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「ねぇ、行ってもいいよね!」
「もう…。食べながら喋らないの」
「行ってもいいよね!」
「条件は全部満たしたんだ。文句はないだろ?」
「………」
「まあ、考える時間はまだある。返事もゆっくり考えるといい」
「なんで!ゆっくりじゃダメだよ!」
「龍王」
「うっ…」
「やることはやった。あとは、果報を寝て待つだけだ」
「でも、ルウェたちは、もう出るのに…」
「俺たちも一緒に出るわけじゃないだろ。旅を始めるにしても、いろいろと準備がいるし」
「………」
「あっ、シエラ」
「そっとしておいてやれ」
シエラさんはお昼ごはんを乗せたお盆を持って、奥へ行ってしまった。
大丈夫かな…。
フゥは平気な顔してるけど…。
「大丈夫よ、龍王。シエラだって、子供じゃないんだから」
「母ちゃん…。でも…」
「ほら。お客さんの前で、そんな顔しないの」
「………」
「…龍王とシエラは、仲がいいんだな」
「ずっと一緒だったから。シエラは、龍王のお姉ちゃんみたいなもので」
「お姉ちゃん…か」
「澪ちゃんは、兄弟とかいるの?」
「さあな。記憶にある限りでは、私はほとんど独りだった」
「ほとんど?」
「…私の住処に、人間の女が住み着いたことがあってな。そのときだけは、不本意ではあるが、独りではなかった」
「えぇ。私、そんな話、聞いたことない」
「なぜ明日香に喋らねばならないんだ」
「別に喋らなくていいけど…。でも、真理には簡単に話すの?」
「少なくとも、明日香よりも信頼出来るからな」
「えぇ、何それー。なんで私が信用ならないのよ」
「口が軽いからな、明日香は」
「むぅ…。そんなに軽くないし…。だいたい、無口で通ってたんだよ!」
「言葉の分からない人間が、喋ってないと勘違いしてたんじゃないのか?」
「そういう解釈もある」
「まったく…」
「ふふふ。面白いのね、あなたたち」
「別に面白くないよ…」
「それで、その女の子って、その姿のもとになってるのかしら」
「………」
「そう。いいわね」
「えっ、何が?」
「誰かを好きになるっていうのはいいことよ、明日香ちゃん。…ねぇ、明日香ちゃんは、誰か好きな人はいるのかしら?」
「え、えぇ?別にいないよ…?」
「ふふふ、そう。明日香ちゃんが好きになる人って、どんな人なのかしらねぇ」
「ふん。まるで、世話好きのお姉さんだな」
「あら。私はいちおう、四人兄弟の一番上だから」
「知ってるよ…」
「そう言うフゥの奥さんは、どんな人だったのかしら?」
「良妻賢母のお手本のようだったな。唄も上手いし」
「へぇ。じゃあ、自慢の奥さんね」
「…まあな」
「新しい人は見つけないの?」
「な、何言ってるんだ!そんなこと…」
「奥さんも、フゥの幸せを願ってるんじゃないかしら。いつまでも過去を引き摺ってないで、新しい一歩を踏み出してほしいんじゃないかしら」
「そんな…。俺は、あいつを忘れることなんて出来ない…」
「忘れなくてもいいの。世界は広いわ。あなたを、あなたの過去ごと包み込んでくれる素敵な女性も、きっとどこかにいるはずよ」
「そんなのを見つけたって無駄だ…。俺の妻は、あいつ一人しかいない…」
「ダメね、あなたは。まあ、旅に出て、ゆっくり考えることね」
「………」
「ねぇ、母ちゃん、どういうこと?」
「…真理は、なかなか酷なことを言う」
「あら。澪ちゃんは、新しい素敵な女の子を見つけられたじゃない」
「あいつとは、そういう関係ではない…」
「そう。私の勘違いだったのかしら」
「そうだな」
「母ちゃん、どういうことなんだよ!」
新しい一歩。
それって何だろ。
フゥは、ずっと立ち止まってるってこと?
澪は、先に進めた?
…よく分かんないけど。
でも、真理は、何か大切なことを伝えようとしてるのかもしれない。
「まあ、進まないなら進まないで、それもひとつの選択肢かもしれないわね」
「………」
「青年よ、空に舞え。勇壮なる一歩を踏み出せ。未来をその背に乗せて」
「明日香ちゃん、いい言葉を知ってるのね」
「えへへ、そうかな。好きな本の一節なんだ」
「ある老兵の手記、ね。私も好きよ」
「えっ、ホント?嬉しいなぁ、同じ本を好きな人がいると」
「ふふふ、そうね」
「ねぇ、その本、何なの?」
「お母さんが、龍王に読みなさいと言ったのに、結局読まなかった本よ」
「むぅ…。本って字ばっかりで面倒くさいんだもん…」
「あはは…。まあ、分からないでもないけど…。私も、昔はそう思ってたから」
「あら、そうなの?じゃあ、なんで読み始めるように?」
「やっぱり、面白いって思える本があったからかな。夢中になれる本が」
「へぇ、どんな本だったのかしら。参考までに聞かせてもらえないかしら」
「うーん…。実は、覚えてないんだよね…。あれから、面白い本がどんどん見つかってさ。どれが一番最初だったか覚えてないんだ」
「そう。でも、それだけたくさん読んだってことよね。龍王にも見習ってほしいものだけど」
「俺は、あんまり本は読んだことないな。ずっと、人間とかそういうものから離れて暮らしてたし。リョウゼン書店が、たまに来るくらいで…」
「私もあまり読めていないな。世界にある、全ての本を読むには、私の寿命は短すぎる」
「フゥの読んでないと、澪の読めてないって、きっと天地ほどの差があるね…」
「澪ちゃんは、どんな本が好きなのかしら」
「アレクサンドラという者が作った詩の詩集だ。題名は忘れたが」
「サーニャより、冬の大地へ。たしか、外国の人が書いたものだったはずね」
「アレク…何?」
「アレクサンドラ。サーニャは、アレクサンドラの愛称よ」
「ふぅん…。なんで、そんな愛称に…」
「でも、外国の本なんて、そうそう手に入らないよね。澪はどうやって手に入れたの?」
「サーニャは、日ノ本にいた人なの。海を渡って、ずっと北の方にある国から来たらしいんだけど。結局、帰ることは出来なかったって聞くわ。その本も、日ノ本で書いたそうよ」
「あぁ、だから、冬の大地へ、なんだ…」
「そうね」
「…今でも読めるかな」
「私の部屋にあるわ。よかったら、持っていきなさいな」
「えっ、でも…」
「いいのよ。私はもう何回も読んだし、明日香ちゃんや澪ちゃんにまた読んでもらえるんだったら、あの本も喜ぶわ」
「…そっか」
「ええ。その代わり、大切にしてあげてね」
「うん」
「ふふふ。じゃあ、取ってくるわね」
そう言って、真理は部屋を出ていった。
どんな本なのかな。
ちょっと気になる。
…それに、澪が好きだった本だっていうし。
自分も、明日香が読み終わったら、読ませてもらおうかな。




