足止めして、時間を稼いで
「ねえ、本の表紙なら無罪、背表紙なら未必の故意、角なら明らかに故意だっけ?」
幾多の人間に何万回と読み返されることを想定し、硬い紙で装丁してある厚い本。かなり重い本のはずだが、それをしっかと抱えて放さない彼女の姿にはさほど違和感をおぼえなかった。彼女は本の虫であり、彼女を本の虫にしたのは自分だから。
「始めのだけ違うよ。本の表紙はたしか過失」
殴ったらそれだけで罪になるはず、というのは口の中で押し殺した。彼女は苦笑して屋上の柵に背中を預けた。
「あー、そっか、間違えた。やっぱあたし法曹界向かないわ」
青空の下、くすくすと彼女の笑いが響く。
ここは校舎の屋上だ。普通なら生徒が立ち入ることができないところ。彼女くらい細くて小柄でなければ、扉のチェーンをくぐって入ることはできないだろう。
いま、ここには、彼女と自分の二人だけしかいない。
自分は本好きをこじらせた人間だ。友達は少なく、運動神経はゼロに等しく、さして明るくもない。高校生のヒエラルキーの底辺に属する人間だったが、ひとつの役職がそれを救った。図書委員と言う役職がそれだ。
誰もなりたがらないそれを進んで引き受けてクラス全体に恩を売り、図書室の受付をすべて引き受けて教師に媚を売り、人を痛めつけて憂さを晴らすのが好きそうな奴には予算で購入した流行りのマンガを読ませて攻撃をそらし、何とか平和に暮らすことに成功していた。
でもそれはあくまで攻撃されないというだけだ。マイナスの要素はなかったが、代わりにプラスの要素も一つもなかった。正直、少しさびしかった。自分と同じように本好きな人間とは知りあうことができなかったし。大した学力レベルではない高校の図書室は、ほこりっぽい本を大量に抱えて、だれにも愛されることなくがらんとしていた。
けれど、二年の半ばあたりから、ひとり図書館に入り浸る女生徒が現れた。それが彼女だった。本を読むでもなく、勉強するでもなく、いつもぼんやりと机に座っているだけだったから、妙に気になっていた。初めて話したのは、彼女がスタンドに立てて展示していた新刊本に目をとめて、その本について聞いてきた時だった。
その本はエジプトの歴史に関する写真集だった。ピラミッドやスフィンクスの建造法を写真や図を交えて書いたものだが、ミイラの作り方までリアルな絵を交えて載せている本だった。そのため、苦手な人には苦手かも知れないと答えた。腐敗を防ぐため内臓を取り出す図まで載っているのだ。
だが写真の美麗さがグロテスクさを上回ったらしい。彼女はこの本を借りたいと言い出した。
「借りるのってカードいるんだっけ。どうやって作るの?」
「ここに学年とクラスと名前書いて。で、下に借りる本の題名を書いてこっちにくれればOK」
「はいできた。ここで読んでもいいんだよね?」
「そりゃもちろん」
「あ、グロいページってここ? そんなにひどくないじゃない。マンガみたいな絵だし」
「いや、駄目な人は本当に駄目みたいだからさ。2組の武田、マンガのついでにパラ見して、ゲーッって言って逃げてった」
「あのなんちゃって不良が? 見っかけ倒しぃ」
けらけら笑う彼女の顔を今でも覚えている。そのときを境に、彼女はよく本を借りに来るようになった気がする。
毎日のように本を借りに来る彼女と、良く話すようになった。話すのはどうでもいい雑談だった。国語の教師はどう見てもガチャピン人間版だとか、数学の教師のあいつは食うものすべてをメジャーで計っているに違いないとか。
自分は、文化祭や体育祭などの大きな行事があまり好きではなかったので、そんなときにはなんとなく図書室に逃げていた。彼女も同様だったらしい。お化け屋敷だ売店だ仮装だの狂乱を窓の下に見ながら、よく二人で話し込んでいた。そういえば、行事ごとは嫌いだったくせに、彼女は避難訓練だけはやたらご執心だった。
「今日の避難訓練、私も窓から滑りたかったなー」
「窓からチューブ下ろすやつ? 滑り台っていうか、得体のしれないパイプに閉じ込められるみたいで嫌だな」
「そこがいいじゃない。普通の滑り台と違ってさ。あ、救助マットにぼすって落ちるのもやりたかった。普通じゃ絶対できないもの」
