142
琥珀はいた。
長い廊下の先に。
翔お兄ちゃんと一緒に来た、あの廊下。
前と同じ、黒い霧みたいになって。
(琥珀…?これが?)
「うん」
(霧じゃない)
「これは、情報だって言ってた。変化に必要な」
(あぁ、変化…)
(でも、ちょっとバラバラすぎるような…)
(うん…)
七宝は真剣な顔になって。
…自分には、これがどういう状態なのかは分からない。
でも、七宝が言う通り、前に見たときよりも霧は薄い気がした。
「どうすればいいのかな」
(うーん…。世界に繋ぎ止めるんだから、糊でくっつけるとか?)
(…糊なんて、どこにあるのさ。とりあえず、琥珀から何らかの接触がない限り、ボクたちは何も出来ない…って、長老さまが言ってた)
「そうなの?」
(うん…)
(でも、何らかの接触なんて言っても、こんな状態じゃ接触も何もないような…)
「琥珀が接触出来ないなら、自分たちから接触すればいいんだぞ」
(えっ?)
目の前の霧に触る。
霧だから、何の感触もないんだけど。
でも、変化はあった。
(ルウェ…?)
「うん」
(なんでここに…?)
「琥珀を助けにきたの」
(なんで…そんな…)
「琥珀は、大切な家族だから」
(でも、わたしは弱いし、ルウェにも迷惑を掛けてる…。そんなだったら、このまま消えた方がいいよ…。わたしは足手まといだから…)
「足手まといなんかじゃないよ。それに、琥珀がいなくなったら哀しいんだぞ…」
(哀しい…?なんで…?)
「家族だから。自分の、大切な」
(家族…)
「うん。だから、一緒に帰ろ?」
(………)
「琥珀?」
(無理だよ…)
「琥珀!」
そのまま、霧は消えてしまった。
同時に、強い目眩がして。
(ルウェ!)
(だ、大丈夫?)
「うん…」
(何があったの…?霧も消えちゃったけど…)
「琥珀とちょっと話してた…。それより…次…行こ…」
(次って…。ルウェが回復するまで待った方が…)
「自分以上に、琥珀は苦しんでる…。だから、こんなの…!」
なんとか立ち上がる。
世界はグルグル回っていたけど、それも次第にゆっくりになっていって。
「大丈夫…」
(ルウェ…)
「次は…厨房…」
急激に重くなった足は、全く言うことを聞いてくれなかったけど。
でも、なんとか前に進んでいく。
一番苦しいのは、琥珀だから…。
厨房には、響が寝ていた。
…響じゃなくて、変化した琥珀だけど。
「琥珀」
「………」
「起きて、琥珀」
「…なんで、また来たの?」
「琥珀を助けたいからなんだぞ」
「なんで?」
「なんでって、大切な家族だからって…。さっきも言ったよね?」
「…覚えてない」
「琥珀…?」
「なんでわたしに構うの?そりゃ、いろいろと助けてもらったけど。でも、わたしは恩に報いることは出来ない。このまま消えてしまうのが、一番の恩返しなんだよ?」
「なんで、そんな哀しいこと、言うの…?」
「哀しい?なんで?重たくて、全く何の役にも立たない荷物が一個減るんだよ?良いことじゃない、とても」
「琥珀…」
「もう構わないで。わたしは、ルウェの言う大切な家族なんかじゃないから」
そして、琥珀は消えてしまった。
…なんで?
なんで、あんなに哀しい目をしてたの?
琥珀…。
(ルウェ…)
(大丈夫…?)
「うん…」
もう立っていられないくらい、グラグラと揺れている。
それは、目眩だけでなく。
この世界が崩れ始めているのが分かった。
(もういいじゃない…。あんなに冷たくされたのに、なんでそこまで一所懸命になれるの?)
「………」
(帰ろ?このままじゃ、ルウェが危ないよ…)
「あと一回だけ」
(え…?)
