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「ずっと待ってた」
「何を?」
「このときを」
「このとき?」
「あとは、影の世界」
「影?何か関係あるの?」
「あっちは、どれくらい進んでるのかな」
「……?」
「ルウェ、私が見える?」
「………」
そういえば、ここは夕焼けの世界。
いつも、夢で見てる。
でも、起きたら忘れてる。
ここには、声だけ聞こえる誰かがいて、自分をずっと待っていて。
…このときをずっと待ってたってことは、今がそのときってことなのかな。
どのときかは、自分には分からないけど。
「ねぇ、ルウェ」
「…あなたに名前を呼ばれるのは初めてかもしれない」
「そうかもしれないね」
「あなたの名前は、なんていうの?」
「前に言ったこと、覚えてる?」
「何?」
「私のことが見えるようになったら、名前を教えてあげるって」
「…覚えてるよ」
「そっか」
「でも、それじゃあ、見えるようにならないとね」
「…ルウェ。見てはならない」
「えっ…?」
声のした方を振り向くと、そこにはクノお兄ちゃんがいた。
隣には流もいて。
ゆっくりと、こっちに歩いてくる。
「なんで、ここに?」
「ルウェ。少し離れていなさい」
「相変わらず、境界が弛いのだな、お前は」
「えっ?」
「ウゥ…」
「そう唸るな、黄昏の子よ」
「黄昏の子…?」
「お前は知らなくていいことだ。愛も近くまで来ている。二人でこの世界を去れ」
「なんで?ここは、何なの?」
「あとで話してやる。とにかく、今は脱出に専念しろ」
「脱出って…どうして?」
「ルウェ。疑問に思うのはもっともなことであるが、今は答えてやる時間を設けてやることは出来ない。とにかく、早く」
「なんで!二人とも、この子に何をする気なの!」
「少し…眠ってもらうだけだ」
「どうして!」
「だから、答えている時間はないのだ」
流の足下から黒い影が上ってきて、こっちに伸びてくる。
そして、それが腕に巻き付くと、強い力で引っ張られて。
「…こういう方法はなるべく避けたかったが」
「致し方あるまい。ルウェ、今は退いてくれ」
「嫌だ!」
と、次の瞬間、目の前に白い何かが現れて、腕に巻き付いていた影が消えた。
そして、その何かはゆっくりと空を見上げて。
「ォオー…ン」
「……!」
「遅かったか…」
夕焼け空に響く遠吠えは、寂しいような、懐かしいような、何かそんな変なかんじがした。
でも、綺麗だと思った。
…そして、その大きな白い獣は、こっちを見ると、優しい目をして。
「私が、見える?」
「…うん」
「そっか。…ありがとう」
「えっ?」
嬉しいような、安心したような、そんな表情を浮かべると、その獣は大きくよろめいて、地面に倒れてしまった。
そして、夕焼けの赤とは違う赤が、白い毛を染めていって。
気が付くと、いつもの川原にいた。
隣で、凛が蓮華を枕にして寝ていて。
…そういえば、お昼を食べてから、みんなで昼寝をしていたんだったと思い出す。
「あ、ルウェ」
「ナナヤ…」
「悪い夢でも見た?うなされてたよ」
「名前…」
「えっ?」
「名前、聞けなかった…」
「誰の名前?」
「分かんないけど…。でも、きっと、大切な人の名前…」
「大切な人なのに、名前を知らなかったの?」
「姿が見えるようになったら、名前を教えてくれるって約束で、でも、姿が見えたのに…」
「どうしたの?」
「血が…。血が…」
赤黒く広がる血が見えた。
自分の手に、服に、明日香の白い毛に…。
「大丈夫だよ、ルウェ」
「でも、血が…」
「血なんてどこにもない。怖い夢を見て、動揺してるだけ。落ち着いて」
「怖い夢…」
「そ。怖い夢」
「………」
夢、だったのかな…。
でも、確かに…。
確かに…何?
何があったか、思い出せない。
「もう一回寝たらいいよ。次は、きっといい夢を見られるから」
「うん…」
「いい夢を見られるおまじない、掛けてあげる」
「おまじない…」
「ヤツ、カルヤナ、マヤタ」
「………」
ナナヤ…。
それは、北の言葉で、お腹空いたって意味だよ…。
…夢の続き?
夕焼け空が沁みる。
そうだ。
夕焼け空の夢を見てたんだ。
「………」
でも、夢の続きじゃないみたい。
今は、綺麗な白い毛に包まれていて。
「ねぇ。夕焼けは、どうして赤いの?」
聞いても、誰も答えてくれない。
よく見ると、夕焼けだけじゃなくて、自分の手も、服も、白い毛も、みんな赤かった。
「…そっか」
なぜかは分からないけど、とっても哀しかった。
夕焼け空が沁みたのも、たぶんそのせい。
…またここに来た理由は分からない。
でも、今は、自分とこの子以外には誰もいない。
クノお兄ちゃんも、流も、誰もいない。
「ねぇ。あなたの名前は、なんていうの?」
聞いても、答えてくれない。
それが寂しいのか、哀しいのか、涙が溢れてきた。
いくら服の袖で拭いてもダメだった。
「なんで…。なんで、教えてくれなかったの…?」
立ち上がって、顔のところまで歩いていく。
この前まではモヤモヤしていて見えなかったけど、明日香の顔にとてもよく似ていて。
でも、明日香よりもずっと大きい。
口のところなんて、腕を広げて抱き締めても、半分がやっとだった。
シフみたい。
「まだ温かいよ…。ねぇ、何か言ってみてよ…。なんでも答えてあげるよ…?」
でも、返事はなかった。
どうして?
なんで、あんなに急に?
分からないよ…。
「帰ってきてよ…。まだ、いっぱい、いっぱい、話したいことがあるのに…。これからだったんじゃない…。やっと、あなたの姿が見えたのに…」
と、そのとき、足音が聞こえた。
そっちの方を振り向くと、明日香がいて。
「ずっと探してた」
「明日香…」
「そっか。私の声を聞けるようになったのは、この子に少しずつ近付いていたからなんだね」
「うん…」
「まだ間に合う。今度は、私の番だね」
「えっ?」
「治癒」
明日香が、一瞬光った…ような気がした。
でも、そんなことは本当はどうでもよくて。
「うっ…ん…」
「あっ!」
「ルウェ…?」
「うん!」
「本当に…?なんで、私…」
「久しぶりだね」
「あなたは…!」
「…知り合いなの?」
「うん。ちょっとした、ね」
明日香が何をしたのかは分からなかったけど、でも、黄昏の子がまた意識を取り戻した。
それが、今はとても嬉しくて。