はたから見れば引きこもりがちの暗い高校生だったろうが、自分は、そんな時間が好きだった。
彼女はよく笑う子だった。くだらないことでも本当に良く笑う子と思っていたが、ことさら明るくふるまっていただけかもしれない。図書室は、誰にも遠慮することのない唯一の空間だったから。
父親は検事、母親は弁護士。どちらも非常に優秀だそうだ。なんちゃって進学校の生徒など、近寄るのすらためらわれる最強のエリート夫婦。その一人娘が彼女だった。両親は当然のように、娘に法曹界に入ることを期待したと聞いている。しかし彼女はあまりそれを好かなかったらしい。彼女の成績自体もあまりよくなかった。自分と同じ高校に通っているのが何よりの証拠だ。
このレベルの高校にしか入れなかったことをを両親からずいぶん責められたそうだが、やがて、過ぎたことは仕方ない、高校で取り戻していい大学に入れとなったらしい。そのため、中学の頃以上に猛烈に尻をたたかれたらしい。勉強に集中させるため、小遣いは交通費以外ほとんど渡さず、バイトも禁止し、交友関係も制限し、といった風に。彼女が図書室でぼけっとしていたのは、金を使わず時間を潰せる場所はがそこしかなかったためらしい。……尻をたたくといったが、ひょっとしたら比喩ではなく、本当にそれくらいのことをされたのではないかと思っている。彼女の両親は非常に厳しかったようだから。
彼女の逃げ場がどこにもなくなるくらい。
三年になってクラスが理系と文系に分かれた。受験を意識する頃になっても、彼女はあまり成績が振るわず、ずいぶん苦しい思いをしたらしい。
「ねえ、体育祭の時みたいね。あの時も校庭がうるさかったよねぇ」
「うん……そうだな」
むしろ文化祭の時のような高揚をしていると思う、教師の制止もよそに校庭に出て騒ぐ生徒たちは。
生徒だけではない。近隣の住民もちらほら野次馬にやってきているのではないだろうか。サイレンこそ鳴らしていないが、警察の車も間違いなく来ているはずだ。対象が未成年だから詳細が電波に乗ることはないだろうが、おそらくはマスコミも。地上はうるさい。野次馬ついでに騒ぐ生徒たちがうるさい。生徒を校舎に押し戻そうとする教師たちがうるさい。カメラやらマイクやらを持った知ったか顔がうるさい。
今日も、いつものようにどうでもいい話をしていた。図書室にいるときと同じように、日常を装って彼女と話をしていた。でもそれもそろそろ限界かもしれない。ここは図書室ではなく、屋上なのだ。
大きく息を吸って、彼女を見据えた。屋上の柵に寄りかかる彼女の姿を。
屋上の柵の、外に立つ彼女の姿を。
にこにこと笑う彼女が持つ本の角は赤黒く濡れている。しっかりと胸に抱えているから、その赤は当然彼女の制服にしみている。でも多少のことはもうかまわないのだろう。彼女の白いセーラー服も、青いチェックのスカートも、あちこちが赤黒く濡れている。
検事と弁護士の夫婦が自宅で撲殺されているのが発見された。侵入者等の形跡はない。被害者の職業から怨恨の可能性も考えられるが、警察はまず行方不明の被害者の娘を追っているーーー。
今朝目が覚めたらそんなニュースが流れていた。彼女に電話してもメールしても返事はなかった。高校に行ったら、担任教師が動揺を隠しきれない様子で、行方不明の生徒の居場所について心当たりがある者は教えろといった。
体育の授業で校庭に出た生徒のひとりがが屋上にいる女生徒の姿に気付いた。泡を食った生徒は教師に伝え、教師が警察に通報したのだが、その間に彼女は屋上の柵を乗り越えてしまった。彼女が何をしようとしているのかは明白だった。校内のすべての生徒は教室にとどまるように指示が下り、自分もそれに従うしかないと思った。けれどその時、朝送ったメールの返信が来た。
『屋上に来て』
ガチャピン教師にほとんど格闘するようにつっかかって鍵を奪取し、屋上に走った。彼女はいつも図書室で見せるのと同じ笑顔で迎えてくれた。きわどい話題にも食いついてきた。けれどここはいつもの図書室じゃない。ほんの一歩空に踏み出せば、彼女は別の世界に行ってしまう。どうにかして引き止めようと、いつもと変わらない風を装って話をしてきた。けれど、果たしてこれで正しかったんだろうか?
