と呟いた。
……苦しかったのか……。
すごく突然だったけど、本当に大丈夫だろうか。
心配になりつつも、わたしはもう一度「大丈夫?」と訊ねることは出来なかった。だって、ジャックは大丈夫だと言ったのだから。
さっき、顔を上げた一瞬。わたしを見たあの表情がわたしはどうしても苦手だった。
この子はやっぱり、怖い。
◆
「絶対にアリスを家にかえ、っ……」
「……え? じ、ジャック?」
アリスの心配が返ってくるより早く、ジャックは自分の首を押さえた。
マフラーごしに伝わる、硬くて頑丈な首枷の感触。
――ジャック、ジャック、どうして殺さないの?
――ねえねえジャック、殺しちゃえばいいのに!
いつ聴いても愉しげな街の声は、姿同様見えない手でジャックの首枷に繋がる鎖を引く。
耐えきれずに小さく後ずさると、それすらも嘲笑の対象になった。
見えないけれどきっと自分を指差して笑ってるんだろう、そう感じながら首を押さえる両手に力を入れる。苦しさよりも怒りがぶくぶくと沸騰した。
いつもいつも矛盾したこと言って適当なこと言ってふざけたこと言って、いつもいつもいつも僕を馬鹿にする、僕の邪魔をする!
死なれちゃ困るのに自分で殺す馬鹿がどこにいる? せっかく、自分から、アリスが『帰りたい』なんて言いだしてくれたのに。
冗談じゃない。
冗談じゃない!
「だ、大丈夫? どうしたの?」
戸惑ったアリスの声に、ジャックははっと顔を上げる。
今触られては枷の存在に気づかれてしまうかもしれない、そう焦って。
彼が視界に捉えたアリスは、また怯えて肩を跳ねさせ、丸めた紙のように顔を歪めていた。