「あと一回。次が最後だから。だから、手伝ってくれる?」
(うん…。ルウェがそう言うなら…)
「河原に行こ…」
(うん…)
あと、もう一回だけ。
たぶん、それ以上は無理だってことは分かる。
だから、次で絶対に連れて帰る…!
河原には、自分が座り込んでいて、時の止まった水を眺めていた。
どこか、寂しそうな影を背負って。
「琥珀」
「………」
「一緒に帰ろ?」
「…なんで」
「え?」
「なんで、ルウェはそんなに優しいの?さっき、酷いことを言われたばかりじゃない…」
「琥珀が、本当にそんなことを言ってないっていうのが分かったから」
「………」
「ね?」
「…なんで分かっちゃったのかな」
「自分は、琥珀のこと、信じてるもん。琥珀は、そんなこと言わないって」
「…ルウェって、どうしてそんなに信じられるの?普通、あんなことを言われたら、もういいやってなるんじゃないの?」
「琥珀と契約したんだもん。自分を信じてくれる人を信じないで、誰を信じるの?」
「…すごいね、ルウェは。わたしには、そんなこと、出来ないよ」
「そんなことない。琥珀にだって出来るよ」
琥珀の姿を指差すと、琥珀は少し笑った。
でも、また哀しそうな目で河原の方を見る。
「姿だけはね。一緒かもしれない。でも、わたしはルウェじゃないから」
「琥珀は琥珀だよ。自分じゃない。だから、琥珀が思うように生きればいい。でも、琥珀は出来るから。自分を信じて。自分は、琥珀を信じているから」
「…うん」
「じゃあ…」
「だから、さよなら」
「えっ…?」
(ルウェ!)
琥珀に突き飛ばされて、川に落ちる。
追い掛けるように、悠奈と七宝も飛び込んでくる。
川はずっとずっと深くて、ずっとずっと沈んでいく。
光が届かなくなってきて、どんどん暗くなっていく。
琥珀の姿も、もう見えない。
そして、何も見えなくなった。
目を開けると、空には星が流れていた。
…戻ってきたんだってことが分かった。
「ルウェ」
「………」
「よく聞きなさい」
「琥珀は大丈夫なんだぞ」
「…ん?」
「絶対に、大丈夫だから」
「しかし、琥珀は…」
「自分は信じてるから。みんなのこと。だって、大切な家族なんだもん」
「家族、か…」
「うん」
琥珀はいなくなってなんかない。
だって、琥珀は今もここにいるんだから。
「あっ!」
「ん?」
「薫!」
「………」
薫は何も言わずに、口に咥えていたものを地面に下ろす。
それは…琥珀だった。
「どうして…」
「私にも分かりません。しかし、私はいつの間にか、崩壊する琥珀の世界にいました。無我夢中で目の前に倒れていたこの子を咥え、境界から脱出してきたのです」
「なんと…」
「琥珀の世界から琥珀自身を救い出すなど、こうやって帰ってきた今でも信じられません」
「あれは、琥珀の世界なんかじゃない」
「えっ…?」
「鏡の世界は時間が止まっていた。でも、琥珀の時間は動いている。あれは、琥珀が作り出した幻だったんだぞ。琥珀自身を閉じ込めるための…」
「………」
「琥珀は、ずっと自分に迷惑を掛けてたって思ってた。そう思う琥珀自身を変えられなかった。だから、なかなか世界に定着出来なくて、時間が止まった幻に閉じこもっていた」
(ルウェ…?)
「おはよ、琥珀」
目を覚ました琥珀の頭を撫でてあげる。
琥珀は、半分寝ぼけて、半分びっくりしたような顔をして。
(なんで…ルウェが…)
「もう一回、やってみよ?今度は上手くいくから」
(ルウェ…。ごめんね…)
ニッコリ笑い掛けると、琥珀はゆっくりと目を瞑った。
これからのために。
これから、新しい世界に向かうために。