いつもどうでもいい話ばかりしてきたからこそ、彼女のことをどうにもできなかったんじゃないだろうか。あんなに長い時間そばにいたのだから、彼女のために何かできたはずなのに、何もできなかった。その証拠が今の目の前の風景だ。
もう話題が思いつかない。彼女は相変わらず笑っている。自分は……自分は、もう日常を嘯くプレッシャーに耐えられない。
「……なあ、聞きたいんだけど」
「なあに?」
「どうしてわざわざ来たんだ? 学校に」
彼女は肩をすくめた。
「なんでだろ?」
「図書室に来たかったのか」
「うん。……ううん、図書室じゃなくてもよかったかもしれない」
彼女はふと真顔になった。しばらく黙りこんでから、今度は、無理をしたような笑顔でなく、本当に自然にふんわりと笑った。
「話したかったのかも、最後に。あなたと」
風が彼女の長い髪をふわりとなびかせた。そのまま、彼女の姿は視界から消えた。
***
空に浮くほんの一瞬、やっぱり痛いかなと考えた。
もうすべて終わりにしたかった。けれど痛いのは嫌だなと少し思った。
だから目をきつくつぶってその瞬間に備えた―――。
***
彼女が地面に叩きつけられる音は、聞こえなかった。
代わりに、ぼすっ、という気の抜けた音が聞こえた。
ほっとしてその場にへたり込んだ。
間に合った。
間に合った。
自分は、成し遂げたのだ。
いつものようにどうでもいい話をしてきた。日常を装って彼女と話をしていた。そのすべては時間を稼ぐため。彼女をそこから動かさないため。地上に目を向けさせないため。
説得なんてできない。できるはずがない。あんなに長い時間一緒にいたのに、決定的な時になにも助けになれなかった自分に、そんなことはできるはずがない。けれど、いつものどうでもいい会話で、ほんの少しだけ彼女を引きとめておくことはできるかもしれない。メールを受け取った時、そう思った。
鍵を管理しているガチャピン教師に、彼女の興味をこちらに向けるから、頼むから鍵を貸せと噛みついた。教師たちの間でひと悶着あったようだが、こちらで足止めする間、教師が手配してくれることとなった。
どれだけの時間、彼女を引きとめられたか分からない。けれど、どうやら十分だったようだ。サイレンを鳴らさず消防を呼び、救助マットを配置するには。そして、地上でどっと沸く歓声からすると、企みは成功したらしい。
半分腰が抜けてしまった体を引きずるように歩いて屋上の柵に寄りかかり、地上を見下ろした。円状のマットと、その中心にみごと落っこちた彼女と、周りを取り囲む消防団らしき人間が見えた。警察らしき人間たちが大勢駆け寄り、野次馬の視線を遮りつつも速やかに彼女を確保しようとしていた。
彼女は茫然とした顔でこちらを見上げていた。信じられないという目でこちらを見ていた。遠目でもそれがはっきり分かった。生徒たちの歓声と制止しようとする教師たちの声と警察の間で飛び交う指示の声とでもみくちゃな中で、とぎれとぎれに彼女の叫びが聞こえた。
「どうして……どうして!?」
この世からの逃亡に失敗したことではない。今まさに捕まろうとしていることに対してでもない。彼女はたぶん純粋に、自分が思い切り彼女をだましたことにに対して言っているのだ。最後の話し相手に選ぶ程度には信頼した相手に、思いきり裏切られたのだから。
けれど、そんなことを聞かれても困る。うまく言葉にすることができない。ただ、これまで彼女に何もできなかったから、彼女が本当に困っているときに何もできなかったから、せめてここで終わりになってほしくなかったのだ。
けれどそれらすべてを一言で言えるはずもなかった。彼女は必死で顔をあげてこちらを見上げている。けれど、その頭にはばさりと上着が掛けられ、背中を押され手をひかれて校庭に止まった車のほうへ連れて行かれようとしている。言葉が見つからない。けれど時間がない。もう自棄になって叫んだ。
「やってみたかったっていってたろ! 避難訓練の時にさあ!!」
彼女の眼がまん丸くなった。遠目でもそれがはっきり分かった。屋上の柵をつかんで喉も枯れよとばかりに叫んだ。
「いつか絶対滑り台もやらせてやるから! それまでどこも行くなよ! 絶対にどこにも行くなよ!」
まん丸くなった彼女の眼が、まばたきしてほんの少し濡れたように見えた。その一瞬後、警察の人間たちが彼女の姿をかくしてしまった。彼らの包囲がとけた後、彼女はもう車に入れられていた。
いつか滑らせてやる。いつか。でも、何年後? 十何年後? ひょっとして何十年後? まだ十何年しか生きていない身には、永遠のように遠く思える。
これからの何十年、彼女は思うかもしれない。あの時死んだほうがマシだったと。自分を憎むかもしれない。どうしてあの時死なせてくれなかったのかと。けれど、彼女がこれからも後悔したり憎んだりして、存在していてくれるという事が、自分にとっては何物にも取って代え難かったのだと思う。
彼女を乗せた警察の車は、まだ興奮さめやらぬ野次馬が集まる校庭を通って学校の外に消えていった。その車が遠く見えなくなるまで、自分は屋上の柵をつかんでずっと見つめ続けていた。
誤字脱字などありましたらご指摘いただけると幸いです。ついでに感想などいただけるとさらに幸いです。