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ジャック


 硬い石畳の上に座り込む。

 意識が朦朧としていてこの時はまだ理解できていなかったけれど、わたしの腕を掴んだ『誰か』がわたしを引き上げてくれたらしい。

 どうやって門の外のわたしを街に入れたのか不思議だけど、正直それどころではなかった。


 痛い、手が痛いよ。

 今すぐ手首ごと切り落としてしまいたいほどに。


 ぼろぼろと溢れる涙は傷も精神も癒してはくれない、それなのに意味もなく零れ続ける。


 痛いよ、痛いよう……。


「だいじょうぶ?」


 ぐわんぐわんする意識の中で、優しくそう言われた気がした。

 でも、頷けなかった。

 大丈夫じゃないし強がりたくもないし、そもそも大丈夫かどうかなんてどうでもよくて、ただただ痛くて辛くて痛くて痛くて痛くて、馬鹿みたいに泣いていた。

 なんだか息まで苦しい。


「ちょっとだけ腕、さわるね」


 うっすらと聞こえたそんな言葉の意味を考える暇もなく、誰かが腕を持ち上げる感覚がした。

 ずたずたに裂けた手のひらに、亀裂が走るような激痛。


 反射的に悲鳴があがった。


「ご、ごめん! すぐ終わるから……」


 指先から、手首と肘の間のどこかまで、ひんやりとした何かの液体の感触。

 痛い、しみる。

 いたい。


 けど――


「……少しは、マシになった?」


 赤一色だった心の内と泣きじゃくりすぎて不規則になっていた呼吸が落ち着いてきたころ、控えめな声が聞こえた。

 顔をあげる。


「……感覚が、ない、かも」


 いつもよりずっと大人しい声で、ゆっくりと答える。

 すると、わたしの正面でしゃがみ込んでいる子供はにっこりと微笑んだ。


 ショートカットの黒い髪にくりっとした黒い瞳、丸い輪郭に真っ白な肌。

 ……かわいい。

 男の子? 女の子? どっちだろう。


 左足のズボンがまくられているらしく、片足だけ膝から下の肌が見えている。黒いブーツを履いているらしい。

 首もとの紫と黒のボーダーのマフラーが、彼(彼女?)が首を傾げて笑うと同時にゆらりと揺れた。


 ……なんか、癒されるなぁ。

 かわいいってすごいね、色々回復していく気がするよ。

 ああ、なんか思考回路が少し通常運転に戻ってきた気がする……


「痛くなくなったならよかったよ。足はだいじょうぶ?」

「足……?」

「うん、右も左も……あっ、手は動かさない方がいいかもしれない」


 そう言われて、無傷な方の左手で黒いハイソックスをまくる。

 利き手じゃないのと右手を動かさないように気をつけていたのでかなり手間取ってしまったけれど、なんとか足首まで下げた。


 すると。


「え……な、なにこれ……」


 鞭で叩かれたような赤黒い蔦が這ったような、薄気味悪いミミズ腫れがびっしりと浮かび上がっている。

 意識した途端に脈打つように痛みだしてきたけれど、そんな事より、知らない間に自分の足にこんな痕がついていたことにショックを受けた。


 いつの間についたのだろう。


「気持ち悪い……」


 呟いて、腫れた部分をなぞろうとすると慌てて止められた。


「さわっちゃ駄目!」

「え、そ、そうなの?」

「ちょっと待ってっ」


 そう言うが早いが、黒髪のその子はどこから出したかバーナーに火をつけた。


「動かないでね」

「…………ちょっ、は!? まっ、待って待って待ってッ!」


 何する気?

 ねぇ君何する気?

 ものすごく怖いんだけど!


 何かの液体に漬けている右手を庇いつつ慎重に後ずさるが、わたしが下がったのと同じだけ、むしろさらにあの子は近づいてきた。


 膝をついた状態で首を振るあの子。

 単調に炎を吹く無機物を片手に、ほんの数秒前までの幼い表情は一変、冷たいまでの微笑で。


「だって、消毒しないと身体中に痕が這いずり回って死んじゃうよ?」

「意味わかんない……火は消毒に使うものじゃないでしょ……」

「そうでもないよ。穢れを祓うのには炎が一番なんだって。それに、ここには消毒に使えそうなものは火しかないしね」


 うわあ電波だ。

 わたしには理解できない電波が飛び交ってるよ。

 なんか身体に悪そうだから近づかないでくれるかな? ちょっと! 近づかないでってば!


「やっ、待って待っていったん落ち着こ? ね?」


 これは半分自分に言った。


「慌ててるのは僕じゃなくてキミだと思うな」


 残りの半分もわたしに言われてしまった。

 諭すような口調で、あの子は言う。


「考えてみてよ。どうしてキミは門から落ちちゃったの?」

「そ、それは……急に橋がなくなったから、びっくりして……手を離しちゃって……」

「そうだよね。手が離れちゃったから、バランスが崩れて落ちたんだよね。じゃあ、どうして頭が上で足が下の状態で落ちてたの? 立ってた時と同じ格好でさ」

「……!」


 そう指摘されはっとする。

 だけど、それを認めた事でもたらされる未来を受け入れたくなくて、とっさに言い訳をした。


「あ、足が滑ったんだったかもしれない、ちゃんと覚えてないだけで!」

「足が滑っても手に力入れれば平気でしょ。すぐ反射的にどっかに掴まると思わない?」

「っ……」


 間髪入れずに返ってくる正しい論理。

 ……言い返せない。

 だって現にわたしはさっき、足を踏み外して落ちかけたけれど、とっさに装飾の槍に掴まって事なきを得たのだから。


 バーナーで焼かれ、爛れて崩れた自分の脚が脳裏に浮かぶ。嫌な想像は必死に掻き消した。

 あの子の言うことを認めたくない。

 たとえあの子が正しくても、あの子がしようとしていることは絶対に受け入れられない。だから認めない。

 正しいのはわたし、おかしいのはあの子!


「もういいよ、ほっといてよ!」


 思い切り振った左手は空を切る。あの子は動じなかった。

 紫と黒のボーダーのマフラーが揺れ、また少しわたしとあの子の物理的な距離が縮まったことを知らせる。


「あのね、あの門の向こうの底無し穴から黒くてすっごく指の長い手がいっぱい伸びてきてね。キミの脚にべったり絡みついて引っ張ってたんだ。

 もっと早く助けられたら良かったんだけど……ごめんね?」

「そんなの知らない……意味解んない! 何言ってるの?」

「ねぇ、聞いて。僕はキミを虐めたいわけじゃないんだ。信じてよ」

「馬鹿じゃないの?! 信じられるわけ――」


 そこで、わたしの言葉は、途切れた。

 しびれを切らしたあの子に肩を押され、石畳の上に倒れたからだ。

 そんなに強い力じゃなかったのにどうしてか起き上がれない。

 声も、出ない。



「キミに死なれちゃ困るんだよ。全部僕のせいにされちゃうんだから」


 虚ろな月を背に、その子は淡々と言の葉を紡ぐ。



 ジュクジュクと皮膚が爛れていく感覚。

 神経が焼ける感覚。

 声にならない悲鳴が喉に詰まる感覚。

 柔らかい脳をグチャグチャにかき混ぜられるような感覚。


 どれもこれも、二度と経験したくない痛みばかりだった。





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